ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『ヴェネチア風物誌』アンリ・ドレニエ|妖術と魔術と幻覚の土地

まったく、ここは奇異なる美しさの漂う不思議な土地ではないか? その名を耳にしただけで、心には逸楽と憂愁の思いが湧き起こる。口にしたまえ、<ヴェネチア>と、そうすれば、月夜の静寂さのなかで砕け散るガラスのようなものと音を聞く思いがしよう……<ヴ…

『ラングザマー 世界文学でたどる旅』イルマ・ラクーザ|ゆっくりすることへの愛

いまでもそうだが、私は自分の本をほかの人にはどうしても貸したくない。どの本とも一つの(あるいは私の)愛の物語があり、ある本のカバーを見るだけでその本のストーリーだけでなく、そのストーリーとどのように私が関わったかということが呼び起こされる…

『レス』アンドリュー・ショーン・グリア|ゲイ中年×世界文学の失恋コメディ

「ほとんど五十歳って、変な感じだろ? ようやく若者としての生き方がわかったって感じるのに」 「そう! 外国での最後の一日みたいですよね。ようやくおいしいコーヒーや酒が飲める場所、おいしいステーキが食べられる場所がわかったのに、ここをさらなけれ…

『サンセット・パーク』ポール・オースター|ホームを失った廃屋のアメリカ

なぜ自分はいま戻ることを選んだんだ? 選んだのではない。彼を殴り倒し、フロリダからサンセット・パークなる場所に逃げることを敷いたあの大きな拳骨が彼に代わって選択したのだ。やはりこれもまたサイコロの一振り、黒い金属の壺から掴み取ったもう一枚の…

『鷲の巣』アンナ・カヴァン|この世界には居場所も役割もない

「いったいどうしちゃったんです? どうしてなにもかもだいなしにしようとするんです? どうしてきのうまでとおなじようにしていてくれないんですか?」 ーーアンナ・カヴァン『鷲の巣』 世界で皆の気分が落ちこんでぴりついている時に、読んだら落ちこむと…

『回復する人間』ハン・ガン|静かな重症者たちの声なき叫び

そんなことより私は泣き叫びたい。髪を振り乱し、足を踏み鳴らしたい。歯を食いしばり、動脈がちぎれたときにそこからほとばしる血を見たい。 ーーハン・ガン『回復する人間』 めまいがするほど率直に、「回復する人間」にまつわる短編集だ。 短編の語り手た…

『中央駅』キム・ヘジン|彼方からくる最悪を待つ

プライドや自信。そういうものが本当にあるとすれば、それは自分の手で捨てられるものではない。捨てるのではなく、心ならずも落としてしまうのだ。そして、二度と取り戻せなくなるのだ。今や俺にできることは、かなたからくる最悪を待つことだけだ。 ーーキ…

『春の宵』クォン・ヨソン|酒が人生に染みついた酒人間の語り

「一秒、一秒ごとに、アルコールのメシアが入ってくるのを感じるのですよ」 ーークォン・ヨソン 『春の宵』 健康診断の問診票で「酒をどれぐらい飲むか」という質問を見るたびに、酒は多くの人にとって非日常のものなのだと思いだす。「ほとんど飲まない」「…

『外は夏』キム・エラン|心はあの季節に静止したまま

「理解」は手間がかかる作業だから、横になるときに脱ぐ帽子みたいに、疲れると真っ先に投げ捨てるようにできてるの。 ーーキム・エラン『外は夏』 季節や年月は、すべての人に平等にやってくる。 だがそれは物理法則の話であって、心について言えば、そうと…

『惨憺たる光』ペク・スリン|心のやわらかい場所につながる薄闇

決して死にたかったわけではない。ただ闇のほうがなじみ深かっただけ。 ーーペク・スリン『惨憺たる光』 「光」という単語は、明るさ、まぶしさ、あたたかさ、希望や展望、といった前向きな印象で語られることが多いが、本書における「光」は、惨憺たるもの…

『孤独の迷宮』オクタビオ・パス|死は最も愛する玩具

我々は、本当に異なっている。 しかも本当にひとりぼっちである。 ーーオクタビオ・パス『孤独の迷宮』 私にとってメキシコは、ゆるやかながらも息の長い縁がある国だ。小さい頃に住んでいた町には老舗メキシコ料理店があって、祝いの時にはメキシコ料理を食…

『服従』ミシェル・ウエルベック|改宗します、それなりの待遇であれば

ぼくは人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく…厭な気分になるだけだった。しかしながら、不愉快ではあったが、ぼくは、その人類なるものがぼくに似通っていて、まさにそれが故にぼくは逃げ出したい気持ちになる…

『アオイガーデン』ピョン・ヘヨン|悪臭と腐敗にまみれたパンデミック都市

それらすべてを抜いて、いざ街を占領しているのは悪臭だった。都市全体が腐乱しながら悪臭を漂わせている。偏頭痛を起こし、舌を鈍らせ、鼻を詰まらせ、絶えず吐き気を催させる悪臭だ。悪臭は都市を構成する有機物の一つになっている。その悪臭の真中にアオ…

『ある島の可能性』ミシェル・ウエルベック|望みが叶わない人生の苦痛とその解放

僕がセックスで幸せを感じるためには、少なくとも――愛がないのであれば――同情か、尊敬か、相互理解が必要だった。人間性、そうなのだ、僕はそれを諦めてはいなかった。 ――ミシェル・ウエルベック『ある島の可能性』 幸せはどこまでも主観的なものであり、他…

『パストラリア』ジョージ・ソウンダース|アメリカンドリームの陰にいる人たち

「すべてを手に入れる人間もいるっていうのに、あたしはどうしてなんにも手に入れられなかったんだ? どうしてなんだ? いったいどうしてなんだ?」 ーージョージ・ソウンダース『パストラリア』 「アメリカ人の下層半分を合計すると、彼らの純資産はマイナス…

『夜』エリ・ヴィーゼル|日常の底が抜ける時

「黄色い星ですって。なんですか、そんなもの。それで死んだりはしませんよ……」 ーーエリ・ヴィーゼル『夜』 歴史を振り返るにつけ、生活が根こそぎ変わってしまう激震は、巨大な隕石が落ちるようにまったく突然にやってくるものと、水温が上がるようにじわ…

『十二月の十日』ジョージ・ソーンダーズ|ポップで過酷な選択の岐路

あれは今まで食らったいろんなヤキの中でも最大級にきついヤキだった。最近じゃもう、加速度的にきつさを増すヤキ入れられの連続こそが自分の人生なんじゃないかと思えてくるほどだ。 ーージョージ・ソーンダーズ「アル・ルーステン」 この短編集には、「選…

『フライデー・ブラック』ナナ・クラメ・アジェイ=ブレニヤー|人種差別のディストピア・アメリカ

「たくさん買えましたか?」と俺は訪ねた。彼女は激しくうなずくと、テレビが入った箱の表面を撫でた。「ご家族はまだ買い物中で?」 女性は目の前の血溜まりの中に、人差し指を突っ込んだ。 「四十二インチ、HD」と彼女は言った。 この家族がこのテレビを変…

『チャイルド・オブ・ゴッド』コーマック・マッカーシー|孤立と貧困で転落する神の子

蝙蝠の群れが去ったあとは煙出しの穴から見える冷たい星の大集団を眺めてあれらの星は何でできているのか、自分は何でできているのかと考えた。 コーマック・マッカーシー『チャイルド・オブ・ゴッド』 「なぜつらい小説を読むのか、つらい話が好きなのか」…

『血と暴力の国』コーマック・マッカーシー|出会ってしまったら終わりの災厄

出直しなんてできないんだ。そういう話だよ。きみのどの一歩も永遠に残る。消してしまうことはできない。どの一歩もだ。言ってることわかるかい? ーーコーマック・マッカーシー『血と暴力の国』 『悪の法則』と『血と暴力の国』は異なる手法で同じマッカー…

『悪の法則』コーマック・マッカーシー|処刑器具として動き出す世界

自覚しておいてほしいのはあんたの運命はもう固まってるってことだ。 ーーコーマック・マッカーシー『悪の法則』 たとえば国境をわたる時、私たちはたいてい、自分の歩く道は自由に行き戻りできる双方向の道で、ちょっと冒険に出てもすぐに戻ってこられると…

『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー|愛に満ちた理想の家族という幻影

「度しがたい道徳家なんだなあ、きみは」 ――アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』 人間は自分が見たいように世界を見るし、自分が見たいように他者を見る。自分に似たところを見つけたり、自分がなりたい姿を見出せば、他者を好きになるし、自分にある…

『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー 』シモーヌ・ヴェイユ|不幸の底へ下り、愛へ飛躍する

わたしたちが生きており、その微小な部分をなしているこの宇宙は、神の<愛>によって神と神とのあいだに置かれたこの距離である。わたしたちはこの距離における一点である。時間・空間、物質を支配しているメカニズムは、この距離である。わたしたちが悪と…

『秘義と習俗』フラナリー・オコナー|私は南部とキリスト教の小説家

真のカトリック小説は、人間を決定されたものとは見ない。人間を、まったく堕落したものと見ることはない。かわりに、本質的に不完全なもの、悪に傾きやすいもの、しかし自身の努力に恩寵の支えが加われば救済されうるものと見るのである。 ――フラナリー・オ…

2019年は休む年だった

2019年は、休む年だった。 ここ数年ほどなにかに取り憑かれていたらしく、人生にいろいろ詰めこみすぎて、動き続けていた。刺激的で楽しかったけれど、やはり無理がきていたのだろう。2018年12月にふつりとなにもしたくなくなった。メールを見るのに1か月か…

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー |目の中の丸太を叩き落とす、劇的な一瞬

「なにを言うの! 田舎の善人は地の塩です! それに、人間のやりかたは人それぞれなのよ。いろんな人がいて、それで世の中が動いてゆくんです。それが人生というものよ!」 「そのとおりですね。」 「でも、世の中には善人が少なすぎるんですよ!」 ーーフラ…

『重力の虹』トマス・ピンチョン|重力を切り裂いて、叫べロケット

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられて履いても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… ーートマス・ピンチョン『重力の虹』 これま…

『アメリカ南部』ジェームス・M・バーダマン丨アメリカの内なる異郷

南部は奴隷制度に対する考え方にとどまらず、経済、農業政策、政治的展望などの点においても北部と意見を異にしていた。今日、奴隷制度は廃止され、政治風土も大きく変わり、メディアという媒体の発達を通じてアメリカの均質化は進む一方である。しかし、そ…

『砂の子ども』ターハル・ベン=ジェルーン|砂のように曖昧な存在の私

今は嘘と欺瞞の時代です。ぼくは、存在か、それともイメージなのか。肉体か、それとも権威なのか。枯れた庭の石か、それとも動かぬ木ですか。言ってください。ぼくは何者なのか。 ――ターハル・ベン=ジェルーン『砂の子ども』 私の心にはおそらくずっと地平…

『ペルセポリス』マルジャン・サトラピ|イスラム原理主義に変わった故郷

生のことだけ考えていたかった。でも、それはやさしいことではなかった ――マルジャン・サトラピ『ペルセポリス』 これまでできていたことができなくなったり、話せたことが話せなくなったり、選べていたものが選べなくなったり、やらなくてよかったことをや…