『イタリアの詩人たち』須賀敦子|心に根を張った5人の詩人たち
おおよそ死ほど、イタリアの芸術で重要な位置を占めるテーマは他にないだろう。この土地において、死は、単なる観念的な生の終点でもなければ、やせ細った性の貧弱などではさらにない。生の歓喜に満ち溢れればあふれるほど、イタリア人は、自分たちの足につけられた重い枷ーー死ーーを深く意識する。彼らにとって、子は生と同様に肥えた土壌であり、肉体を持った現実なのである。
ーー須賀敦子 『イタリアの詩人たち』
夏休みに架空のヴェネツィアに立ち寄ってから、イタリアの路地裏を歩き続けて、須賀敦子のイタリアまでやってきた。
イタリアの詩人と須賀敦子は、古く深い関係にある。須賀敦子はイタリア文学の翻訳とエッセイで名高いが、彼女が日本に帰国してはじめて寄稿した文章は、イタリア詩人についての連載、つまり本書だった。
続きを読む『ヴェネチア風物誌』アンリ・ドレニエ|妖術と魔術と幻覚の土地
まったく、ここは奇異なる美しさの漂う不思議な土地ではないか? その名を耳にしただけで、心には逸楽と憂愁の思いが湧き起こる。口にしたまえ、<ヴェネチア>と、そうすれば、月夜の静寂さのなかで砕け散るガラスのようなものと音を聞く思いがしよう……<ヴェネチア>と。それはまた陽の光を受けて引き裂ける絹の織物の響きさながら……<ヴェネチア>と。そして色という色は入り混じって、変わりやすい透明な一色となる。この地こそは、まさに妖術と魔術と幻覚の土地ではないか?
ーーアンリ・ドレニエ『ヴェネチア風物誌』
ヴェネツィアを訪れたことは2回ある。いずれも夏で、光と人々の喧騒に満ちたヴェネツィアが、私の記憶にあるヴェネツィアだ。
だが本当は、冬のヴェネツィア、100年前のヴェネツィア、詩人たちが描くヴェネツィアを訪れてみたい。
続きを読む『レス』アンドリュー・ショーン・グリア|ゲイ中年×世界文学の失恋コメディ
「ほとんど五十歳って、変な感じだろ? ようやく若者としての生き方がわかったって感じるのに」
「そう! 外国での最後の一日みたいですよね。ようやくおいしいコーヒーや酒が飲める場所、おいしいステーキが食べられる場所がわかったのに、ここをさらなければならない。しかも、二度と戻って来れないんです」
ーーアンドリュー・ショーン・グリア『レス』
『レス』は、失恋の悲しみを泣き笑いで語る、失恋コメディだ。失恋三重苦ーー 過ごした時間が長い、相手がいきなり別の人を好きになった、歳をとっての失恋と、ひとつだけでもつらい失恋の苦しみが、3つまとめてやってくる。
続きを読む『サンセット・パーク』ポール・オースター|ホームを失った廃屋のアメリカ
なぜ自分はいま戻ることを選んだんだ? 選んだのではない。彼を殴り倒し、フロリダからサンセット・パークなる場所に逃げることを敷いたあの大きな拳骨が彼に代わって選択したのだ。やはりこれもまたサイコロの一振り、黒い金属の壺から掴み取ったもう一枚の宝くじ、さまざまな偶然とはてしない騒乱から成る世界におけるまたもうひとつの偶然なのだ。
ーーポール・オースター『サンセット・パーク』
いつかは終わることがわかっている、仮暮らしの生活をしていたことがある。当時、私は2年の間に5回、住処を変えた。1つは気まぐれ、1つは計画、残りは拒否しようがない事情と偶然だった。
ある住処から1か月以内に退去しなければならないけれど、行く場所がなにも決まっていなかった時、Facebookで偶然に「半年だけの同居者を求める、家賃は4万、条件はお互いの事情に口を挟まないこと」という先輩の告知を見つけた。なんという、うってつけの条件。これが小説の草案だったら「都合がよすぎる」と却下されるであろう偶然に恵まれた私は、スーツケースに荷物をまとめて布団を背負い、タクシーで引っ越しをした。 あれはなかなかにオースター的な偶然、『サンセット・パーク』的な日々だったと思い出す。
続きを読む『鷲の巣』アンナ・カヴァン|この世界には居場所も役割もない
「いったいどうしちゃったんです? どうしてなにもかもだいなしにしようとするんです? どうしてきのうまでとおなじようにしていてくれないんですか?」
ーーアンナ・カヴァン『鷲の巣』
世界で皆の気分が落ちこんでぴりついている時に、読んだら落ちこむとわかっているカヴァンの小説をなぜ読もうと思ったのか、今となっては定かではない。本棚を整理していた時に、『鷲の巣』表紙の巨大な白い滝と目があったところまでは覚えていて、気がついたら後戻りできないところまで読んでいた。彼女の小説は、人情と正気が皆無の人たちと、巨大で圧倒的なビジョンがそびえたつ異様な世界観で、読み終わるまで抜け出せないところが困る。
続きを読む『回復する人間』ハン・ガン|静かな重症者たちの声なき叫び
そんなことより私は泣き叫びたい。髪を振り乱し、足を踏み鳴らしたい。歯を食いしばり、動脈がちぎれたときにそこからほとばしる血を見たい。
ーーハン・ガン『回復する人間』
めまいがするほど率直に、「回復する人間」にまつわる短編集だ。
短編の語り手たちは、体か心、あるいは両方に傷を負っている。「回復する人間」の語り手である女性は、お灸でできた火傷を放置していたため、細菌感染して踝の下に穴があいてしまう。読んでいるだけで身震いするような傷を放置していた理由は、そうせざるをえないぐらい傷ついていたからだった。
身体の静かな重症から、傷を放置してしまうほど根深い、心の静かな重症が見えてくる。
続きを読む『中央駅』キム・ヘジン|彼方からくる最悪を待つ
プライドや自信。そういうものが本当にあるとすれば、それは自分の手で捨てられるものではない。捨てるのではなく、心ならずも落としてしまうのだ。そして、二度と取り戻せなくなるのだ。今や俺にできることは、かなたからくる最悪を待つことだけだ。
ーーキム・ヘジン 『中央駅』
貧困に至る道は、行きと帰りの困難さが違っている。貧困には階段を下るようにゆっくりと降りていく。いざ貧困から抜け出そうとすると、これまで降りてきた高さだけの断崖が目の前にそびえ立つ。
かつていた場所に戻るには、相当な時間と補助と努力と運が必要なのだが、疲れ切っている人たちにはもうふんばる余力が残っていなかったり、補助と運がやってきてもみずからその手を放してしまったりする。
続きを読む『春の宵』クォン・ヨソン|酒が人生に染みついた酒人間の語り
「一秒、一秒ごとに、アルコールのメシアが入ってくるのを感じるのですよ」
ーークォン・ヨソン 『春の宵』
健康診断の問診票で「酒をどれぐらい飲むか」という質問を見るたびに、酒は多くの人にとって非日常のものなのだと思いだす。「ほとんど飲まない」「時々」「毎日」。この選択肢のうち「毎日」を選ぶ人は、私が考えているよりもきっとずっと少ない。
『春の宵』は、問診票で「毎日」を選ぶ人の小説、酒と人生が混然一体となった酒人間たちの小説だ。
続きを読む『外は夏』キム・エラン|心はあの季節に静止したまま
「理解」は手間がかかる作業だから、横になるときに脱ぐ帽子みたいに、疲れると真っ先に投げ捨てるようにできてるの。
ーーキム・エラン『外は夏』
季節や年月は、すべての人に平等にやってくる。
だがそれは物理法則の話であって、心について言えば、そうとは限らない。
季節や年月は、人によって過ぎ方が違う。吹き飛ぶように過ぎたり、同じ季節のままずっと静止し続けたりする。
続きを読む『惨憺たる光』ペク・スリン|心のやわらかい場所につながる薄闇
決して死にたかったわけではない。ただ闇のほうがなじみ深かっただけ。
ーーペク・スリン『惨憺たる光』
「光」という単語は、明るさ、まぶしさ、あたたかさ、希望や展望、といった前向きな印象で語られることが多いが、本書における「光」は、惨憺たるもの、人を呆然とさせるものとして描かれる。それはおそらく炎天下の砂漠のような光で、思考を吹き飛ばし、世界と人生に一時停止をかける。
だから登場人物たちは、光ではなく、闇のほうに目を向ける。闇は薄暗く、穏やかで、心のやわらかいところとつながっている。
続きを読む『孤独の迷宮』オクタビオ・パス|死は最も愛する玩具
我々は、本当に異なっている。 しかも本当にひとりぼっちである。
ーーオクタビオ・パス『孤独の迷宮』
私にとってメキシコは、ゆるやかながらも息の長い縁がある国だ。小さい頃に住んでいた町には老舗メキシコ料理店があって、祝いの時にはメキシコ料理を食べていた。いまでも私にとって祝いのごちそうはメキシコ料理とロシア料理だ。
また、曽祖父の家がある伊豆で「東海のメキシコ」こと伊豆シャボテン公園を訪れることが、毎年夏休みの定番だった。伊豆シャボテン公園は巨大なサボテンの群れにまじって、メキシコ政府から送られた遺跡のレプリカたちが佇んでいる。なんとも異界めいている。
そんなわけでメキシコは、日常にゆるく偏在している南米の国だ。だから南米文学を読んで感極まって南米旅行を計画した時には、迷わずメキシコとペルーを選んだ。 メキシコの記憶はもはや断片的だが、アステカ族とマヤ族の遺跡、 髑髏で飾られた教会、風に揺られる色鮮やかな布と髑髏人形、バスや電車で歌う流しのミュージシャン、やたら速く閉まる電車のドア、博物館に飾られる古代の神々のことを覚えている。
続きを読む『服従』ミシェル・ウエルベック|改宗します、それなりの待遇であれば
ぼくは人間に興味を持っておらず、むしろそれを嫌っていて、人間に兄弟愛を抱いたことはなく…厭な気分になるだけだった。しかしながら、不愉快ではあったが、ぼくは、その人類なるものがぼくに似通っていて、まさにそれが故にぼくは逃げ出したい気持ちになることを認めざるを得なかった。
ーーミシェル・ウエルベック『服従』
学生の頃からフランス語に苦手意識がある(リエゾンと発音のややこしさがおそろしい)のだが、長く続く友人はふしぎとフランス語の話者が多く、彼らのおかげでフランス語やフランス文化にふれあう機会が増えた。
彼らフランス人間たちとフランス文学について話している折、「フランスが誇る非モテの王」*1ことウエルベックの話が出たので、酔った勢いで、私以外の全員がフランス語を話すメンバーでウエルベック読書会をすることにした。
*1:パリに住む友人とそのパートナーによる表現で、やたら笑ったので使わせてもらった
『アオイガーデン』ピョン・ヘヨン|悪臭と腐敗にまみれたパンデミック都市
それらすべてを抜いて、いざ街を占領しているのは悪臭だった。都市全体が腐乱しながら悪臭を漂わせている。偏頭痛を起こし、舌を鈍らせ、鼻を詰まらせ、絶えず吐き気を催させる悪臭だ。悪臭は都市を構成する有機物の一つになっている。その悪臭の真中にアオイガーデンがある。
ーーピョン・ヘヨン『アオイガーデン』
私の人生におけるもっとも強烈な悪臭体験は、モンゴル平原で遭遇した、深さ2メートル、直径2メートルほどの巨大な糞便穴である。遊牧民のパオの近くにあったその穴は、彼らとその客が使うトイレで、穴の端に渡してある2枚の板のすきまから用を足すものだった。板のすきまからのぞきこんだ2メートル下の穴底は、糞便が大量に堆積していて、地獄のように黒く、涙を流すほどの悪臭が押し寄せた。臭気に「押される」感覚がしたのは、後にも先にもあの時だけだった。
悪臭は耐えがたくおぞましいが、この悪臭の源は、かつて人間の体内にあったもので、今も自分の体内にあるものだ。ピョン・ヘヨンの小説は、自分がいずれ腐っていく有機物であることを思い出させる。
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