『僕はマゼランと旅した』スチュアート・ダイベック
[紡げ追憶]
Stuart Dybek I Saied with Magellan, 2003.
- 作者: スチュアート・ダイベック,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 2006/02/28
- メディア: 単行本
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ダイベックが根の底から「街と記憶」の作家なのだと知ったのは、去年に行ったダイベックの講演会からだ。そして音楽を意識する作家でもあるということも。冒頭のテネシー・ウィリアムズの引用は、本作品の方向性をよく表しているように思う。
「記憶のなかでは何もかもが音楽にあわせて起こる気がする」
舞台は、前作『シカゴ育ち』と同じシカゴのダウンタウンだが、今回はさらに描かれるものの「ダークさ」が増している。少年ペリーとレフティ叔父、家族に友達、周囲の人々の物語が、シカゴの路地のあちらこちらに散らばっているイメージ。
読んでいて、「むき出しで汚れてひどい、だからこその美しさがある」という、廃墟好きの友人の言葉を思い出した。ドブまみれのうんこ川、治安の悪いダウンタウン、アンダーグラウンドな酒場にたまる不良たち。ヤクもやるし盗みもやる。人だって殺してしまう。おそらくブコウスキーが書いたら「くそったれ!」な感じにしあがる題材(それはそれでおもしろいが)を、ダイベックはほとんど嫌悪を抱かせないように描く。
これは作家の手腕だなあと思う。安易なノスタルジーに入りこむようで、そうでない。この絶妙なバランスがすばらしい。以下、作品の一言感想。気に入ったものには*印。
歌:*
一番幼い幼少の記憶。はぐれ者のレフティ叔父さんと一緒に、歌を歌いながら酒場をめぐる。ルートビアって、確かに子供にとってはどこか大人の味がしたなと思う(まずいんだけどね)。表紙の女の子のシーンはここに収録されている。この視覚的美しさは必読かと。
ドリームズヴィルからライブで:
なつかしい。思わずそう思った作品。兄弟がいて、同じ部屋に寝ていた経験を持つ人なら、そう思うのでは。夜だけワンダーランドを作るとか、年下に課すポイント制とか、どこの国でもあまり変わらない。
引き波:*
父親と弟と、ユダヤ人のバザールへお買い物。父親のキャラクターがなんだかすてき。お父さんがジプシーに股間をつかまれるシーンには思わずくすりと笑った。
胸:*
マフィアの男が、とある男を殺そうとするけれど、なんだかうまくいかない。女性の胸、殺す時の心臓の位置、いろんな「breast」が出てきて、いろんな人の物語が絡み合う。脇役オンパレードのわりには、ものすごく印象的な話。
ブルー・ボーイ:
肌の青い、死ぬことが決定事項の少年をめぐる物語。病弱な人を「聖人」扱いして、物語として語ることは、やはり微妙な問題だとは思う。人を偲ぶやり方に、いいも悪いもないとは思うのだけど。
蘭:*
メキシコまで行って、野生の蘭を摘みにいく。どこかロードムービーぽい雰囲気。馬鹿をやる青春ぶりがよく出ている。最後の場面の映画らしさは、「歌」と通じるものがある。
ロヨラアームズの昼食:*
青春時代の、恋の物語。夜中に聞こえる声が、「Dont you wanna(やりたくないかい)」と言っているようでもあり、「ダナ」と女性の名をささやいているようでもあり。音の描写が美しい。
僕たちはしなかった:
浜辺で恋人としている最中に、人が死んでしまうシーンにでくわしてしまう。そこから生じる、どうしようもないズレ。僕たちはしなかった。僕たちはしなかった。フレーズはリズムのように繰り返し繰り返し、心臓の裏をたたく。
ケ・キエレス:
「お前、何の用だ」と繰り返し問われるけれど。移民の子であるダイベックらしい話。ダウンタウンには異国語が満ちている。
マイナー・ムード:*
出ていってしまった、レフティ叔父サイドの物語。おばあちゃんの風邪治しの儀式と踊りのシーンがすてきすぎる。ガラスの向こうに、過去の自分を見ることって、確かにある気がする。
ジュ・ルヴィアン:
レフティ叔父の葬式を抜け出して、香水を一本盗んで、見知らぬ女性に渡そうとする。大好きな叔父が死んだことによる動揺と、無意味な行動が、妙な切なさを誘う。
スチュアート・ダイベックの著作レビュー:
『シカゴ育ち』
『それ自身のインクで書かれた街』
recommend:
テネシー・ウィリアムズ『ガラスの動物園』…記憶の美しさ。
チャールズ・ブコウスキー『町で一番の美女』…こういう描き方もある。