ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『秘義と習俗』フラナリー・オコナー|私は南部とキリスト教の小説家

真のカトリック小説は、人間を決定されたものとは見ない。人間を、まったく堕落したものと見ることはない。かわりに、本質的に不完全なもの、悪に傾きやすいもの、しかし自身の努力に恩寵の支えが加われば救済されうるものと見るのである。

 ――フラナリー・オコナー『秘義と習俗』

 

小説家が、作品の意図や背景について語ることはめずらしい。小説家は小説で語り、読みは読者にゆだねる存在だと思っていた。ところがフラナリー・オコナーは『秘儀と習俗』で、自分の作品に通底するものや背景、作品の意図についてびっくりするほど率直に語る。

秘義と習俗―フラナリー・オコナー全エッセイ集

秘義と習俗―フラナリー・オコナー全エッセイ集

  • 作者: フラナリーオコナー,サリーフィッツジェラルド,ロバートフィッツジェラルド,Flannery O'Connor,Sally Fitzgerald,Robert Fitzgerald,上杉明
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 1999/12
  • メディア: 単行本
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著者と作品を形作るものについてのエッセイ集である。オコナーといえば「南部」「キリスト教」がその特徴としてあげられる。作品を読んでいる時、著者が「南部」「キリスト教」についてどう考えているのかが気になっていたが、本書ではその問いへの答えが書いてある。

私の書物に性格を与えた環境上の事実は、南部人であることと、カトリック教徒であることの2つである。

彼女にとってキリスト教は「秘儀」、南部は「習俗」であり、秘儀と習俗を表すことが小説だという。

習俗(マナーズ)をとおして秘義(ミステリー)を具体的に表すのが小説の務めである。…秘義とは、この世にわれわれが在る常態についての神秘であり、習俗とは、芸術家の手を経てそのわれらの存在の中心的神秘を明らかにするような、しきたりのことである。

オコナーの小説は似た構成が多いと思っていたが、なるほどここまではっきりと「小説とはなにか」を決めているならと納得する。そしてオコナーは「南部」「キリスト教」をとても重視し、誇りを持っていることがわかる。

習俗は、作家にとって非常に重大なものであって、だからどんな種類の習俗(マナーズ)でも用に足るのだ。野卑な習俗だって、ぜんぜんないよりよい。われわれ南部人は常態の習俗(マナーズ)を失いつつあるから、きっと必要以上にそれを意識するのだが、こういう状況は作家を生み出すのに適しているようだ。 

われわれのほとんどがここしばらく見てきた苦悩は、南部が国全体から孤立しているということが原因で起きたのではなく、孤立が十分ではないという事実によって引き起こされたのである。 

私にとって生の意味は、キリストによる罪の贖いを中心にしているということであり、この世で私がものを見るとすれば、そのものがこの贖罪とどう関わるかという点をとおして見るのである。

 

オコナーの激烈な一撃をもたらす手法についても、本人の言葉があった。これには驚いた。

キリスト教を心に留める小説家は、自分にとっては不快な歪みを現代生活の中にきっと見出すものだ。そして彼は、その歪みを当然と見ることに慣れた読者に、歪曲を歪曲と見させることを自分の問題とするはずである。そんな敵意ある読者に、作家が、自分の想像を誤りなく伝えるために、いやましに暴力的な方法をとらざるをえかったとしても、それは当たり前というものである。

…作家は、自分のヴィジョンを明確に伝えるために、衝撃を加えるという手段に頼らざるを得ないのである。耳の遠いものには、大声で呼びかけ、ほとんど目の見えぬ者には、図を示すと大きくぎくりとさせるような形に描かねばならぬのと同じ道理である。 

現代小説で非常に多く暴力が使われる理由は、作家によってちがうと思うが、私の作品では、人物たちを真実に引き戻し、彼らに恩寵の時を受けいれる準備をさせるという点で、暴力が不思議な効力を持つということに気づくからである。人物たちの頭は非常に固くて、暴力の他に効き目のある手段はなさそうだ。真実とは、かなりな犠牲を払ってでもわれわれが立ち戻るべき何かである、という考えは、気まぐれな読者にはなかなか理解されない。しかし、それはキリスト教の世界観にはもともと内在する考えなのだ。

 ここまではっきりと自分で言い切ってしまうとは! 

オコナーは身近に感じる習俗を用いて、私たちに近い人物を描き、読者にもたらす効果を狙っている。はっと目が覚める一撃という点では、その試みは成功していると思う。一方で、彼女がめざす「理想の人間」を読者が受け取れるかどうかはわからない。読書会でも、一撃の効果については皆が気づいたが「ならばどういう人間を理想としているのか」については、迷う声が多かった。

下記の一文は、読者とオコナーの距離をあらわす、ユーモアあふれる一文だと思う。オコナーが本気なのか真顔ギャグなのかは判断が難しいところではあるが。

一度、カリフォルニアに住む年寄りの女性から手紙をもらったことがあるが、彼女の言うところによれば、労働に疲れて夜に帰宅する読者は、何か心を明るくするものを読みたいものだそうだ。彼女の心は、私の作品のどれを読んでも明るくならなかったらしい。私は、彼女の心の在処さえ正しかったら十分明るくなっただろうと思う。

フラナリー・オコナーの短編集を読んだ後で本書を読むと、また短編集を楽しめるようになるので、じつにおもしろい本だった。オコナー短編集とともに楽しむための本だと思うので、一緒に文庫化入りしてほしいところ。

 

 フラナリー・オコナーの著作レビュー

 

Related books

南部生まれの著者が簡潔にまとめた南部の文化と歴史。「アメリカの均質化は進む一方である。しかし、それでもなおかつ南部は南部であり続けている」という一文が、オコナーの言葉と似ている。

 

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー (河出文庫)

 

オコナーとヴェイユは、どちらもキリスト教と恩寵について語った。恩寵つながりでつなげて読んでみたら思いのほか響き合うものがあった。

 

死を与える (ちくま学芸文庫)

死を与える (ちくま学芸文庫)

  • 作者:J・デリダ
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2004/12/09
  • メディア: 文庫
 

 死と恩寵を結びつけて考えるところから連想した本。「死を与える」とは、聖書のイサク説話からきている。

 

2019年は休む年だった

2019年は、休む年だった。

ここ数年ほどなにかに取り憑かれていたらしく、人生にいろいろ詰めこみすぎて、動き続けていた。刺激的で楽しかったけれど、やはり無理がきていたのだろう。2018年12月にふつりとなにもしたくなくなった。メールを見るのに1か月かかったり、飲み会を設定するのに2か月かかったり、原稿を書くのに3か月かかるようになった。これはまずいと思って、いろいろ放り投げた。子供の世話以外は、全部やめるか一部やめるかした。

仕事の量を3分の1ぐらいに減らして、やらないと人生が回らないことだけ残したら、ここ数年でいちばん暇になった。いつもだったら、暇があればすぐいろいろ始めたがるけれど、新しいことをする気力がなかった。バッテリーセーブモード。あと15分で電源が切れます。そんな感じ。

しばらく寝落ちをくりかえす日々が続いた。それでも根がホリック気質で、なにかをしたがってしょうがないので、少ない体力ゲージでできること、慣れていて好きなことだけを選んだ。そうしたら、海外文学を読んで、読書ブログを書いていた。まあこうなるね、と思う。この飽き性の私が、10年以上続けているものなんて、ごはんと旅行と読書と書くことぐらいしかない。

そんなわけで、2019年はひさびさに小説を読んで、ブログを書いた。安定的に書けていたわけではない。これまでは読んだら書くサイクルで動いていたのに、読んでも書けない日が断続的に続いた。書けない時は諦めて、読むだけ読んで、書けそうな時にまとめて書いた。だから2019年前半は、たくさん書いている月と、ほとんど書いていない月が交互にある。半年ぐらい休んでいればどうにかなるかと思っていたけれど、気力が戻ってきたのは10月くらいからで、ようやく記事数がでこぼこしなくなった。

2019年にわかったのは、読んで書くことは、食べること、寝ること、歩くことと同じぐらい、私にとってバランスを保つために必要だということとだ。人生が低空飛行になって、だいたいのものを捨ててもなおこれらは残る。小説以外の本は読んでいたから大丈夫だろうと思っていたけれど、そうでもなかった。ここ数年は栄養不足や睡眠不足と同じぐらい、私にとっては不養生なことだったのだろう。自分のことがわかっていないと無理がくる。

まる1年休んでだいぶやる気が出てきたので、2020年はもうすこしいろいろ活動を戻したい。いきなり広げると、また人生を骨折するからほどほどに。

 

2019年に読書関連でやったこと

低空飛行ながらにできたこと。

Scrapboxで読書Wikiをつくった

2月、ウィリアム・ギャディス『JR』読書会のために、Scrapboxで読書Wikiをつくった。登場人物100人以上、900ページ、声だけで描かれる狂気の小説を読むには、手書きのメモではもはや追いつかないと思ったので始めてみた。Scrapboxはポストモダン小説と相性がいいとわかったので、『重力の虹』でもつくったら、ものすごく楽しめた。

ガイブン読書会・鈍器部を始めた

たぶん飲み会かなにかで「『重力の虹』読書会をやってくれ」と言われたので、酔っぱらいのノリで5月に『重力の虹』読書会を主催した。どうせならなにか楽しい名前をつけようと思って、ウィリアム・ギャディス『JR』から「鈍器」(500ページ以上の小説)が続いたので、鈍器部にした。

由来はこんなふうに適当だけど、鈍器小説は読書会向きだと思う。長いからつい後回しにしがちだし、長いから多様な切り口があるし、人によって見えるものが変わりやすい。あとは「高い本を買う理由になる」とも言われた。たしかに。

 

たくさん読書会に参加した

今年はおそらく人生でもっとも読書会に参加した年だった。

  • ウィリアム・ギャディス『JR』
  • トマス・ピンチョン『重力の虹』
  • ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』
  • エドゥアール・グリッサン『レザルド川』
  • フラナリー・オコナー『フラナリー・オコナー全短篇』

読書会は8年ぐらい前から参加しているものの、読書会そのものには年に1回ぐらい参加するだけで、もっぱら飲み会勢だった。今年はじめてまともに参加した。定期的に参加したり開催している人はすごい。

ブログの名前を変えた

4月にブログの名前を変えた。ブログを始めて11年になったし、前の名前は長いし、「ボヘミアの海岸線」という単語を使いたかった。いま思えば、だらりと休んでいろいろ変えたい気持ちがあったのだろう。 

海外文学以外の感想を書いた 

ブログの名前を変えたので、ついでに書く感想の幅をちょっとだけ広げてみた。これまでは、書く冊数が増えると締切が重くなることがいやで、海外文学の感想だけを書くように絞っていた。とはいえ、もともと記憶力が持たない私が子育てによりいろいろ忘れるようになったので、海外文学と海外文学に関係ありそうな本だけ、ブログに残しておくことにした。

ブログを常時SSL(https)化した

暇になったのでこれまでやれなかったことをやろうと思い、ようやっとSSL化した。SSL化すると一時的にGoogleランクが下がる。PVが半分ほどに下がり、検索にインデックスされない記事がたくさんあった。Google Search Consoleであれこれしつつ放っておいたら、半年ぐらい経ったところで数日でPVが戻っていった。今は前と同じに戻っている。

 

読書以外の活動をほぼ休止していたので、読書活動はそれなりにできた。来年はかどうなるわからないので、目標は立てないでおくつもり。

『フラナリー・オコナー全短篇』フラナリー・オコナー |目の中の丸太を叩き落とす、劇的な一瞬

「なにを言うの! 田舎の善人は地の塩です! それに、人間のやりかたは人それぞれなのよ。いろんな人がいて、それで世の中が動いてゆくんです。それが人生というものよ!」

「そのとおりですね。」

「でも、世の中には善人が少なすぎるんですよ!」

ーーフラナリー・オコナー「田舎の善人」

 

2019年は、前半に「重力」と言い続けて、後半は「恩寵」と言い続けた年だったように思う。飲み会では「タイムラインが恩寵だらけになった」「『重力と恩寵』はふくろうの妄想だと思っていたら、実在する本だったので驚いている」と言われた。このような恩寵モードになったのは、『フラナリー・オコナー全短篇』を読んだからだ。

恩寵とは、人間に与えられる神の慈愛、神の恵みのことで、熱心なキリスト教徒であるオコナーは「恩寵の瞬間を描く作家」と言われている。だが、オコナーが描く恩寵は、恵みや慈愛といったあたたかいイメージとはほど遠く、血と暴力、死に満ちている。

この落差が衝撃的だったので私はオコナーの恩寵をずっと考え続けていて、恩寵恩寵と鳴く鳥になり果てた。

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

 
フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

 

 

オコナー作品を読むことは、オコナー的恩寵の一撃を受け続ける巡礼のようなものだ。

本書を読み始めた読者は巻頭「善人はなかなかいない」でさっそく恩寵洗礼を受ける。「善人はなかなかいない」は、アメリカ南部に住む一家が「はみだし者」と呼ばれるならず者と出会う話だ。この短編では、すべてのプロットが最後の2ページに収斂する。登場人物は、空が落ちるような強烈な変化を経て、結末へと突進していく。

読み終わった時、風邪をひいていた私は呆然として(おそらく多くの人がこうなるだろう)、この結末以外はありえない、いやこれ以外の結末もできたのでは、やはりこの結末以外なかっただろう、とぐるぐる考えて、具合が悪くなった。それでも次の作品を読みたくてページをめくり続けた。

 

いくつか作品を読むと、オコナーの短編はどれも「自分に疑問を抱かない登場人物が、価値観を揺さぶる衝撃を受けて、見える世界が変わる」一瞬を描き続けていると気づく。

 登場人物の多くが、自分がのことを善人で、よいキリスト教徒だと信じている。しかし、その言動には自己弁護や正当化、差別や支配欲がひそむ。

「私は本当につつましい」と言いながら「黒人や貧乏白人なんかに絶対になりたくない」と考えたり、「人を助けることが生きがい」と言いながら子供の心を認めずに支配しようとしたりする。彼らは、悪人と呼ぶような罪を犯しているわけではないが、聖書風に言えば「目の中に丸太が入っている人」たちだ。

夜眠れないとき、ミセス・ターピンはこんなことを考える。もしも自分がいまの自分でいられないとしたら、どういう人になるのを選ぶだろうか。イエスがこういう自分をおつくりになる前に、「二つの中から選ぶしかないのだよ。黒いやつか、貧乏白人か、どっちにする?」と言われたとしよう。 私はどうするか? 「どうぞイエスさま、お願いですから、別の空きができるまで待たせてくださいまし」

ーー「啓示」

「なんだ、あれは。」ジョンソンはかすれた声で言った。「おまえ、あんなの我慢できるのか?」顔が怒りでひきつっている。「あいつ、自分のことをイエス・キリストだと思ってやがる!」 

ーー「障害者優先」

自分のことが正しいと思っている人たちが向かう道は3つある。ひとつは、内省により自己を見つめて、みずからの意思で変わろうとする道。ひとつは、これまでの価値観を変えざるを得ない衝撃的な出来事が起きて、変わらざるをえない道。そして最後は、そのまま気づかず変わらずに生きて死ぬ道。

著者はこの3つのうち「衝撃的な出来事が起きて変わらざるをえない道」を登場人物たちに提示する。聖書の文脈においては、衝撃的な出来事は、イエス・キリストとの出会い、神や天使の降臨、奇跡だろう。オコナーは、キリストや奇跡の代わりに、暴力、犯罪者、詐欺、差別、死によって、衝撃をもたらす。

まるで、目の中に入った巨大な丸太を取るには、丸太が落ちるような強烈な衝撃を与えなければならない、とでもいうかのように、著者は容赦なく、鮮烈に、劇的な一瞬を書き続ける。

登場人物はその衝撃によって、違う世界線にたどりつく。その描写はときに天使が降りてきた啓示、あるいはエル・グレコの宗教画のようで、異世界めいた色彩と光に満ちている。

森と空の境界線は、世界にぱっくりあいた暗い傷口のようだった。ミセス・メイ自身の表情もかわっていた。いままで見えなかった人が急に視覚を取り戻したものの、まぶしさに耐えられないでいる。そういう顔だった。ーー「グリーンリーフ」

 ミスタ・ヘッドはとても静かに立ち、神の憐れみがもう一度自分にふれるのを感じていた。…人間が死ぬとき、作り主なる神のもとへ持ってゆけるのは、神から与えられた哀れみがすべてなのだ。

ミスタ・ヘッドはそのことを理解し、突然、自分が持ってゆけるもののわずかさを自覚して、はずかしさで体がかっと熱くなった。…これまで自分が大罪を犯した罪人だと思ったことはなかった。だが、こういうほんとうの堕落でありながら、しかも堕落した当人が絶望に陥らないように、これまでかくされていたのだとわかった。…神の愛は、神の許しに釣り合うほど大きいのだから、自分はこの瞬間、天国に入れるようになったのだ。

ーー「人造黒人」 

なんと暴力的な啓示だろう。これを著者は恩寵と呼ぶのだろうか? 丸太が目から叩き落されて目のくもりがとれた人は、天国に近づくからだろうか? キリストや奇跡がもたらす啓示を、暴力でもたらすことを、キリスト教徒としての彼女は受け入れるのだろうか?

そしてオコナーは、人間をあまり好きではないし、知性を信用していなかったように思える。人は、衝撃的な事件だけではなく、内省や対話にだって変わりうるが、オコナーは外部からの衝撃にこだわる。だが、対話の道を選んだら、きっとこんな劇薬みたいな短編はうまれなかっただろう。

 

 こうして思い返してみると、私が恩寵恩寵と言い続けていたのは、オコナーが好きで同意しているというよりは、彼女がもたらす心のざわめきを言葉にしたくて考え続けていたからなのだろう。だとするなら、オコナーはやはり最高の短編作家である。これだけ人間と作品について考えさせる手腕は、まちがいなくすさまじいものなのだから。

 

 収録作品

気に入った作品には*。

上巻

  • 善人はなかなかいない**
  • 河***
  • 生きのこるために
  • 不意打ちの幸運
  • 聖霊のやどる宮
  • 人造黒人***
  • 火の中の輪*
  • 旧敵との出逢い
  • 田舎の善人***
  • 強制追放者**
  • ゼラニウム*
  • 床屋
  • オオヤマネコ
  • 収穫
  • 七面鳥
  • 列車 

下巻

  • すべて上昇するものは一点に集まる**
  • グリーンリーフ**
  • 森の景色**
  • 長引く悪寒**
  • 家庭のやすらぎ
  • 障害者優先***
  • 啓示*
  • パーカーの背中*
  • よみがえりの日
  • パートリッジ祭**
  • なにゆえ国々は騒ぎ立つ 

読書会まとめ

恩寵鳥になる原因となった読書会。短編小説の読書会に参加したのははじめてだったが、意見がたくさん出て大変おもしろかった。皆が好きな短編がいい感じにばらけつつ、人気の作品もあった。私はだいたい好き(印象的)だったので、だいたいに手を挙げたので反省している。

『重力の虹』トマス・ピンチョン|重力を切り裂いて、叫べロケット

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられて履いても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

ーートマス・ピンチョン『重力の虹』 

 

これまでの人生で、読書会を開催したのは2回だけ。1回目は2015年『重力の虹』読書会、2回めは2019年『重力の虹』読書会だ。来年からは「ガイブン読書会・鈍器部」として『重力の虹』以外の読書会もやるつもりだが、きっと『重力の虹』読書会はまた開催するだろう。『重力の虹』は、こんなふうに私をパラノイア的に熱狂させる。 

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン 全小説 重力の虹[上] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 
トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

トマス・ピンチョン全小説 重力の虹[下] (Thomas Pynchon Complete Collection)

 

 

「一筋の叫びが空を裂いて飛んでくる」という一文で始まる本書は、ロケットに始まりロケットに終わる、「ロケット技術」をめぐる巨大なパラノイア小説だ。

ナチス・ドイツが開発した軍事ロケット「V2ロケット」、および「ロケットマン」ことスロースロップ大尉をめぐって、膨大な登場人物と国と組織が、権謀術数とパラノイア妄想を爆発させてヨーロッパ大陸を跋扈する。

 

ロケット技術といえば、アメリカのアポロや、ソ連のスプートニクを思い出す人が多いだろうが、これら大国のロケット技術は、第二次世界大戦のナチス・ドイツが開発したV2ロケット技術を転用したものだ。

当時のナチス・ドイツのロケット技術は世界でも進んでいた。脅威を感じた連合国はドイツを爆撃と戦闘で追い詰めつつ、技術を略奪するためにドイツ人技術者たちを奪い合い、自国の軍事開発と宇宙開発に利用しようとする。これら狂乱の歴史事実を舞台に、ピンチョンは1499ページ、登場人物400人以上をつかって、巨大なパラノイドの虚構世界を組み上げる。

 

だが、この巨大な歴史のうねりは、最初はなにもわからない。なぜならピンチョンの小説はどいつもこいつも圧倒的情報過多、ノイズと事実と狂気と正気とユーモアとえぐさが、無秩序に、圧倒的質量をともなって、散弾銃のように読者を撃ち抜いてくるからだ。

「V2ロケットをめぐる戦勝国の技術略奪」というヘビー級歴史書ばりの事実を追いかけるだけでも苦労するのに、「勃起した場所にV2ロケットが落ちてくる」スロースロップ、スロースロップを追いかける軍部と秘密組織、陰謀、監視、出生の秘密、美女の誘惑、逃走、変装、美少女の誘惑、また逃走……といったスラップスティックなどたばたコメディが、哄笑しながら大挙してくる。

さらに、登場人物たちの関係性は、高度に政治的である。登場する国はアメリカ、ドイツ、ソ連、イギリス、さらに各国ごとに、軍部、巨大企業、秘密結社、対向勢力といった組織があり、対立したり協力したり裏切ったりしている。

とてもではないが、正気で読める小説ではない。私は今回、ScrapboxでWikiを作って「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」と分類した。正気と時間を供物にして、ようやく登場人物や組織の関係性が見えてきた。この小説、どう控えめに考えても狂っている。


『重力の虹』の構成と文体はまちがいなく狂っているが、書いてあることはだいぶ正気だ。本書に登場する組織や軍部、巨大企業の多くが実在しているし、利害関係もだいたい事実に基づいている(佐藤氏の注釈は本当にすごい)。

勃起人間スロースロップのような非現実の存在がうろうろしているために目くらましされがちだが、ピンチョンはかなり冷静に、世界大戦時の狂乱を観察している。

ヨーロッパ人が発明したヒストリーの観念は、戦後の時代に両陣営対立の構図が現れるという期待感を植えつけてやまない。だが、事実進行しているのは勝者の側も敗者の側もニコニコ顔でそこにある分け前を分かち合うという巨大なカルテルの動きだけかもしれないのだ。

 本書を読み進めると、戦争によって儲けまくる巨大グローバル企業、企業と政府の癒着が見えてくる。連合国も枢軸国も関係なく「かれら=権力を持つ者」たちはニコニコ分け前を分け合って、表では「敵を殲滅せよ」「人道のため」と叫びながら人々の命と人生をすりつぶし、懐がうるおうのを心待ちにしている。

 最大の利点は、大量死が一般人への、そこらの人たちへの刺激になって、まだ生きてそれらを貪れるうちに<パイ>のひと切れをつかみ取ろうという行動に走らせるところ。市場の祝祭、これが戦争のほんとうの姿なのだ。

 

『重力の虹』の世界は、ばかばかしく振り切れた明るい喜劇と、人を人と思わないおぞましい搾取構造による悲劇が同居している。読者は、制御が切れた振り子アトラクションに乗っているかのように、爆笑できる喜劇と陰鬱な悲劇の両極を、高速で移動し続ける。

だから、すごく笑えるのに、すごく悲しい。家族や恋人や国を愛する個人を、他者を使い潰して利益を得ようとする「かれら=持てる者たち」が貪欲に食らっていく。

ピンチョンはかなりペシミスティックかつ現実的に「強大な権力、制御システム」のおぞましさを暴き、「弱い個人」が飲みこまれる様子を容赦なく描くが、それでも絶望の底にはいたらない。

弱い者たちはカウンターフォース(抵抗勢力)となって、重力のようにのしかかる抑圧と制御に抗う。弱々しくなっても消えはしない抵抗の心が、ひそかに満ちている。電球バイロン(読んだ人全員が好きになる電球)とカズーのエピソードはすばらしかった。

何を言うんだ、全然違うぞ、これは捕らえられ抑圧された全電球に対する、カズーからの愛に満ちた共闘宣言なんだ…。 

  

ロケットは叫ぶ。叫びは、音速を超える速度による轟音、ロケット墜落により命を失った人たちの嘆き、勃起して果てる絶頂の呻き、利益のために人生と命をすりつぶされた人たちの絶叫となり、墜落し、解体され、世界に散らばっていく。

解体されたV2ロケットはもう誰の目にも見えないが、V2ロケットは消えたわけではない。アポロに、スプートニクに、人工衛星に、無人探査機になって、今も私たちの上空をただよっている。その証拠に、エピグラフに掲げられた、ロケット開発の父フォン・ブラウンの言葉を読むとよい。

"自然は消滅を知らず、変換を続けるのみ。過去・現在を通じて、科学が私に教えてくれるすべてのことは、霊的な生が死後も継続するという考えを強めるばかりである"

ーーヴェルナー・フォン・ブラウン

私は2回目に読むときにこのエピグラフの意味に気がついて悶絶した。エピグラフでここまで悶絶した経験ははじめてだったので、じゃっかん自分に引いた。科学者にしてはロマンティックにすぎると思われたこの言葉は、読了後には納得と慰めを与えてくれる。

勃起し、墜落し、大気圏に向かって上昇していったロケットとロケットマンを忘れそうになったら、きっとまた読書会を開くだろう。文句なしに人生ベストのうちの1冊。

この上昇は<重力>に知られるだろう。だがロケットのエンジンは、脱出を約束し、魂を軋らせる、深みからの燃焼の叫びだ。生贄は、落下に縛り付けられてはいても、脱出の約束に、予言に、のっとって昇っていく…… 

 

『重力の虹』読書Wiki

読みながら参照するためのWiki(あらすじは記載なし)。「章リスト」「人物リスト」「組織リスト」「企業リスト」「場所リスト」「技術リスト」に分類していったら、政治的な利害関係がだいぶ整理できて人生がはかどった。

 

トマス・ピンチョンの著作レビュー

 V2ロケットにまつわる歴史の事実

『重力の虹』は、実在の企業や計画をもとにしている。知らないと混乱すると思われるので、重要な歴史事実のみまとめる。

V2ロケット

ナチス・ドイツが開発していたロケット。当時の世界で、制御ができるロケットを開発できたのはドイツだけだった。ドイツ・ノルトハウゼンの地下工場で製造され、のちにペーネミュンデで開発。V2ロケットは第二次世界大戦時、ペーネミュンデ(ドイツ)から海峡を越えてロンドンを爆撃した。アメリカ、イギリス、ソ連が狙う。

ヘルメス計画

アメリカのロケット開発計画。1944〜1954年にかけて開発。米国軍は、ニュー・メキシコ州の砂漠へ、100機のドイツロケットを持ち去った。主契約者はゼネラル・エレクトリック。ヘルメス計画で開発されたロケットは、V2ロケットの基幹システムが使われた。 

ペーパークリップ作戦

アメリカ軍部が、ドイツの科学者をアメリカに連れていく作戦名。

IGファルベン

ドイツの巨大企業。第二次世界大戦当時、有機化学産業における世界最大のコンツェルン。ナチスの御用企業かつ、アメリカのデュポン社、イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ社とも協業関係にあった(枢軸国企業だが連合国とつながっていた)。戦争後は解体されたが、形を変えて生き延びる。

ヴェルナー・フォン・ブラウン

ロケット開発の父と呼ばれるドイツ人。ナチス政権下でV2ロケット開発の最高責任者として従事。戦後はアメリカNASAでロケット開発に従事。アポロ計画に携わる。

ペーネミュンデ

ドイツ北部の沿岸にある町。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ軍がV2ロケット開発を行い、ロンドンへの爆撃もここから行った。ヴェルナー・フォン・ブラウンが最高責任者。

ヘレロ族の虐殺

1903年から1907年にかけて、西アフリカに住む先住民族ヘレロ族にたいして、ドイツ人が虐殺をした。20世紀最初のジェノサイドと呼ばれている。第二次世界大戦におけるドイツ人のユダヤ人虐殺を連想させる。

 

読書会のTwitter

読書会の時期は「重力」としかつぶやいていなかった。

『アメリカ南部』ジェームス・M・バーダマン丨アメリカの内なる異郷

南部は奴隷制度に対する考え方にとどまらず、経済、農業政策、政治的展望などの点においても北部と意見を異にしていた。今日、奴隷制度は廃止され、政治風土も大きく変わり、メディアという媒体の発達を通じてアメリカの均質化は進む一方である。しかし、それでもなおかつ南部は南部であり続けている。 

――ジェームス・M・バーダマン『アメリカ南部』

 

「南部ってどんな所だい? 南部のひとはなにをしているの? なんで南部なんかに住んでるの? そもそも南部のひとはなぜ生きてるの?」とウィリアム・フォークナーは書き、 「われわれのほとんどがここしばらく見てきた苦悩は、南部が国全体から孤立しているということが原因で起きたのではなく、孤立が十分ではないという事実によって引き起こされたのである」と、フラナリー・オコナーは書いた。

いわゆるアメリカ南部文学と呼ばれる作品をいくつか読んでいると、南部からにじみ出る、あるいは吹き上がる風土に興味がわく。南部については断片の知識しかない。断片をつなぎあわせる糸が欲しくて本書を手に取った。

アメリカ南部 (講談社現代新書)

アメリカ南部 (講談社現代新書)

 

 

南部で生まれ暮らし、20年前に日本へやってきた学者による「アメリカ南部」入門書である。奴隷制度から南北戦争、公民権運動にいたる大まかな歴史に加えて、文学や音楽といった南部文化についても簡潔にまとめている。

著者が南部うまれ南部育ちであるため、ところどころに彼の経験談が挟まれるところが興味深い。1947年うまれの彼がティーンエイジャーだったころはまさに公民権運動どまんなかで、白人学生と黒人学生の関わりはほとんどなかったという。つい50年前まで、そういう時代だったのだ。

 

アメリカの歴史は、学生時代に丸暗記して以来だ。当時は経済をほとんど理解していなかったため、なぜ南部が奴隷制度を維持しようとしていたのかわからなかったが、経済と土地の要因がかなり大きかったのだとわかる。

南部の富は、綿花栽培のための土地とその土地で面を摘む奴隷たちがそのほとんどであった。

南部の土地は農業王国で綿花栽培に適していて、奴隷を増やせば利益を増やせた。北部が土地改良を行って工業も発達したのにたいして、南部は農業と単純労働によって利益を上げ続けた。南部の土壌が奴隷に頼るシステムをつくりあげ、奴隷制度を前提とした文化や人格が育っていった。

「南部地主階級(サザンジェントリ)」や「南部美人(サザンベル)」といった「南部人としての理想像」、「心ある主に遣えて幸せな黒人像」といった当時のステレオタイプは、フォークナーやフラナリー・オコナー、カーソン・マッカラーズといった作家を読んだ後ではだいぶむずがゆいが、当時はこうした「理想」をこねあげることで社会と自分を肯定せざるをえなかったのだろう。

また、過酷な人生を嘆く即興的労働歌「フィールド・ホラーズ」、神に祈りと許しを乞う霊歌など、黒人たちが自身をなぐさめるのに歌が欠かせなかった。今なお栄えるジャズやブルース、ゴスペルは、逃れられない人生を嘆いた黒人の悲哀と嘆きからうまれた。

 

いくつかあるアメリカ南部、黒人文化入門書のうち、本書は文学作品を多めに紹介している点が特徴で、歴史の文脈をふまえた南部文学ガイドとして読める。読みたい本が増えて、まだ私は南部からしばらくは抜けられそうにない。

 

 Recommend:アメリカ南部小説

新装版 新訳 アンクル・トムの小屋

新装版 新訳 アンクル・トムの小屋

 

 黒人奴隷文学の元祖。著者は奴隷解放組織「地下鉄道」のメンバーだったという。

 

ナット・ターナーの告白 (1970年) (今日の海外小説)

ナット・ターナーの告白 (1970年) (今日の海外小説)

 

 19世紀の黒人反乱を題材にした作品。この反乱がもとで白人は「黒人を自由にさせてはいけない」と、奴隷を押さえつける法律をつくっていった。ピューリツアー賞受賞。

 

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち

  • 作者:J.D.ヴァンス
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2017/03/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 トランプ政権の誕生により読まれることになった本。ヒルビリーとはプアー・ホワイト、ホワイト・トラッシュと呼ばれる「貧しい白人」のこと。こちらは21世紀の本だが、歴史をひもとくと、この階級は18世紀からずっと受け継がれてきたことがわかる。

 

南部といえばフォークナーである。巨大なサトペン荘園、白人地主階級と黒人奴隷の確執は、いろいろ南部文学を読んだ今、もういちど読み返したい。

 

 

南部といえばフラナリー・オコナーである。オコナーは南部で書くことを誇りにしていたが、ただの南部作家にとどまらずに世界を描こうとしていた。オコナーの恩寵微笑になんども打ちのめされた。

 

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

 

南部ゴシック小説。他者とわかりあえると人類が信じるあの幻想、孤独の描き方がすばらしい。局所的にフラナリー・オコナーブームがきているので、マッカラーズもぜひ復刊してほしい。

 

実在の逃亡奴隷支援組織「地下鉄道」をモチーフにした小説。最後まで奴隷制度が残った深南部(ディープ・サウス)の描写が、ほんとうに修羅の国で恐ろしい。

 

ハックルベリー・フィンの冒けん

ハックルベリー・フィンの冒けん

 

 著者マーク・トェインは、南部を流れるミシシッピ川で水先案内人として働いていた。そうか、これも南部だったかと思いいたる。水先案内人は、荒れ狂うミシシッピ川を知り尽くしているプロフェッショナルだったため、蒸気船ができるまでは憧れの職業だったらしい。また読み返したい。

 

謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学 (新潮選書)

謎とき『風と共に去りぬ』: 矛盾と葛藤にみちた世界文学 (新潮選書)

  • 作者:鴻巣 友季子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/12/26
  • メディア: 単行本
 

『風とともに去りぬ』は小さい頃に映画を見た記憶しかない。バーダマンによれば、スカーレット・オハラは南部の女だが、いわゆる「南部美人(サザンベル)」とはほど遠い女性として描かれているという。ただ、いわゆる白人から見た、都合のいい南部だという批判もあるようだ。オハラの周囲にいる男性がほとんどKKKらしい。いま読みたいかといえば微妙だが、鴻巣さんによる解説は読んでみたい。

 

 

『砂の子ども』ターハル・ベン=ジェルーン|砂のように曖昧な存在の私

 今は嘘と欺瞞の時代です。ぼくは、存在か、それともイメージなのか。肉体か、それとも権威なのか。枯れた庭の石か、それとも動かぬ木ですか。言ってください。ぼくは何者なのか。

――ターハル・ベン=ジェルーン『砂の子ども』

 

私の心にはおそらくずっと地平線と水平線があって、折に触れて、まったいらで人間のことなどなにも考えてない、静かに圧倒的な線を見に行きたくなる。思いかえしてみれば、10年前は砂漠を求めて、砂漠のような書物、砂漠のような物語を読んでいた。

ロッコの旧市街を舞台にした小説『砂の子ども』は、砂漠を求めていた当時を思い出させる。

砂の子ども

砂の子ども

 

 

舞台は、モロッコの旧市街メディナ。古い門、門の近くに開かれる市場、路地裏、公衆浴場、モスクが魔法陣のように入り組む旧市街で、講釈師と1冊のノートによって、伝説めいた物語が語られる。

物語の主人公はアフマド、男性として育てられた女性だ。日本でいえば『とりかへばや物語』に近いが、アフマドの物語はイスラム教文化ゆえのつらさを背負っている。

つらい原因はイスラム法だ。イスラム法において「女児の価値は男児の半分」であり、遺産が半分になるばかりか、子供に誰も男児がいなければ遺産が親族にとられてしまう。アフマドの家では女性しかうまれず、両親は8番目の子アフマドを性別問わず男性にすると決める。

男に生まれるのは小さな厄介だが、女に生まれるのは災難であり、不幸だ。道にぞんざいに投げ出され、日暮れには死がその道を通っていく。

男であることは幻想であり、暴力だ。だが、すべてがそれを正当化し、特権を与えている。

女性の身体を持ちながら、男性としての社会的特権を与えられたアフマドは、過剰に男らしくふるまおうとする。家族の女たちを虐げ、自分の身体を憎む。誰にも秘密を知られてはならない苦しみから孤独に引きこもり、怒りっぽくなる。 

 

読み進めるにつれて、遠く思えたアフマドの苦しみやつらさが、文化と国境を越えて迫ってくる。

彼女の苦しみは、自分が何者かわからない苦しみ、自分の身体を認められない苦しみ、社会が女を差別する苦しみだ。

家族やしきたりから要請されるがままに己をさしだせば、心はすさみ、やがて自分を見失う。怒りにとらわれれば人は離れ、その行動にますます傷ついて怒り、他者との距離が開いて孤独はつのる。自分の体を蔑めば、自分の味方が誰もいなくなり、己で己を傷つける。

八方塞がりだ。自分を自分で受け入れられない苦しみは、イスラム圏に限らず、世界のどこにでも、誰にでも起こりうる。

 今は嘘と欺瞞の時代です。ぼくは、存在か、それともイメージなのか。肉体か、それとも権威なのか。枯れた庭の石か、それとも動かぬ木ですか。言ってください。ぼくは何者なのか。

本書で語られる心情はだいたいつらいが、ときおり美しい記憶と詩の言葉が光を放つ。路地に連なる門の語り、公衆浴場でアフマドが「言葉で体を覆う」場面がとくに好きだった。 

薄暗く閉ざされた浴場の中で、女たちの発した言葉は、蒸気に支えられて、彼女たちの頭上に浮いているかのようだった。言葉がゆっくりと上っていき、濡れた天井にぶつかるのがわかった。綿雲のようになって、石の天井に触れると見ずになり、私の顔にしずくが落ちてくるのだった。私はこんなふうにして遊んだ。身体を言葉で覆うのだ。言葉は体をつたって流れたが、いずも下履きの上を通った。私の下腹はいつも、言葉のしずくから守られていた。 

壁は記憶だ。石を少しひっかいて、耳をそばだてれば、様々な音が聞こえる。時間は、昼がもたらすものと、夜が撒き散らすものをかき集め、保存し、守っている。その証人は石だ。石の状態だ。一つ一つの石は、書かれ、読まれ、そして消されたページなのだ。すべてが土くれの中にある。物語。家。本。砂漠。放浪。後悔。赦し。  

曖昧なアイデンティティを抱えたアフマドの物語は、ページが進むにつれて、どんどん砂のようになっていく。形がさだまらず、砂丘のように曖昧になる。

これは完結した物語ではない。人の手によって広がり変わっていく伝説だ。

「過酷な現実より、神話や伝説の方が耐えやすい」と誰かが語る。

旧市街の路地裏に広がり、砂嵐の向こうにかき消えるような読後感は、いかにも砂漠の国の物語らしい。

 

おわかりのように、過酷な現実より、神話や伝説の方が耐えやすいのです。 

だれもこの物語の結末を知ることはできない。だが、物語というのは、最後まで語り継がれるものなのだ。

 

Recommend

聖なる夜

聖なる夜

 

『砂の子ども』続編。 ノートを持つ他者から語られるだけだったアフマドが、己の声で語りだす。

 

砂漠を舞台にしたフランス人作家による幻想小説。幻の都市を探す考古学者とともに、茫漠とした幻影を見るような読後感。

 

「砂漠の思考」の断片を書物の形にまとめたもの。存在そのものが砂漠に似ている。

 

 

アルゼンチン・ブエノスアイレスの図書館で働く、盲目の男が登場する。それなんてボルヘス

『ペルセポリス』マルジャン・サトラピ|イスラム原理主義に変わった故郷

生のことだけ考えていたかった。でも、それはやさしいことではなかった

――マルジャン・サトラピ『ペルセポリス』

 

これまでできていたことができなくなったり、話せたことが話せなくなったり、選べていたものが選べなくなったり、やらなくてよかったことをやらなくてはいけなくなったり……こんなふうに生活が一変(それも窮屈なほうに)したら、どんな心地がするだろうか。

イランは1980年代に革命が起き、中東で最も近代化が進んでいた国から一転して、イスラム原理主義の国となった。

著者は、自由なイランとイスラム原理主義のイラン、両方を経験した女性として、政治や戦争への疑問と怒り、友人や家族への愛情と悲しみを、モノクロームのマンガで描き出す。

ペルセポリスI イランの少女マルジ

ペルセポリスI イランの少女マルジ

 
ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

 

 

著者のマルジャンは、祖父が王族という上流階級出身で、自由と自尊心、反骨心を尊ぶ家庭で育てられた。少女の生活は、革命で激変する。これまで自由に言えたことを禁止され、服装を制限され、祈る人がすばらしい人と呼ばれる世界に変わる。

短期間でこれほど国と生活が激変するのは、近現代においては革命と戦争と国家消滅以外ない。だが、人の心や生活はそう簡単には変わらない。マルジャン一家やイラン人たちは、権力への不信や抵抗を示しながら、自分たちの世界と自由を守ろうとする。

 

マルジャンがとても素直、素直すぎるほどに、自身の心を観察して描く。彼女は、幼いころは「偉大な預言者になりたい」と思っていて、やがて政府に反抗する人々が尊敬されていると知ると、親族の中で拷問を受けた人を探して自慢したりする。幼い頃なら誰でも持つ「すごい人になりたい」欲求(そしてそれはおうおうにして後に恥の記憶となる)を、ここまで書ききることがすごい。

彼女は、自分の心境変化だけではなく、周囲の人々や社会の変化も冷静に観察する。特に彼女が描くのは、反抗する人々だ。彼女の家族は、家に警察が乗り込んでくる危険があっても、パーティーをしてワインを飲みまくる。警察がやってきたらワインはトイレに全部流すなど、やることがだいぶロックだ。従順に従ってたまるか、自由は私たちのものだ、という反骨心がいたるところに響いている。

人々は権力と戦うが、やがて権力が強くなっていくと抵抗は弱まっていく。知り合いや親族がどんどん国を出ていく姿、あるいは死んでいく姿を、著者は描きとめる。

やがてマルジャンは親の勧めでヨーロッパへと出ていく(『マルジ、故郷に帰る』はヨーロッパ生活が主軸)のだが、ヨーロッパでの生活は「故郷から離れた人」の疎外感と「若者らしい生きづらさ」に満ちている。

 

本書は、革命がいかに人々の生活と家庭を激変させ、人の心と命を奪うかを鮮やかなモノクロームで描き出している。

少女マルジの素直な独白と反骨心がよい。イスラム社会では、女性は男性よりも地位が低く生きづらい。しかし、彼女たちは、制限されている中で、自分たちなりの自由を楽しみ、反抗し、心を守ろうとする。(もっとも著者はイラン人の中でもかなり裕福な家庭にうまれているため、高い水準の教育とヨーロッパ生活による多様な視点を形成できたことは間違いない)

マルジャンは格好悪さをさらけ出し続けるが、やっぱり格好いい。だからきっと本書は、世界中で読まれたのだろう。

 

Recommend 

テヘランでロリータを読む(新装版)

テヘランでロリータを読む(新装版)

 

文学を読むことは、抵抗となる。革命後の生きづらいイランで、ヨーロッパで教育を受けたイラン人女性が、『ロリータ』を読む秘密の読書会を始める。自由を求める精神は、マルジの物語と重なるところが多い。ふたつまとめて読むことをおすすめ。

 

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

 

 サウジアラビア人の女の子ナダと、日本人サトコの共同生活。イスラム社会の女子たちが、表向きはそれほど目立たずに過ごしながらも、家庭や友人の前でははじけている様子がわかってとてもよい。(マルジャンのはじけぶりは別の意味ですごいが)

  

未来のアラブ人――中東の子ども時代(1978―1984)

未来のアラブ人――中東の子ども時代(1978―1984)

  • 作者: リアドサトゥフ(Riad Sattouf),鵜野孝紀
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

シリア人作家が描くバンド・デシネ。独裁政権の下で働く人間の心を描き出している。

 

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

 1980年代に、アフリカからドイツへ移民した若者の物語。事前に聞いていた話と違う労働環境で、過酷な生活を強いられる世界は、今でも他人事とは思えない。

『波』ソナーリ・デラニヤガラ|耐えがたい現実を生きのびる

告白しないのは、まだ私自身が、起こったことをこんなにも信じていないからだとも思う。私はまだ愕然としている。自分に真実を言い聞かせなおすたびに唖然とするのだから、なおさらだろう。だから私は手間を省くために回避する。私は自分がその言葉を言うところを想像する――「私の家族、全員死にました。一瞬で消えました」――そしてくらくらする。

――ソナーリ・デラニヤガラ『波』

 

 

耐えがたい壮絶な痛みや苦しみと付き合うため、人はそれぞれに、なにかで気をまぎらわせたり、新しい幸せを見つけたり、逃れるために自死を選んだりする。これらの方法に優劣はない。向き不向き、好き嫌いがあるだけだ。なるようになるしかない。

本書は、家族全員の死という、あまりにも耐えがたい現実を否定し続け、唖然とし続けた女性の、壮絶な絶叫と回復の記録である。

 

波 (新潮クレスト・ブックス)

波 (新潮クレスト・ブックス)

 

  

タイトルが示す「波」は、2004年末に起きた、スマトラ島沖地震による津波だ。

スリランカ人の著者は、クリスマス休暇でスリランカの海辺にあるホテルに宿泊していたところを津波に襲われ、夫と息子2人、両親の5人をいっぺんに失った。

著者は友人たちから「夢のようなものを持っている女」と呼ばれていた。愛する夫に愛する息子たち。イギリスの名門大学での教育に、イギリスでの経済学者としてのキャリア。ロンドンのすばらしい家。スリランカには裕福な両親が住んでいて、休暇のたびに一緒に過ごせる。確かに彼女は満たされていた。

その満ち足りた生活を、彼女は波と泥ですべて失った。「見て、波が来る」。波によって著者は家族をすべて失い、彼女だけが奇跡的に生き延びる。

ここから、著者の壮絶な苦しみと絶望が始まる。

走り続けるバンの後部座席に、いつまでも座っていたい。あと何時間かすれば明るくなる。明日になる。明日になってほしくない。明日になると真実が始まることに、私は怯えきっていた。

もともと本書は、セラピストが勧めた手記だった。だから序盤は、著者のすさまじい怒りと悲しみと絶望と自殺願望に満ち満ちている。なにを恨めばいいかわからないから、自分も含めて世界すべてを呪い、八つ当たりのように他者を攻撃して、薬と酒に依存してみずからを痛めつける姿は、とてもつらい。

半分酔って、半分薬漬けで、私はインターネットであの波の画像を検索した。破壊された現場。死体、遺体安置所、集団墓地。怖ければ怖いほどいい。その画像を何時間も呆然と見つめた。いま私はすべてを現実ととらえたかったが、それを試みることすら、酔っていなければできなかった。

彼女は全身全霊をこめて、家族の不在を拒否する。拒否して拒否して、思い出させるものすべてを締め出そうとする。

著者は、家族全員がいなくなってしまった現実をまったく信じていない。過去と現実世界にたいして、勝利が不可能な戦いを挑み続ける。

彼らがいま体験できないでいることのすべてを、私は必死で締め出した。そしてすべてのものに怯えた。すべてがあの生活とつながっていたから。彼らをわくわくさせたものは、すべて破壊したかった。花を見るとパニックになった。マッリが私の髪に挿すはずの花だ。芝生の一本の草も我慢できなかった。そこはヴィクが踏みつけるはずのところだ。

ヴィクは仲間たちといることがとても好きだった。そして彼にはそれができないのに、私が彼らといっしょにいる。私は密輸品を扱っているような気持ちになる。

 

しかし、現実は容赦なく現実のままだ。希望と現実の絶望的な落差に、著者はなんどもなんども驚き続け、唖然とし続ける。

  その夜、窓に風が吹きつける中、私は自分のシェルターをほんの一瞬で失ったのだということを悟った。それまでも、この事実から逃れられてはいなかった。まったくそんなことはない。それでもその瞬間、そのことがあまりにはっきりして、私を圧倒した。そして私はまだ震えている。

告白しないのは、まだ私自身が、起こったことをこんなにも信じていないからだとも思う。私はまだ愕然としている。自分に真実を言い聞かせなおすたびに唖然とするのだから、なおさらだろう。だから私は手間を省くために回避する。私は自分がその言葉を言うところを想像する――「私の家族、全員死にました。一瞬で消えました」――そしてくらくらする。

絶望の暗闇を絶叫しながら駆けぬけた先に、著者はある境地にたどりつく。

 

ナイフを自身に突き立てるかのような文章に、読んでいるだけで息が絶えだえになる、壮絶な本だった。

私は本書を読む前、時間の経過がやがて彼女の痛みをやわらげ、生きている隣人や仕事や宗教などの「現実」が不在を埋める展開を想像していた。

まったく違った。著者の家族は、時間が経過すればするほど、むしろ圧倒的に私たち読者の前に立ち現れてくる。

神に頼らず、死に頼らず、忘却に頼らず、人は耐えがたい過去、受け入れがたい現実と折り合いをつけられるのだと知る。家族の死から始まり家族の死で終わる書物で、序盤はひたすらにつらいが、最後の一文はまぶしく明るい光に満ちている。

現実と希望のすさまじい落差を越えていく想像力なるもの、人間が持つ驚異的な力をかいま見た気がした。

 

 

 Recommend

戦下の淡き光

戦下の淡き光

 

 著者と同じくスリランカ出身。『波』の出版を手助けした。

 

ラニヤガラの魔法は、南米の魔法を思わせる。

 

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

 

 

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

 

 読みたい。3.11を経験した人たちにインタビューをしたノンフィクション。

 

冬に読みたい海外文学20冊

 雨が降ると地面が凍えたように青くなる季節になった。わたしは冬に鍋をするのが好きだが、それ以上にアイスクリームを食べるのが好きだ。寒い冬にあえてもっと寒いことをするのが好きなのである。
 というわけで、寒い土地の冬を描いた海外文学リストである。セレクトのテーマは「冬の厳しさと美しさ」(このテーマで選ぶと、なぜかロシアが入らなかった)。ぬくぬくとした部屋で、スープをすすりながら、のんべんだらりと読みたい(2019年1月更新)。





カナダ、ケープ・ブレトン島の厳冬を描く。透きとおるように寒い、流氷のような世界と、人間の悲哀と誇りが結晶のようにきらめく。本当にどれもよくて参る。



デンマーク文学。掟と抑圧に抗おうとする人たちの物語。冬の終わりのヴィジョンが鮮烈な「ペーターとローサ」のラスト1ページがすさまじいので、まずはこれだけでも読んでほしい。




アメリカのシカゴに住む移民たちの短編集。「冬のショパン」「ファーウェル」で描かれる冬の美しさといったら! 



フィンランド文学。絶海の孤島で、相棒とふたり暮した芸術家の記録。冬がやってきて港が凍るまで、ただ静かに波の音を聞いて暮らす日々。



フィンランド・ラップランド文学。オーロラとともに生きたサーメ人の伝説。彼らにとって、冬と夜は極彩色。



アイルランドのアラン島に居ついた作家のエッセイ。ケルトが息づく土地で過ごす日々。



イタリアのヴェネツィアに滞在したロシア人作家のエッセイ。冬のヴェネツィアは霧に飲まれて、前を歩く人も見えないような、霧の迷宮となる。夢とヴェネツィアの小道がまざってあいまいになって、自分も一緒に溶けていく。須賀敦子好きならきっと好き。



イギリス文学。世界も人間関係も魂もすべてが絶対零度まで冷え切っているのに、世界が破滅するほどに美しい。世界が破滅するまっただなか、氷のアルビノ少女を地の果てまで追いかける、アポカリプスラブの極北。



スペイン文学。頭の中が真っ白に吹きすさぶ圧倒的な孤独について、これよりすごい作品を知らない。



アイルランド文学。ぬくもりを求めて男がひとり青い野を歩く。表題作が絶品。





アイルランド文学。冬になにか読みたいと思ったら、とりあえずトレヴァーを選んでおけばまちがいはない。人のぬくもりを求め、失い、それでもまだなにかを人は求める。




フランス文学。夜に落とした青い宝石、あるいは鉱物のような美しさ。冬と夜には、人が住んでいる証、光を求めたくなる。


owlman.hateblo.jp

アメリカ文学。マイナス50度の土地をひとりと1匹が歩き、火を熾そうとする。絶対に失敗できない状況での心境、自分を信じたい心と罵る心、希望と罵倒と絶望が氷河のようにとぎすまされた文体で広がる。とにかく読んでいて手先が凍る。スープと紅茶を用意してからお読みください。


owlman.hateblo.jp
オーストリア。極寒のオーストリアの僻村で、精神が液体窒素のような男が、孤独の言葉をひとりで吐きまくる。孤独で凍てついた心の呪詛で、読んでいるほうの心も氷漬け。



北欧神話。北欧に住むヴァイキングの先祖が語った、驚異的な冬の世界。彼ら北欧の人々は「太陽がのぼらない永遠の冬」を心底おそれた。



北海道。アイヌの生活を描いた神の歌。「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」――透明な雪の結晶のような言葉の美しさ。



その他の海外文学リスト



『淡い焔』ウラジミール・ナボコフ|ボリウッド+サイコホラーめいた文学解説

 

私としても、明快たるべき文献研究資料をねじ曲げ変形させて、怪物じみた小説もどきを拵えるつもりは毛頭ない。

――ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』

 

『Pale Fire(淡い焔)』という厳かな題名、「詩に注釈をつける男の物語」という生真面目なあらすじからは、およそ想像もつかない小説だ。

「私としても、明快たるべき文献研究資料をねじ曲げ変形させて、怪物じみた小説もどきを拵えるつもりは毛頭ない」とナボコフが書いたのは、おそらくナボコフ流の真顔ギャグだろう。本書こそが「怪物じみた小説もどき」そのものなのだから。

淡い焔

淡い焔

 

 

アメリカの著名な詩人ジョン・シェイドが、長編詩を書いた直後に死んだ。隣人であり友人でもあるチャールズ・キンボードがシェイドの詩を編集し、注釈をつけて、詩集『淡い焔』として刊行した。

このあらすじから、おそらく読者は真面目かつ重厚な専門書を想像するだろう。詩人か詩のファンぐらいしか楽しめないのではないかと躊躇するかもしれない。だが、この予想は振り切って裏切られる。 

読者は読み始めてすぐ異様さに気づく。序文から、注釈者キンボートが最前線に出てきて自分語りを始める。その前のめりぶりと自己陶酔ぶりは圧倒的で、「これからやばいものを読むことになる」と心拍音が否応なしに上がっていく。

はっきり言おう、私の註釈がなければシェイドのテクストは人間的リアリティをいっさい持ちえない……

本書は、シェイドの詩パート、キンボートの注釈パートに分かれている。例えるなら、シェイドの詩は、雨音が聞こえる室内で家族の死について語るささやき声のようなもので、キンボートの註釈は、ドラと銃声が鳴り響くボリウッドアクション映画とサイコホラー映画を足したようなものだ。

サイコホラー・ボリウッド映画めいた詩の註釈など、ありうるだろうか? ある、としか言いようがない。

註釈で語られるのは、詩の注釈(いちおうちゃんとある)、シェイドに対するキンボートの熱狂的な執着、ゼンブラという謎の国で起きた驚くべき冒険譚である。

 

キンボートのしゃべりは、やばい人の語りそのものだ。相手の言葉からキーワードを拾ってはすぐ自分の話につなげる人のように、キンボートは詩の一言を抜き出して、ゼンブラ冒険譚と自分語りをしゃべり倒す。

シェイドへの熱狂的な執着も危ない。出会って数か月しか経っていないのに「シェイドの唯一無二の親友であり理解者」と自称して、シェイドを独占したいあまり、シェイドの周囲にいる人すべてを貶す。一方で、シェイドが好みそうもない「竜皮でオリエンタルな色使い、侍にうってつけのゴージャスなシルクガウン」という悪趣味極まりないものをプレゼントしたりする(ここのシーンは本当に笑った)。

狂人キンボートの語りに時に笑い、時にドン引きし、時に心をえぐられながら読み進めていくうちに、「認知の歪み」は増幅し、読者は何度も視点をぐるぐるりとひっくりかえされる。ナボコフは二重の読みを用意しているため、読者は「キンボートが見ている世界」と「現実の世界」の落差に気づき、笑いと悲哀に飲み込まれていく。

だがもちろん、この追悼記事の最も驚くべき特徴は、その中に一言たりとも、ジョンの生涯最後の数か月を明るく輝かせた、あの栄光に満ちた友情への言及がないことだろう。 

 『淡い焔』の決定稿は、この私が寄贈した素材の痕跡を一つ残らず意図的かつ徹底的に消し去ったものだと結論できよう。

 

キンボートはまぎれもなく狂人だが、芸術や創作を愛する人たちはなにかしら「キンボートのかけら」を持っている。

作品に、自分の物語や希望や主張を見出すことなんてしょっちゅうだ。研究者だって、作品の中から著者の経験を探したり、影響した作家や映画の痕跡を探そうとする。

「私の評価は概してとても甘い[とシェイド]。ただ、些細ながらもいくつかの店は容赦しない」キンボートーー「たとえば?」

「課題図書を読んでいない。阿呆みたいに読んでいる。作品の中に象徴を探すーー例『著者が緑の葉という印象的なイメージを用いているのは、緑が幸福と挫折の象徴だからである』。あと、『簡潔な』や『誠実な』を称賛の意味で使っている学生がいたら、壊滅的に減点することにしている。

作品に限らず、対人関係でも同じことが言える。自分が知っていることを相手に見出し、相手は自分と同じだと共感して好感を抱き、それらの幻想を恋または友情と呼ぶ。

これら度しがたい人類の勘違い、「芸術への態度」「他者への態度」の極北が、キンボートの注釈なのだと思う。だからキンボートへの感情は、オタクであればあるほど複雑になる。

 

 

それにしてもナボコフは、片思いをして失恋する狂人を描くことがすさまじくうまい。

相手を理解せず、相手が求めることを知らず、狂人は執着と妄想で練り上げた愛という名のヘドロめいた感情を咆哮する。しかし、相手のことを考えない愛は受け取られず、魂は孤独のままさまよう。その姿は悲しく愚かな美しさに満ちている。

魂が交わらないと知りながら、ヘドロのような苦しみと欲望にまみれながら、それでも人は魂の交わりを求める。この耐えがたい業をおそらく人は愛と呼ぶのだろうが、愛の渇望と孤独についてサイコ・ボリウッド・エンタメをまじえながら描くナボコフは、やはりただ者ではない。

 

訳書バージョン

淡い焔

淡い焔

 

最も新しい訳。両方読んだところ、私はこちらのほうが好みだった。

 

青白い炎 (岩波文庫)

青白い炎 (岩波文庫)

 

 もともとはちくま文庫で出ていた。長らく絶版で価格高騰していたところを復活した。訳はやや硬め。

 

ウラジミール・ナボコフの著作レビュー

Recommend

相手のことをまるで考えない、一方通行の愛と失恋大爆発といえば、ノートル=ダム。こちらは殺人にまで発展するので、よりやばさが激化している。

 

ガイブンの2大ストーカー犯罪者といえば『ノートル=ダム・ド・パリ』フロロと『ロリータ』ハンバート・ハンバートだと思っている。終盤の美しさは『ロリータ』が圧巻。

 

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

 

愛と魂の交わりを求めるが、その愛は届かない。孤独の闇から光を追い求めるヘドロに満ちた輝きが、『淡い焔』と似ている読後感だった。 

 

皆が愛を咆哮するが、その感情は交わらない。

 

『生物学と個人崇拝』ジョレス・メドヴェージェフ|国ぐるみで疑似科学を礼賛したカルト国家

「あなたはなぜダーウィンについて語り、なぜマルクスとエンゲルスから例を挙げないのか?

マルクス主義とは唯一の科学である。ダーウィニズムは一部にすぎない。真の世界認識論をもたらしたのはマルクス、エンゲルス、レーニンなのだ。

ーージョレス・メドヴェージェフ『生物学と個人崇拝』

 

血液クレンジングやガン民間療法など、今も疑似科学のニュースは後を絶たないが、かつて国ぐるみで疑似科学を礼賛していた国家があった

スターリン・フルシチョフ時代のソ連は「ブルジョワ的だ」という理由で生物学と農学を全否定し、共産主義イデオロギーに合致した疑似科学を「真実の科学」と礼賛した。

中心となった疑似科学者の名は、トロフィム・ルイセンコ。ルイセンコは科学者としては凡庸どころか三流だったが、急速に勢力を伸ばして生物学界を牛耳り、「ルイセンコ主義」という疑似科学の狂信が40年近くも続いた。なぜこんな事態になってしまったのか?

生物学と個人崇拝――ルイセンコの興亡 (ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集)

生物学と個人崇拝――ルイセンコの興亡 (ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集)

 

  ルイセンコは、形式主義的な、ブルジョア的な、形而上学的な科学として古典遺伝学を「閉幕」させ、代わりに自分たちの新しい遺伝学を「開幕」しようとしていただけだった。

ソ連の生物学者であり、ルイセンコ主義を目の当たりにした生物学者による奇書である。

本書は「生物学+農学+社会学+政治学+歴史学+哲学+狂気」という、世にも奇妙な構成要素でできている。ルイセンコのすべてを語ろうとすると、こうならざるをえないからだろう。ルイセンコ主義の問題を論駁するのは生物学の分野で、ルイセンコ主義の思想を解明するのは哲学で、ルイセンコ主義の台頭を説明するのは社会学と政治学の分野だからだ。

 
ルイセンコ主義とは、一言でいえば「共産主義イデオロギーに合致するようねじ曲げたニセ科学」だ。ルイセンコは従来の生物学を「ブルジョワ的」だと批判し、党史やマルクス主義のイデオロギーに一致させた「自分が考える生物学」を主張した。

例えば、ルイセンコ一派は「環境が変われば種はすぐに進化する」「遺伝子がお互いを好んで選択する」と主張する。また、異なる種を受粉させれば、小麦からライムギへ、大麦からエンバクへ、エンドウからカラスエンドウへとすぐに種が変わる、と主張していた。これはダーウィニズムの主張とは対立する。

発言を読んでいくと、ルイセンコは、科学とイデオロギーを同列に語り、むしろイデオロギーを優先させていることがわかる。

 「あなたはそうした進化(単純化)はあるという。だが党史の第四章には、進化とは複雑化であると書かれている。」

「あなたはなぜダーウィンについて語り、なぜマルクスとエンゲルスから例を挙げないのか?」

 マルクス主義とは唯一の科学である。ダーウィニズムは一部にすぎない。真の世界認識論をもたらしたのはマルクス、エンゲルス、レーニンなのだ

だが、これだけでは「おかしい人がおかしいことを主張している」だけだ。恐ろしいのは、この疑似科学が正統派の生物学よりも力を持ち、国家レベルで礼賛されるようになったことだ。

本書は、三流の疑似科学が、正統派の科学を蹴落としてマジョリティになった経緯を、迫力ある筆致で暴いていく。

 
鍵となるのは「権力への迎合」「反対派への攻撃と抹殺」だ。

ルイセンコはまず「春化処理」という実例(科学的に見て根拠が貧弱だった)を発表した。まともな生物学者たちは批判したが、ルイセンコは「自分はブルジョワ科学ではなく、マルクス主義の科学である」「春化処理で食糧問題が解決できる」とスターリンにすりよった。スターリンは、失政による食糧難を解決できると、ルイセンコが提案した方法を褒め称えた。

権力者は「自分にとって都合がいい科学」を望み、実力では認められないエセ科学者は「自分が認められる舞台」を望んだ。疑似科学が礼賛される土壌はここからうまれた。

 

ルイセンコは権力のお墨付きを獲得していくと同時に、自分を批判する科学者を徹底的に攻撃した。ルイセンコが行った方法はシンプルだ。大量のデマと人格攻撃である。

ルイセンコへのやり口は巧妙だった。ルイセンコへの科学的批判を「共産主義への批判、マルクスへの批判、レーニンへの批判である」と論旨をすりかえていった。

階級の敵は、科学者であろうとなかろうと、常に敵である。『プラウダ』 

 

結果的に、ルイセンコの攻撃が減り、二流科学者たちがルイセンコ一派にすり寄ることで、ルイセンコ一派の数は増えていった。ルイセンコ一派は、自分たちのニセ科学をそれっぽく見せるため、「アンケート」という主観的かつ再現性がない非科学的な方法を用いながら、論文を量産した。

そしてついに、ルイセンコは科学界の人事権をにぎる。あとは簡単だ。反対者を更迭・降格・処刑して数を減らし、仲間を(もちろん三流だ)次々に重要ポジションにつけていけばいい。

事実の歪曲、デマゴギー、恫喝、会食、権力への依存、いかさま、虚偽報道、自己宣伝、批判の抑圧、弾圧、反啓蒙主義、誹謗、こじつけの避難、侮辱的なあだ名つけ、そして論敵の肉体的排除--これこそが30年間にわたって彼らの科学的概念の「進歩性」を裏付けてきた方法・手段の豊富なたくわえだった。他に有効な方法はなかったし、討論問題の比較的自由な検討は、いかなるものであれ、ルイセンコ主義を破滅の前途に立たせたからだ。

この恐るべきルイセンコ主義は30年あまりも続いた。多くの科学者が失墜、失望、落命していった。心ある科学者にとっては地獄の日々だっただろう。幸いにもルイセンコ主義は終焉を迎えていく。しかし30年は長かった。

 

本書を読んでいると、「やばい人間」「のっとり戦略」「健全な検討ができない制度」がすべてそろうと、破壊的な悪影響をもたらすことがわかる。スターリンとルイセンコ、2人の狂信的な人間が引き金であることは疑いがない。しかし、狂信的な人間だけでも、ここまで疑似科学がのさばることはなかった。

ルイセンコ主義がなぜここまで広がったか、著者は5つの要因を挙げている。

  1. 「ブルジョア科学」「プロレタリア科学」とレッテルづけする傾向
  2. 間違った政策・恒常的な食料危機
  3. 権力と管理の中央集権化
  4. ソ連の科学的な孤立
  5. メディアによる言論の抑圧と権力への迎合

 

レッテルづけ、中央集権化、孤立、言論の抑圧は、健全な検討ができない土壌をうむ。不安や危機は、時間がかかる議論より、わかりやすい解決策を望む気持ちをうむ。ここに、過激で単純な発言をする狂信的な人間を放りこめば、狂乱ができあがる。

私は、マルクス主義ならではの原因があるから、こんな狂った出来事が起こったのかと思っていた。しかし残念なことに、この作法は現代でも通用してしまう。膨大なロシア人の名前と生物学の解説があるため、かなり読み進めづらい本ではあるが、独裁カルトの作法についての類まれな記録だった。

 

Recommend

スターリンが食糧難を解決するために「生産性が低い人間=政府にとっていらない人間」を僻地へ「強制移住」させて大量餓死させた事件のレポート。スターリンは知れば知るほど邪悪すぎる。

 

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

 

流血地帯(ブラッドランド)とは、ポーランド、ウクライナ、バルト三国、ベラルーシあたりの地帯で、ヒトラーとスターリンが覇権を争うために何度も蹂躙と虐殺をおこなった地帯である。執念としか言いようがない大量の記録による、圧巻の歴史書。

 

 

『隠された悲鳴』ユニティ・ダウ|弱者をすりつぶす儀礼殺人の邪悪

 これから5年後に、ひとつの箱が開かれ、無視することのできない悲鳴が漏れ出すことなど、3人は知る由もなかった。

ーーユニティ・ダウ『隠された悲鳴』

 

海外文学を読み始めてから、魔術に関するニュースを追うようになった。東欧やアフリカでは魔術が日常に組みこまれていて、日本では目にしないようなニュースや事件がしばしば起こる。

さて、どの魔術世界にも平和な魔術と邪悪な魔術がある。両者の違いは「自分の欲望のために、他者を犠牲にするか否か」だと思う。

多かれ少なかれ魔術は欲望を叶える手段であり、なにかしらの「対価」を求めるものだ。対価が、自分の努力や自分が所有する物質ならばいい。だが、自分のために他者を対価にする魔術も根強く存在する。

本書は、自分の欲望を叶える「儀礼殺人」にまつわる、度し難く邪悪な物語である。 

隠された悲鳴

隠された悲鳴

 

 

南部アフリカ・ボツワナの現役大臣が書いた、一風変わった本書は、1990年代ボツワナが舞台だ。ボツワナはアフリカの中でも政治と経済が安定した国で、昔ながらの呪術も広く信じられている。

事件は、ボツワナの辺境にある村で起こる。都会っ子が「ライオンと象ばかりの田舎」と呼ぶ地域に、医者志望の女性アマントルが、国家奉仕プログラムのために赴任する。村の診療所でアマントルは、ある古ぼけた箱を見つける。その箱は、禁断の箱だった。箱が開かれた瞬間、隠された悲鳴が漏れ出して、未解決の少女殺人事件、ネオ・カカン事件につながっていく。

 

本書を読むと、儀礼殺人の邪悪な構造が見えてくる。儀礼殺人は、一般的に「解決されない」事件である。なぜなら、儀礼殺人は「権力を持ち社会的に成功している男性」によって行われるからだ。

権力をより強化するため、より高い権力を得るため、野心のために、権力を持つ男たちは10代前半の若い少女を「子羊」として生きたまま解体し、死体の一部を薬にして使う。

権力者が背後にいるから、警察は動かない。それどころか証拠や裁判記録を隠蔽したり消失させたりして、「被害者サイドの記憶違い」として処理しようとする。こんな理不尽が、慣習として根づいてしまっている。

 

本書は、「力と富を持つ者」がより所有するために、「持たざる者」を道具としてすりつぶして犠牲にする、悪の構造を描いている。

儀礼殺人の根底にあるのは「利己主義」「力の不均衡による搾取」「自分が属する集団以外を人間扱いしない蔑視」だ。

呪術は、欲望の成就と対価の交換である。自分がなにかを得たいなら、自分が持つものを対価として出せばいいはずだ。しかし儀礼殺人はたくみに「無垢な者が必要」などとこじつけて、対価を自分以外の他者、自分よりも弱い他者に押しつける。結果、生贄には「自分や仲間が犠牲を払わずに済む者」が選ばれる。

 

わたしたちの中にはみな、怪物が潜んでいるのだろうか? もしわたしたちが恐怖に身をすくませ、邪悪さから目をそらしたら、誰が無垢な子どもの叫びに耳を貸すのだろう?

著者は「儀礼殺人」というアフリカの現象をとおして、どの社会でも見られる悪の構造を提示する。

アフリカ以外の国では、儀礼殺人は一般的なものではない。だが、強者が弱者を人間扱いせず、自分の道具として搾取して使いつぶす構造は、どの国でも、どの時代でも繰り返されてきた。

私は、ボツワナの政治も大自然も呪術も目の当たりにしたことがない。それでもこんなに「近い物語」だと感じるのは、人類の良心と邪悪にうんざりしつつも、悲鳴を無視しない世界を望んでいるからかもしれない。

「こんなに美しいものと邪悪なものが同時に存在しているなんて」 

 

Recommend

明るい魔術のアフリカ。アフリカ中を旅してまわったジャーナリストの記録。呪術師も出てくるが、呪術師以上に著者の強運が魔術めいていてすごい。

 

明るい魔術のアフリカ。アフリカ・コンゴで伝説の怪獣モケレ・ムベンベを探す著者が、呪術師や魔女とタフにわたりあいながらサバイブする。こちらもまた著者の強運が魔術めいている。

 

邪悪な魔術のアフリカ。アフリカにある架空の国で、地獄と地獄と地獄が展開する。本当に息が絶え絶えになった。

 

『アイスランドへの旅』ウィリアム・モリス|聖地巡礼の旅

アイスランドはすばらしい、美しい、そして荘厳なところで、私はそこで、じっさい、とても幸せだったのだ。 

――ウィリアム・モリスアイスランドへの旅』

 

ヨーロッパに住んでいた頃、時間を見つけてはヨーロッパの国々を周遊していた。どこの国がよかったか、と聞かれると答えに迷うが(文学、美術、食事、遺跡、いろいろな切り口がある)、最も驚いた国はアイスランドだった。

冬至が近づいた真冬に、オーロラが見たいと思いたち、友人に声をかけてふらりとでかけたら、あまりにも異界めいた光景が続いていて、あぜんとした。今でも、真っ黒い溶岩の岩山、真っ青な流氷の群れ、透きとおる氷が散らばった海岸線、青い鉱石の断面図みたいな氷河を思いだす。エッダとサガのうまれた土地はすさまじかった。

アイスランドへの旅 (ウィリアム・モリス・コレクション)

アイスランドへの旅 (ウィリアム・モリス・コレクション)

 

本書は、 「モダンデザインの父」と評されるウィリアム・モリスが、アイスランドを6週間にわたって友人とともに旅行した記録である。モリスは大のエッダ・マニアだったようで、エッダとサガを熟読したうえでアイスランドへ旅をした。

本書ではずっと「これがあの物語の土地か」「これがあの事件の起こった場所か」とエッダとサガにまつわる話をし続けていて、マニアが聖地巡礼する姿そのものである。いつの世もマニアやオタクの行動は変わらない。

モリスのアイスランドへの情熱はなみなみならぬものがある。時は19世紀、飛行機や車などがない時代にヨーロッパの最果てに旅行することは、今よりもずっと難しかった。モリス一行は、アイスランドへは船で行き、アイスランドの荒野を、30頭のロバを連れて野営しながら進んだ。川を渡るだけでも一大事で、何時間もかかる。

しかも、彼らが旅するのは、今のように観光ルートが確立されたアイスランドではなく、溶岩や岩山、川、湿地帯などが続く、溶岩でできた果てしない荒野だ。モリスはなにもない荒野にエッダやサガの物語を重ね合わせて、灰色の湿地帯から物語を読み取ろうとする。荒野で楽しくなれるオタクの情熱はすさまじい。

 

単調な荒野ばかりが続くので、読み進めることがなかなかつらく心が何度も折れかけたが、モリスのエッダ・マニアぶり、アイスランドの人たちとごはんをおいしそうに食べる姿、友人たちと悪ふざけをする姿がかわいく、予想に反してモリスを愛でる読書となった。いつの時代もどの国でも、愛好家は愛好家だ。

 

 

アイスランドの記憶

 

Recommend 

エッダ―古代北欧歌謡集

エッダ―古代北欧歌謡集

 

エッダを訳した書物。原文は解説がないとだいぶ読みにくいが、古代の詩を味わうにはやはり原文がよい。 

 

 いくつかあるエッダとサガをまとめて解説しているため、わかりやすい。

 

物語北欧神話 上

物語北欧神話 上

 

『壊れやすいもの』などの作者である作家ニール・ゲイマンが現代語でわかりやすく北欧神話を語り直した。若者でも読めるように、との心遣いがあるため、とてもわかりやすくてよい。

 

北北西に曇と往け 1巻 (HARTA COMIX)
 

 現代アイスランド漫画。モリスが歩いた荒野と明るい観光地をどちらも楽しめる。

 

 バイキングが跋扈していた戦国北欧マンガ。ここに描かれるフィヨルドの島々がリアルでよい。

 

アイスランド在住の朱位昌併さんによるWebサイト。アイスランド文章を翻訳して紹介している。

『方形の円-偽説・都市生成論』ギョルゲ・ササルマン|建築不可能な都市たちの生と死

その都市には起点も終点もなかった。いつもその周囲に群がっているヘリコプターから見ると一つの巨大な塔に似ていて、頂上部は遠近法効果で小さく見え、遠い彼方に消えていた。

ーー「ヴァーティシティ 垂直市」 

 

『方形の円 偽説・都市生成論』は、タイムラプス動画のような小説だと思う。

タイムラプスは、星や雲の動き、生命の栄枯盛衰など、長時間の観察を必要とする経過を早送りして、わずかな時間に圧縮する。タイムラプスを見ることは、人類の時間軸を超えること、人間ではない「なにか」の視点を借りて「世界のうねり」をのぞき見ることだ。

本書の読者は、シャーレ上の菌コロニーを観察するように、人類がこの目で観察できない都市の生成と滅亡を、爆発的な早送りで観察することになる。

 

方形の円 (偽説・都市生成論) (海外文学セレクション)

方形の円 (偽説・都市生成論) (海外文学セレクション)

 

 

本書は、奇妙な都市が生成して滅亡する姿を、数ページに圧縮して繰り返す。垂直、格子状、六角形、円筒の形をした奇妙な都市と建築がうまれては消えていく。

どの都市もすばらしく魅力的な名前がついている。ヴァヴィロン(格差市)、アラパバード(憧憬市)、イソポリス(同位市)、ヴァーティシティ(垂直市)、クリーグブルグ(戦争市)、ノクタピオラ(夜遊市)、クアンタ・カー(K量子市)、アルカヌム(秘儀市)……名前だけでなく建築様式やフォルムも美しい。一方、住みやすい都市は驚くほど少なく、住民はいたりいなかったりするし、旅人には手厳しい(わりとすぐ死ぬ)。

見捨てられ忘れられ、植物の飽くなき攻撃に窒息しながら、壮麗な廃墟は、ジャングルの奥から、未来の考古学者の博識を待ちわびている。その一方、セネティア人種の最後の末裔は、秘密のセクトを構成して、世界の滅亡が近いと予言しながら地上を隈なく遍歴している。 

ーー「セネティア 老成市」

すぐ滅亡する都市もあれば、増幅し続ける都市もある。増える系都市としてもっとも好きだったのは、ムセーウム(学芸市)だ。

ムセーウムは、何重にも積み重なった死んだ都市の上に、生きた都市を積み上げ、また死んだら積み上げていく。もし世界の旧市街がこの都市生成方法を採用したとしたら、いったいどんなことになるだろうと、想像するだけで考古学好きの血が騒ぐ。

先人たちの 英姿に対する、そして歴史に対するうやうやしい尊敬の念に満ちた「布令」におって、いかなる家のいかなる理由による取り壊しも厳重に禁止された。違反すれば極刑となった。…もし古今東西最大の発明家の一人が、実に気の利いたシステムを着想しなかったら、おそらく「布令」はそれほど持続できなかっただろう。そのシステムは、新しい世代が現存の建物の屋根の上に自分の家を建ててもよいとするものだった。死んだ都市が幾重も積み重なり、頂上に生きている都市を聳えさせた……。

ーームセーウム(学芸市)

 

こんな奇妙な都市たちが、シャーレ上の菌コロニーのようにうごめいている。都市は人の生活のための容れ物ではなく、それ自身が生物であるかのようだ。

住民は、都市という名の生物の臓腑で生きる細胞だ。人類は都市をつくるだけではなく、都市によってつくられる。住民は、都市に合わせてその姿や生活を変えていく。ポセイドニア(海中市)では人類はますますイルカに似てくるし、アンタール(南極市)では真っ暗い世界で生活するため人類が淡い光を放ち、プロトポリス(原型市)では類人猿へと近づいていく。

時とともに、人類はますますイルカに似ていくだろう……。

ーー「ポセイドニア 海中市」

 

著者は、生活や思考といった「個人の視点」からは遠く距離をとるものの、人類から目線をそらさず、都市と人類をまとめてひとつの「運命共同体」として観察し続ける。おそらく著者は人間に興味があるのだろうが、果てしなく遠い距離感と容赦のなさのためか、この小説はどこか人外めいた空気をまとっている。

どの都市も遠くから眺めていたいが、旅や居住はあまりしたくない(たぶん死ぬ)。こんなふうに、美しく奇妙で過酷な世界を観察する私たちもまた、異界から眺めてくる観察者たちから「見てるぶんにはいいけれど住みたくはない」と思われているのかもしれない。

 

収録作品

気に入った作品には*。

  • 「ヴァヴィロン 格差市」**
  • 「アラパバード 憧憬市」**
  • 「ヴィルジニア 処女市」
  • 「トロパエウム 凱歌市」*
  • 「セネティア 老成市」
  • 「プロトポリス 原型市」**
  • 「イソポリス 同位市」**
  • 「カストルム 城砦市」
  • 「・・・」
  • 「ザアルゼック 太陽市」
  • 「グノッソス 迷宮市」
  • 「ヴァーティシティ 垂直市」**
  • 「ポセイドニア 海中市」*
  • 「ムセーウム 学芸市」**
  • 「ホモジェニア 等質市」**
  • 「クリーグブルグ 戦争市」*
  • 「モエビア、禁断の都」*
  • 「モートピア モーター市」**
  • 「アルカ 方舟」
  • 「コスモヴィア 宇宙市」
  • 「サフ・ハラフ 貨幣石市」**
  • 「シヌルビア 憂愁市」*
  • 「ステレオポリス 立体市」**
  • 「プルートニア 冥王市」
  • 「ノクタピオラ 夜遊市」**
  • 「ユートピア」
  • 「オールドキャッスル 古城市」
  • 「ゲオポリス 地球市」
  • 「ダヴァ 山塞市」**
  • 「オリュンピア」
  • 「ハットゥシャシュ 世界遺産市」*
  • 「セレニア 月の都」
  • 「アンタール 南極市」**
  • 「アトランティス」
  • 「クアンタ・カー K量子市」**
  • 「アルカヌム 秘儀市」**

 

Recommend

見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

 

訳者や著者本人が、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』を挙げている。短い断章形式で架空の都市を描くスタイルは確かに似ているが、読んだ印象はだいぶ異なる。『方形の円』のほうが、より都市と住民の運命は一体化している。それにしても、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』と『方形の円』が別々にほぼ同時期に書かれたことは、驚きである。(『タタール人の砂漠』と『シルトの岸辺』のように、同時期に生成される奇妙ななにかがあるのかもしれない)

 

ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所 野又穫作品集

ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所 野又穫作品集

 

 本書の想定画を描いた日本人画家の画集。空想の建築ばかりがえんえんと続く、すばらしい画集。『方形の円』は野又穫でジャケ読みした。

 

空想の建築、建築不可能な建築(アンビルト)ものとして最近に読んだ。ピラネージは優れた風景画家として建築を完璧に描く。建築への深い造形と想像力のコンビネーション、人間の生活から離れた雰囲気が似ている。

 

メイドインアビス 1 (バンブーコミックス)

メイドインアビス 1 (バンブーコミックス)

 

同じく「場」が主人公の作品。 奇妙な都市と容赦のなさ、美しく過酷な世界をのぞく好奇心と後ろめたさが、どことなく似ている。

 

 

『ミステリウム』エリック・マコーマック|奇病で村全滅ミステリのふりをしたなにか

「動機。あなたはほんとうに動機や原因や結果みたいなものを信じているの? 本や劇以外で、未解決の事柄がきちんと片付くと信じているの?」

ーーエリック・マコーマック『ミステリウム』

 

マコーマックは、物語を組み上げると同時に内側から解体しにかかる作家だと思う。

するすると物語が組み上がっていくように見えて、ずっと足元がひそかに掘り崩されている。やがて足元が崩れて、読者は予想しなかったところへ放り出される。

マコーマックに感染した物語は、王道の物語のふりをした「なにか」になる。

ミステリウム

ミステリウム

 

「ミステリー小説」にマコーマックが感染した小説が『ミステリウム』だ。

物語は、いかにもミステリーらしい展開で幕を開ける。

スコットランドを思わせる「北部」の寒村キャリックで、住民がしゃべり続けた果てに死ぬ奇病が発生する。原因はわからない。治すすべはない。致死率100%の未知の病である。

奇病が発生する直前に、不穏な兆候はいくつもあった。「水文学者」なる外部の男マーティン・カークがやってきて、キャリックについて調べ回っていた。よそ者がきてから、町の公共物が破壊される事件が続いて、そして住民たちが死に始める。

死に飲まれつつある閉鎖空間キャリックに、若い新聞記者ジェイムズ・マックスが滞在を許可される。語り手は、死につつある証言者たちにインタビューすることで、疫病と事件の手がかりを追い求める。この疫病の正体はなにか、犯罪の動機はどこにあるのか、なぜキャリックが狙われたのか。

 

物語にはミステリーらしい要素すべてがそろっている。さびれた炭鉱町、吹きすさぶヒースと荒野、怪しいよそ者、町に伝わる「ミステリウム」の祭り、町に伝わる秘められた歴史、よそ者、唯一の生き残り、死ぬ運命にある証言者たち。すべてが完璧だ。

あとは真実を暴くだけ。しかし、語り手と読者の期待をよそに、住民たちは  「真実を語ることができるのは、君があまりよく知らないときだけだ」と口をそろえて煙に巻く。

   「しかし私は北部が好きになった。なかなかうまくいえないのだが、北部のほうが南部よりも複雑なのだ。こちらではなにひとつ単刀直入ではない。人は隠し事をする。ごく些細なことでさえ。しかもその理由ははっきりしないーーひょっとしたら転生の秘密好みにすぎないのかもしれない。北部ではほんとうの謎がさらに謎めいたものになるのだ」

 

この小説は、謎と、謎に引き寄せられる人間たちのための物語だと思う。

理解できないことや謎を提示されると、人は2つのことを要求する。まず「なぜ」を知りたがる。そして「因果」を見いだしたがる。「なぜ」と「因果」がわかることで、人は興奮して快感を得る。ミステリーや陰謀論はこの「謎の仕組みを理解したい欲求」に応える。

マコーマックは人間の欲求を完璧に理解していて、抜群におもしろい物語と手がかりを提供してくれる。ミステリというメインディッシュだけではなく、脱線話のサイドディッシュもじつに凝っていておもしろい。そうしてじゅうぶんにもてなした後に本性を現す。

マコーマックは確信犯だ。しかし私も共犯だ。マコーマックだとわかっているのに、のこのこと見物にいって、ひきずりこまて爆破されて、満足しながら帰ってくる。書く阿呆に読む阿呆。どちらも途方もなく救いがたく、ゆえに愛するしかない。

 

Memo:『ミステリウム』世界の地理

『ミステリウム』では具体的な地名が描かれていないが、基本はイギリスの地理に即していると思われる。

  • 北部…本書の舞台。ブリテン島における北部にある、スコットランド。著者の出身地。スコットランドは歴史的に南部(イングランド)と戦いながら併合された歴史があり、現在では穏やかな共存をしつつも、独自の政治と文化を持つ。北部の島はゲール語文化が残っている。
  • 南部…ブリテン島の南部にある、イングランド。日本人が「英国」と聞いて思い浮かべるのはだいたいイングランドのこと。イングランドの首都はロンドンで、UKの首都でもある。
  • 首都…イングランドの首都ロンドンか、スコットランドの首都エディンバラか迷ったが、文脈と町並みの描写から考えるに、エディンバラのほうだと思われる。
  • 植民地…おそらくアメリカ。同じ言語だが話し方が異なる描写がある。

エリック・マコーマックの感想

Recommend

スコットランドの島を舞台にした小説。灰色の空、ヒース、荒野、陰鬱な空気と陰惨な事件が満ちている。

 

『ミステリウム』は『悪童日記』三部作の『二人の証拠』『第三の嘘』を思わせる。これが真実だ、と思った後、物語はひっくり返り続ける。

 

『ミステリウム』も『コスモス』も一種のアンチ・ミステリである。
 

『競売』も『ミステリウム』と同じように「素人探偵が謎の組織を追うミステリー」プロットだが、ピンチョン界では証拠が足並みをそろえて探偵のもとへ突撃してくる。この「不自然なまでの都合のよさ」はマコーマック界にもある。そんなばかな、を全編にわたって展開し続けるピンチョン界を楽しめる小説。

 

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

 

 途中で登場する突飛な「犯罪学」が、思いっきりソシュールのシニフィアンとシニフィエのパロディで笑った。マコーマックお得意の真顔ギャグ。