ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『ペドロ・パラモ』フアン・ルルフォ

[死者は語る]
Juan Rulfo PEDRO PARAMO ,1955.

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

「誰しも同じ道を行くんだな、みんな去って行くんだ」


 メキシコうまれのフアン・ルルフォは生涯で、2冊の本しか出さない寡作の作家だった。1冊は短篇集『燃える平原』、そして本作『ペドロ・パラモ』。特にこの『ペドロ・パラモ』は、ラテンアメリカの文筆者によって、『百年の孤独』とともにラテンアメリカ文学のベストに数え上げられたという。

 『ペドロ・パラモ』、死者の記憶の断片だけでできた話。

 顔も知らない父親、ペドロ・パラモを、名だけを頼りに探しにきた「おれ」が、コマラというさびれた町にたどり着くところから物語は始まる。会う人、話す人、みんなたいてい死んでいて、しかも語り手もどんどん移動しながら、死者の記憶の断片が積もりに積もって、ぐるりと廻って収束する。

 死者は常に周囲にひそめいている。土の中でざわめき、嘆き、過去と隣人を思いかえしている。南米の風土は独特だな、と、ラテンアメリカ文学を読むたびに思う。
 なぜこうも淡淡と人が死に、殺されるのだろう。「メキシコの現実を描出し」と説明にあるが、日本にいる感覚からしたら、これが現実とはとても思えない。


 生者と死者、現在と過去、すべての断片をごちゃ混ぜにして、ひとつの袋に放り込んで、ペドロ・パラモにまつわる話(もはや神話のようでもある)が完成する。ガルシア・マルケスとその手法は似ているけれど、極力無駄を省いた硬派な文体が、饒舌に語り尽くすマルケスとは異なる。あの酔っぱらったようなマルケスの文章も好きだが、すべてを削ぎ落した鉱物のようなルルフォの文章もわたしは好きだ。
 語り手がぐるぐる変わるので、最初は読みにくいが、だんだんとくせになる。かなり凝ったつくりで、後から読み返すと、「ああ、これがあれとつながっているのか」といった発見がある。

「報いを受けはじめているんだ。早いとこけりをつけるにゃ、今からはじめた方がいいだろう」

 ペドロ・パラモにまつわる人びと、さてみんな土の中。小説の終わりから次を予測させない。ぐるぐる廻って土の中。


recommend:
フアン・ルルフォ『燃える平原』 (たった一つの短篇集)
フリオ・リャマサーレス『黄色い雨』 (誰もいない町、死がそこにある)


なんかの追記:

 以下、ラテンアメリカ文学で見られるあの独特の風土について、限定的な範囲で覚書。

 ラテンアメリカ文学は、60年代、日本では70年代に一世を風靡した。その理由は読んでいれば、なんとなく分かる気がする。彼らの驚きというのは、それこそコロンブスによる新大陸発見にも近かったのではないかと思う。ようするに、異文化なのだ。西洋とも東洋とも、何かが根本的に違っている。その最たるものが、死生観、人の生死に対する目線でないかと思う。

 南米の雑貨屋などを見ると、ドクロ模様が目に留まる。スペインによる侵略以降、敬虔なキリスト教圏になった南米で、なぜドクロ?と思ったものだが、インカ帝国展に行った時に納得した。インカ帝国は、死者の王国だったらしい。王様は死んだ後も、領地を持って、死体はミイラとして保存され、日々担ぎ上げられていたという。従者はひとりの王様にしか仕えない。それは、王が生きていても死んでいても変わらず、権力構造のピラミッドは、常に閉じて流動しない。つまり、時間がたてばたつほど、死者である王も増えて、領地は細分化され、死者の王がざわめく帝国となった。
 なんというか、すごい。しかもこうしたミイラ信仰は、今現在も残っているらしい。

 南米では、生者と死者は、同じフィールドに存在し続ける。クリスチャンとして教会で祈りながら、先祖のミイラにも同じ祈りを捧げる。

 結局、ローカリゼーションなんだな、と思う。異文化によって花がつまれたとしても、根っこは残り、また新しい芽を出す。文化帝国主義とかいう話は80年代に流行ったが、そうそう簡単に文化など征服できないと、世界を見ていてつくづく思う。異文化排斥運動とか見てると、「意外とみんなしぶといよ、心配しなくても大丈夫だって」などとついつっこみたくなる。まあ、私はけっこうな多文化主義者なので、そう思うのかもしれないが。