ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『ペルセポリス』マルジャン・サトラピ|イスラム原理主義に変わった故郷

生のことだけ考えていたかった。でも、それはやさしいことではなかった

――マルジャン・サトラピ『ペルセポリス』

 

これまでできていたことができなくなったり、話せたことが話せなくなったり、選べていたものが選べなくなったり、やらなくてよかったことをやらなくてはいけなくなったり……こんなふうに生活が一変(それも窮屈なほうに)したら、どんな心地がするだろうか。

イランは1980年代に革命が起き、中東で最も近代化が進んでいた国から一転して、イスラム原理主義の国となった。

著者は、自由なイランとイスラム原理主義のイラン、両方を経験した女性として、政治や戦争への疑問と怒り、友人や家族への愛情と悲しみを、モノクロームのマンガで描き出す。

ペルセポリスI イランの少女マルジ

ペルセポリスI イランの少女マルジ

 
ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る

 

 

著者のマルジャンは、祖父が王族という上流階級出身で、自由と自尊心、反骨心を尊ぶ家庭で育てられた。少女の生活は、革命で激変する。これまで自由に言えたことを禁止され、服装を制限され、祈る人がすばらしい人と呼ばれる世界に変わる。

短期間でこれほど国と生活が激変するのは、近現代においては革命と戦争と国家消滅以外ない。だが、人の心や生活はそう簡単には変わらない。マルジャン一家やイラン人たちは、権力への不信や抵抗を示しながら、自分たちの世界と自由を守ろうとする。

 

マルジャンがとても素直、素直すぎるほどに、自身の心を観察して描く。彼女は、幼いころは「偉大な預言者になりたい」と思っていて、やがて政府に反抗する人々が尊敬されていると知ると、親族の中で拷問を受けた人を探して自慢したりする。幼い頃なら誰でも持つ「すごい人になりたい」欲求(そしてそれはおうおうにして後に恥の記憶となる)を、ここまで書ききることがすごい。

彼女は、自分の心境変化だけではなく、周囲の人々や社会の変化も冷静に観察する。特に彼女が描くのは、反抗する人々だ。彼女の家族は、家に警察が乗り込んでくる危険があっても、パーティーをしてワインを飲みまくる。警察がやってきたらワインはトイレに全部流すなど、やることがだいぶロックだ。従順に従ってたまるか、自由は私たちのものだ、という反骨心がいたるところに響いている。

人々は権力と戦うが、やがて権力が強くなっていくと抵抗は弱まっていく。知り合いや親族がどんどん国を出ていく姿、あるいは死んでいく姿を、著者は描きとめる。

やがてマルジャンは親の勧めでヨーロッパへと出ていく(『マルジ、故郷に帰る』はヨーロッパ生活が主軸)のだが、ヨーロッパでの生活は「故郷から離れた人」の疎外感と「若者らしい生きづらさ」に満ちている。

 

本書は、革命がいかに人々の生活と家庭を激変させ、人の心と命を奪うかを鮮やかなモノクロームで描き出している。

少女マルジの素直な独白と反骨心がよい。イスラム社会では、女性は男性よりも地位が低く生きづらい。しかし、彼女たちは、制限されている中で、自分たちなりの自由を楽しみ、反抗し、心を守ろうとする。(もっとも著者はイラン人の中でもかなり裕福な家庭にうまれているため、高い水準の教育とヨーロッパ生活による多様な視点を形成できたことは間違いない)

マルジャンは格好悪さをさらけ出し続けるが、やっぱり格好いい。だからきっと本書は、世界中で読まれたのだろう。

 

Recommend 

テヘランでロリータを読む(新装版)

テヘランでロリータを読む(新装版)

 

文学を読むことは、抵抗となる。革命後の生きづらいイランで、ヨーロッパで教育を受けたイラン人女性が、『ロリータ』を読む秘密の読書会を始める。自由を求める精神は、マルジの物語と重なるところが多い。ふたつまとめて読むことをおすすめ。

 

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

サトコとナダ(1) (星海社コミックス)

 

 サウジアラビア人の女の子ナダと、日本人サトコの共同生活。イスラム社会の女子たちが、表向きはそれほど目立たずに過ごしながらも、家庭や友人の前でははじけている様子がわかってとてもよい。(マルジャンのはじけぶりは別の意味ですごいが)

  

未来のアラブ人――中東の子ども時代(1978―1984)

未来のアラブ人――中東の子ども時代(1978―1984)

  • 作者: リアドサトゥフ(Riad Sattouf),鵜野孝紀
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2019/07/26
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

シリア人作家が描くバンド・デシネ。独裁政権の下で働く人間の心を描き出している。

 

マッドジャーマンズ  ドイツ移民物語

マッドジャーマンズ ドイツ移民物語

 

 1980年代に、アフリカからドイツへ移民した若者の物語。事前に聞いていた話と違う労働環境で、過酷な生活を強いられる世界は、今でも他人事とは思えない。

『波』ソナーリ・デラニヤガラ|耐えがたい現実を生きのびる

告白しないのは、まだ私自身が、起こったことをこんなにも信じていないからだとも思う。私はまだ愕然としている。自分に真実を言い聞かせなおすたびに唖然とするのだから、なおさらだろう。だから私は手間を省くために回避する。私は自分がその言葉を言うところを想像する――「私の家族、全員死にました。一瞬で消えました」――そしてくらくらする。

――ソナーリ・デラニヤガラ『波』

 

 

耐えがたい壮絶な痛みや苦しみと付き合うため、人はそれぞれに、なにかで気をまぎらわせたり、新しい幸せを見つけたり、逃れるために自死を選んだりする。これらの方法に優劣はない。向き不向き、好き嫌いがあるだけだ。なるようになるしかない。

本書は、家族全員の死という、あまりにも耐えがたい現実を否定し続け、唖然とし続けた女性の、壮絶な絶叫と回復の記録である。

 

波 (新潮クレスト・ブックス)

波 (新潮クレスト・ブックス)

 

  

タイトルが示す「波」は、2004年末に起きた、スマトラ島沖地震による津波だ。

スリランカ人の著者は、クリスマス休暇でスリランカの海辺にあるホテルに宿泊していたところを津波に襲われ、夫と息子2人、両親の5人をいっぺんに失った。

著者は友人たちから「夢のようなものを持っている女」と呼ばれていた。愛する夫に愛する息子たち。イギリスの名門大学での教育に、イギリスでの経済学者としてのキャリア。ロンドンのすばらしい家。スリランカには裕福な両親が住んでいて、休暇のたびに一緒に過ごせる。確かに彼女は満たされていた。

その満ち足りた生活を、彼女は波と泥ですべて失った。「見て、波が来る」。波によって著者は家族をすべて失い、彼女だけが奇跡的に生き延びる。

ここから、著者の壮絶な苦しみと絶望が始まる。

走り続けるバンの後部座席に、いつまでも座っていたい。あと何時間かすれば明るくなる。明日になる。明日になってほしくない。明日になると真実が始まることに、私は怯えきっていた。

もともと本書は、セラピストが勧めた手記だった。だから序盤は、著者のすさまじい怒りと悲しみと絶望と自殺願望に満ち満ちている。なにを恨めばいいかわからないから、自分も含めて世界すべてを呪い、八つ当たりのように他者を攻撃して、薬と酒に依存してみずからを痛めつける姿は、とてもつらい。

半分酔って、半分薬漬けで、私はインターネットであの波の画像を検索した。破壊された現場。死体、遺体安置所、集団墓地。怖ければ怖いほどいい。その画像を何時間も呆然と見つめた。いま私はすべてを現実ととらえたかったが、それを試みることすら、酔っていなければできなかった。

彼女は全身全霊をこめて、家族の不在を拒否する。拒否して拒否して、思い出させるものすべてを締め出そうとする。

著者は、家族全員がいなくなってしまった現実をまったく信じていない。過去と現実世界にたいして、勝利が不可能な戦いを挑み続ける。

彼らがいま体験できないでいることのすべてを、私は必死で締め出した。そしてすべてのものに怯えた。すべてがあの生活とつながっていたから。彼らをわくわくさせたものは、すべて破壊したかった。花を見るとパニックになった。マッリが私の髪に挿すはずの花だ。芝生の一本の草も我慢できなかった。そこはヴィクが踏みつけるはずのところだ。

ヴィクは仲間たちといることがとても好きだった。そして彼にはそれができないのに、私が彼らといっしょにいる。私は密輸品を扱っているような気持ちになる。

 

しかし、現実は容赦なく現実のままだ。希望と現実の絶望的な落差に、著者はなんどもなんども驚き続け、唖然とし続ける。

  その夜、窓に風が吹きつける中、私は自分のシェルターをほんの一瞬で失ったのだということを悟った。それまでも、この事実から逃れられてはいなかった。まったくそんなことはない。それでもその瞬間、そのことがあまりにはっきりして、私を圧倒した。そして私はまだ震えている。

告白しないのは、まだ私自身が、起こったことをこんなにも信じていないからだとも思う。私はまだ愕然としている。自分に真実を言い聞かせなおすたびに唖然とするのだから、なおさらだろう。だから私は手間を省くために回避する。私は自分がその言葉を言うところを想像する――「私の家族、全員死にました。一瞬で消えました」――そしてくらくらする。

絶望の暗闇を絶叫しながら駆けぬけた先に、著者はある境地にたどりつく。

 

ナイフを自身に突き立てるかのような文章に、読んでいるだけで息が絶えだえになる、壮絶な本だった。

私は本書を読む前、時間の経過がやがて彼女の痛みをやわらげ、生きている隣人や仕事や宗教などの「現実」が不在を埋める展開を想像していた。

まったく違った。著者の家族は、時間が経過すればするほど、むしろ圧倒的に私たち読者の前に立ち現れてくる。

神に頼らず、死に頼らず、忘却に頼らず、人は耐えがたい過去、受け入れがたい現実と折り合いをつけられるのだと知る。家族の死から始まり家族の死で終わる書物で、序盤はひたすらにつらいが、最後の一文はまぶしく明るい光に満ちている。

現実と希望のすさまじい落差を越えていく想像力なるもの、人間が持つ驚異的な力をかいま見た気がした。

 

 

 Recommend

戦下の淡き光

戦下の淡き光

 

 著者と同じくスリランカ出身。『波』の出版を手助けした。

 

ラニヤガラの魔法は、南米の魔法を思わせる。

 

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)

 

 

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

津波の霊たちーー3・11 死と生の物語

 

 読みたい。3.11を経験した人たちにインタビューをしたノンフィクション。

 

冬に読みたい海外文学20冊

 雨が降ると地面が凍えたように青くなる季節になった。わたしは冬に鍋をするのが好きだが、それ以上にアイスクリームを食べるのが好きだ。寒い冬にあえてもっと寒いことをするのが好きなのである。
 というわけで、寒い土地の冬を描いた海外文学リストである。セレクトのテーマは「冬の厳しさと美しさ」(このテーマで選ぶと、なぜかロシアが入らなかった)。ぬくぬくとした部屋で、スープをすすりながら、のんべんだらりと読みたい(2019年1月更新)。





カナダ、ケープ・ブレトン島の厳冬を描く。透きとおるように寒い、流氷のような世界と、人間の悲哀と誇りが結晶のようにきらめく。本当にどれもよくて参る。



デンマーク文学。掟と抑圧に抗おうとする人たちの物語。冬の終わりのヴィジョンが鮮烈な「ペーターとローサ」のラスト1ページがすさまじいので、まずはこれだけでも読んでほしい。




アメリカのシカゴに住む移民たちの短編集。「冬のショパン」「ファーウェル」で描かれる冬の美しさといったら! 



フィンランド文学。絶海の孤島で、相棒とふたり暮した芸術家の記録。冬がやってきて港が凍るまで、ただ静かに波の音を聞いて暮らす日々。



フィンランド・ラップランド文学。オーロラとともに生きたサーメ人の伝説。彼らにとって、冬と夜は極彩色。



アイルランドのアラン島に居ついた作家のエッセイ。ケルトが息づく土地で過ごす日々。



イタリアのヴェネツィアに滞在したロシア人作家のエッセイ。冬のヴェネツィアは霧に飲まれて、前を歩く人も見えないような、霧の迷宮となる。夢とヴェネツィアの小道がまざってあいまいになって、自分も一緒に溶けていく。須賀敦子好きならきっと好き。



イギリス文学。世界も人間関係も魂もすべてが絶対零度まで冷え切っているのに、世界が破滅するほどに美しい。世界が破滅するまっただなか、氷のアルビノ少女を地の果てまで追いかける、アポカリプスラブの極北。



スペイン文学。頭の中が真っ白に吹きすさぶ圧倒的な孤独について、これよりすごい作品を知らない。



アイルランド文学。ぬくもりを求めて男がひとり青い野を歩く。表題作が絶品。





アイルランド文学。冬になにか読みたいと思ったら、とりあえずトレヴァーを選んでおけばまちがいはない。人のぬくもりを求め、失い、それでもまだなにかを人は求める。




フランス文学。夜に落とした青い宝石、あるいは鉱物のような美しさ。冬と夜には、人が住んでいる証、光を求めたくなる。


owlman.hateblo.jp

アメリカ文学。マイナス50度の土地をひとりと1匹が歩き、火を熾そうとする。絶対に失敗できない状況での心境、自分を信じたい心と罵る心、希望と罵倒と絶望が氷河のようにとぎすまされた文体で広がる。とにかく読んでいて手先が凍る。スープと紅茶を用意してからお読みください。


owlman.hateblo.jp
オーストリア。極寒のオーストリアの僻村で、精神が液体窒素のような男が、孤独の言葉をひとりで吐きまくる。孤独で凍てついた心の呪詛で、読んでいるほうの心も氷漬け。



北欧神話。北欧に住むヴァイキングの先祖が語った、驚異的な冬の世界。彼ら北欧の人々は「太陽がのぼらない永遠の冬」を心底おそれた。



北海道。アイヌの生活を描いた神の歌。「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」――透明な雪の結晶のような言葉の美しさ。



その他の海外文学リスト



『淡い焔』ウラジミール・ナボコフ|ボリウッド+サイコホラーめいた文学解説

 

私としても、明快たるべき文献研究資料をねじ曲げ変形させて、怪物じみた小説もどきを拵えるつもりは毛頭ない。

――ウラジミール・ナボコフ『淡い焔』

 

『Pale Fire(淡い焔)』という厳かな題名、「詩に注釈をつける男の物語」という生真面目なあらすじからは、およそ想像もつかない小説だ。

「私としても、明快たるべき文献研究資料をねじ曲げ変形させて、怪物じみた小説もどきを拵えるつもりは毛頭ない」とナボコフが書いたのは、おそらくナボコフ流の真顔ギャグだろう。本書こそが「怪物じみた小説もどき」そのものなのだから。

淡い焔

淡い焔

 

 

アメリカの著名な詩人ジョン・シェイドが、長編詩を書いた直後に死んだ。隣人であり友人でもあるチャールズ・キンボードがシェイドの詩を編集し、注釈をつけて、詩集『淡い焔』として刊行した。

このあらすじから、おそらく読者は真面目かつ重厚な専門書を想像するだろう。詩人か詩のファンぐらいしか楽しめないのではないかと躊躇するかもしれない。だが、この予想は振り切って裏切られる。 

読者は読み始めてすぐ異様さに気づく。序文から、注釈者キンボートが最前線に出てきて自分語りを始める。その前のめりぶりと自己陶酔ぶりは圧倒的で、「これからやばいものを読むことになる」と心拍音が否応なしに上がっていく。

はっきり言おう、私の註釈がなければシェイドのテクストは人間的リアリティをいっさい持ちえない……

本書は、シェイドの詩パート、キンボートの注釈パートに分かれている。例えるなら、シェイドの詩は、雨音が聞こえる室内で家族の死について語るささやき声のようなもので、キンボートの註釈は、ドラと銃声が鳴り響くボリウッドアクション映画とサイコホラー映画を足したようなものだ。

サイコホラー・ボリウッド映画めいた詩の註釈など、ありうるだろうか? ある、としか言いようがない。

註釈で語られるのは、詩の注釈(いちおうちゃんとある)、シェイドに対するキンボートの熱狂的な執着、ゼンブラという謎の国で起きた驚くべき冒険譚である。

 

キンボートのしゃべりは、やばい人の語りそのものだ。相手の言葉からキーワードを拾ってはすぐ自分の話につなげる人のように、キンボートは詩の一言を抜き出して、ゼンブラ冒険譚と自分語りをしゃべり倒す。

シェイドへの熱狂的な執着も危ない。出会って数か月しか経っていないのに「シェイドの唯一無二の親友であり理解者」と自称して、シェイドを独占したいあまり、シェイドの周囲にいる人すべてを貶す。一方で、シェイドが好みそうもない「竜皮でオリエンタルな色使い、侍にうってつけのゴージャスなシルクガウン」という悪趣味極まりないものをプレゼントしたりする(ここのシーンは本当に笑った)。

狂人キンボートの語りに時に笑い、時にドン引きし、時に心をえぐられながら読み進めていくうちに、「認知の歪み」は増幅し、読者は何度も視点をぐるぐるりとひっくりかえされる。ナボコフは二重の読みを用意しているため、読者は「キンボートが見ている世界」と「現実の世界」の落差に気づき、笑いと悲哀に飲み込まれていく。

だがもちろん、この追悼記事の最も驚くべき特徴は、その中に一言たりとも、ジョンの生涯最後の数か月を明るく輝かせた、あの栄光に満ちた友情への言及がないことだろう。 

 『淡い焔』の決定稿は、この私が寄贈した素材の痕跡を一つ残らず意図的かつ徹底的に消し去ったものだと結論できよう。

 

キンボートはまぎれもなく狂人だが、芸術や創作を愛する人たちはなにかしら「キンボートのかけら」を持っている。

作品に、自分の物語や希望や主張を見出すことなんてしょっちゅうだ。研究者だって、作品の中から著者の経験を探したり、影響した作家や映画の痕跡を探そうとする。

「私の評価は概してとても甘い[とシェイド]。ただ、些細ながらもいくつかの店は容赦しない」キンボートーー「たとえば?」

「課題図書を読んでいない。阿呆みたいに読んでいる。作品の中に象徴を探すーー例『著者が緑の葉という印象的なイメージを用いているのは、緑が幸福と挫折の象徴だからである』。あと、『簡潔な』や『誠実な』を称賛の意味で使っている学生がいたら、壊滅的に減点することにしている。

作品に限らず、対人関係でも同じことが言える。自分が知っていることを相手に見出し、相手は自分と同じだと共感して好感を抱き、それらの幻想を恋または友情と呼ぶ。

これら度しがたい人類の勘違い、「芸術への態度」「他者への態度」の極北が、キンボートの注釈なのだと思う。だからキンボートへの感情は、オタクであればあるほど複雑になる。

 

 

それにしてもナボコフは、片思いをして失恋する狂人を描くことがすさまじくうまい。

相手を理解せず、相手が求めることを知らず、狂人は執着と妄想で練り上げた愛という名のヘドロめいた感情を咆哮する。しかし、相手のことを考えない愛は受け取られず、魂は孤独のままさまよう。その姿は悲しく愚かな美しさに満ちている。

魂が交わらないと知りながら、ヘドロのような苦しみと欲望にまみれながら、それでも人は魂の交わりを求める。この耐えがたい業をおそらく人は愛と呼ぶのだろうが、愛の渇望と孤独についてサイコ・ボリウッド・エンタメをまじえながら描くナボコフは、やはりただ者ではない。

 

訳書バージョン

淡い焔

淡い焔

 

最も新しい訳。両方読んだところ、私はこちらのほうが好みだった。

 

青白い炎 (岩波文庫)

青白い炎 (岩波文庫)

 

 もともとはちくま文庫で出ていた。長らく絶版で価格高騰していたところを復活した。訳はやや硬め。

 

ウラジミール・ナボコフの著作レビュー

Recommend

相手のことをまるで考えない、一方通行の愛と失恋大爆発といえば、ノートル=ダム。こちらは殺人にまで発展するので、よりやばさが激化している。

 

ガイブンの2大ストーカー犯罪者といえば『ノートル=ダム・ド・パリ』フロロと『ロリータ』ハンバート・ハンバートだと思っている。終盤の美しさは『ロリータ』が圧巻。

 

ある島の可能性 (河出文庫)

ある島の可能性 (河出文庫)

 

愛と魂の交わりを求めるが、その愛は届かない。孤独の闇から光を追い求めるヘドロに満ちた輝きが、『淡い焔』と似ている読後感だった。 

 

皆が愛を咆哮するが、その感情は交わらない。

 

『生物学と個人崇拝』ジョレス・メドヴェージェフ|国ぐるみで疑似科学を礼賛したカルト国家

「あなたはなぜダーウィンについて語り、なぜマルクスとエンゲルスから例を挙げないのか?

マルクス主義とは唯一の科学である。ダーウィニズムは一部にすぎない。真の世界認識論をもたらしたのはマルクス、エンゲルス、レーニンなのだ。

ーージョレス・メドヴェージェフ『生物学と個人崇拝』

 

血液クレンジングやガン民間療法など、今も疑似科学のニュースは後を絶たないが、かつて国ぐるみで疑似科学を礼賛していた国家があった

スターリン・フルシチョフ時代のソ連は「ブルジョワ的だ」という理由で生物学と農学を全否定し、共産主義イデオロギーに合致した疑似科学を「真実の科学」と礼賛した。

中心となった疑似科学者の名は、トロフィム・ルイセンコ。ルイセンコは科学者としては凡庸どころか三流だったが、急速に勢力を伸ばして生物学界を牛耳り、「ルイセンコ主義」という疑似科学の狂信が40年近くも続いた。なぜこんな事態になってしまったのか?

生物学と個人崇拝――ルイセンコの興亡 (ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集)

生物学と個人崇拝――ルイセンコの興亡 (ジョレス・メドヴェージェフ ロイ・メドヴェージェフ選集)

 

  ルイセンコは、形式主義的な、ブルジョア的な、形而上学的な科学として古典遺伝学を「閉幕」させ、代わりに自分たちの新しい遺伝学を「開幕」しようとしていただけだった。

ソ連の生物学者であり、ルイセンコ主義を目の当たりにした生物学者による奇書である。

本書は「生物学+農学+社会学+政治学+歴史学+哲学+狂気」という、世にも奇妙な構成要素でできている。ルイセンコのすべてを語ろうとすると、こうならざるをえないからだろう。ルイセンコ主義の問題を論駁するのは生物学の分野で、ルイセンコ主義の思想を解明するのは哲学で、ルイセンコ主義の台頭を説明するのは社会学と政治学の分野だからだ。

 
ルイセンコ主義とは、一言でいえば「共産主義イデオロギーに合致するようねじ曲げたニセ科学」だ。ルイセンコは従来の生物学を「ブルジョワ的」だと批判し、党史やマルクス主義のイデオロギーに一致させた「自分が考える生物学」を主張した。

例えば、ルイセンコ一派は「環境が変われば種はすぐに進化する」「遺伝子がお互いを好んで選択する」と主張する。また、異なる種を受粉させれば、小麦からライムギへ、大麦からエンバクへ、エンドウからカラスエンドウへとすぐに種が変わる、と主張していた。これはダーウィニズムの主張とは対立する。

発言を読んでいくと、ルイセンコは、科学とイデオロギーを同列に語り、むしろイデオロギーを優先させていることがわかる。

 「あなたはそうした進化(単純化)はあるという。だが党史の第四章には、進化とは複雑化であると書かれている。」

「あなたはなぜダーウィンについて語り、なぜマルクスとエンゲルスから例を挙げないのか?」

 マルクス主義とは唯一の科学である。ダーウィニズムは一部にすぎない。真の世界認識論をもたらしたのはマルクス、エンゲルス、レーニンなのだ

だが、これだけでは「おかしい人がおかしいことを主張している」だけだ。恐ろしいのは、この疑似科学が正統派の生物学よりも力を持ち、国家レベルで礼賛されるようになったことだ。

本書は、三流の疑似科学が、正統派の科学を蹴落としてマジョリティになった経緯を、迫力ある筆致で暴いていく。

 
鍵となるのは「権力への迎合」「反対派への攻撃と抹殺」だ。

ルイセンコはまず「春化処理」という実例(科学的に見て根拠が貧弱だった)を発表した。まともな生物学者たちは批判したが、ルイセンコは「自分はブルジョワ科学ではなく、マルクス主義の科学である」「春化処理で食糧問題が解決できる」とスターリンにすりよった。スターリンは、失政による食糧難を解決できると、ルイセンコが提案した方法を褒め称えた。

権力者は「自分にとって都合がいい科学」を望み、実力では認められないエセ科学者は「自分が認められる舞台」を望んだ。疑似科学が礼賛される土壌はここからうまれた。

 

ルイセンコは権力のお墨付きを獲得していくと同時に、自分を批判する科学者を徹底的に攻撃した。ルイセンコが行った方法はシンプルだ。大量のデマと人格攻撃である。

ルイセンコへのやり口は巧妙だった。ルイセンコへの科学的批判を「共産主義への批判、マルクスへの批判、レーニンへの批判である」と論旨をすりかえていった。

階級の敵は、科学者であろうとなかろうと、常に敵である。『プラウダ』 

 

結果的に、ルイセンコの攻撃が減り、二流科学者たちがルイセンコ一派にすり寄ることで、ルイセンコ一派の数は増えていった。ルイセンコ一派は、自分たちのニセ科学をそれっぽく見せるため、「アンケート」という主観的かつ再現性がない非科学的な方法を用いながら、論文を量産した。

そしてついに、ルイセンコは科学界の人事権をにぎる。あとは簡単だ。反対者を更迭・降格・処刑して数を減らし、仲間を(もちろん三流だ)次々に重要ポジションにつけていけばいい。

事実の歪曲、デマゴギー、恫喝、会食、権力への依存、いかさま、虚偽報道、自己宣伝、批判の抑圧、弾圧、反啓蒙主義、誹謗、こじつけの避難、侮辱的なあだ名つけ、そして論敵の肉体的排除--これこそが30年間にわたって彼らの科学的概念の「進歩性」を裏付けてきた方法・手段の豊富なたくわえだった。他に有効な方法はなかったし、討論問題の比較的自由な検討は、いかなるものであれ、ルイセンコ主義を破滅の前途に立たせたからだ。

この恐るべきルイセンコ主義は30年あまりも続いた。多くの科学者が失墜、失望、落命していった。心ある科学者にとっては地獄の日々だっただろう。幸いにもルイセンコ主義は終焉を迎えていく。しかし30年は長かった。

 

本書を読んでいると、「やばい人間」「のっとり戦略」「健全な検討ができない制度」がすべてそろうと、破壊的な悪影響をもたらすことがわかる。スターリンとルイセンコ、2人の狂信的な人間が引き金であることは疑いがない。しかし、狂信的な人間だけでも、ここまで疑似科学がのさばることはなかった。

ルイセンコ主義がなぜここまで広がったか、著者は5つの要因を挙げている。

  1. 「ブルジョア科学」「プロレタリア科学」とレッテルづけする傾向
  2. 間違った政策・恒常的な食料危機
  3. 権力と管理の中央集権化
  4. ソ連の科学的な孤立
  5. メディアによる言論の抑圧と権力への迎合

 

レッテルづけ、中央集権化、孤立、言論の抑圧は、健全な検討ができない土壌をうむ。不安や危機は、時間がかかる議論より、わかりやすい解決策を望む気持ちをうむ。ここに、過激で単純な発言をする狂信的な人間を放りこめば、狂乱ができあがる。

私は、マルクス主義ならではの原因があるから、こんな狂った出来事が起こったのかと思っていた。しかし残念なことに、この作法は現代でも通用してしまう。膨大なロシア人の名前と生物学の解説があるため、かなり読み進めづらい本ではあるが、独裁カルトの作法についての類まれな記録だった。

 

Recommend

スターリンが食糧難を解決するために「生産性が低い人間=政府にとっていらない人間」を僻地へ「強制移住」させて大量餓死させた事件のレポート。スターリンは知れば知るほど邪悪すぎる。

 

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

 

流血地帯(ブラッドランド)とは、ポーランド、ウクライナ、バルト三国、ベラルーシあたりの地帯で、ヒトラーとスターリンが覇権を争うために何度も蹂躙と虐殺をおこなった地帯である。執念としか言いようがない大量の記録による、圧巻の歴史書。

 

 

『隠された悲鳴』ユニティ・ダウ|弱者をすりつぶす儀礼殺人の邪悪

 これから5年後に、ひとつの箱が開かれ、無視することのできない悲鳴が漏れ出すことなど、3人は知る由もなかった。

ーーユニティ・ダウ『隠された悲鳴』

 

海外文学を読み始めてから、魔術に関するニュースを追うようになった。東欧やアフリカでは魔術が日常に組みこまれていて、日本では目にしないようなニュースや事件がしばしば起こる。

さて、どの魔術世界にも平和な魔術と邪悪な魔術がある。両者の違いは「自分の欲望のために、他者を犠牲にするか否か」だと思う。

多かれ少なかれ魔術は欲望を叶える手段であり、なにかしらの「対価」を求めるものだ。対価が、自分の努力や自分が所有する物質ならばいい。だが、自分のために他者を対価にする魔術も根強く存在する。

本書は、自分の欲望を叶える「儀礼殺人」にまつわる、度し難く邪悪な物語である。 

隠された悲鳴

隠された悲鳴

 

 

南部アフリカ・ボツワナの現役大臣が書いた、一風変わった本書は、1990年代ボツワナが舞台だ。ボツワナはアフリカの中でも政治と経済が安定した国で、昔ながらの呪術も広く信じられている。

事件は、ボツワナの辺境にある村で起こる。都会っ子が「ライオンと象ばかりの田舎」と呼ぶ地域に、医者志望の女性アマントルが、国家奉仕プログラムのために赴任する。村の診療所でアマントルは、ある古ぼけた箱を見つける。その箱は、禁断の箱だった。箱が開かれた瞬間、隠された悲鳴が漏れ出して、未解決の少女殺人事件、ネオ・カカン事件につながっていく。

 

本書を読むと、儀礼殺人の邪悪な構造が見えてくる。儀礼殺人は、一般的に「解決されない」事件である。なぜなら、儀礼殺人は「権力を持ち社会的に成功している男性」によって行われるからだ。

権力をより強化するため、より高い権力を得るため、野心のために、権力を持つ男たちは10代前半の若い少女を「子羊」として生きたまま解体し、死体の一部を薬にして使う。

権力者が背後にいるから、警察は動かない。それどころか証拠や裁判記録を隠蔽したり消失させたりして、「被害者サイドの記憶違い」として処理しようとする。こんな理不尽が、慣習として根づいてしまっている。

 

本書は、「力と富を持つ者」がより所有するために、「持たざる者」を道具としてすりつぶして犠牲にする、悪の構造を描いている。

儀礼殺人の根底にあるのは「利己主義」「力の不均衡による搾取」「自分が属する集団以外を人間扱いしない蔑視」だ。

呪術は、欲望の成就と対価の交換である。自分がなにかを得たいなら、自分が持つものを対価として出せばいいはずだ。しかし儀礼殺人はたくみに「無垢な者が必要」などとこじつけて、対価を自分以外の他者、自分よりも弱い他者に押しつける。結果、生贄には「自分や仲間が犠牲を払わずに済む者」が選ばれる。

 

わたしたちの中にはみな、怪物が潜んでいるのだろうか? もしわたしたちが恐怖に身をすくませ、邪悪さから目をそらしたら、誰が無垢な子どもの叫びに耳を貸すのだろう?

著者は「儀礼殺人」というアフリカの現象をとおして、どの社会でも見られる悪の構造を提示する。

アフリカ以外の国では、儀礼殺人は一般的なものではない。だが、強者が弱者を人間扱いせず、自分の道具として搾取して使いつぶす構造は、どの国でも、どの時代でも繰り返されてきた。

私は、ボツワナの政治も大自然も呪術も目の当たりにしたことがない。それでもこんなに「近い物語」だと感じるのは、人類の良心と邪悪にうんざりしつつも、悲鳴を無視しない世界を望んでいるからかもしれない。

「こんなに美しいものと邪悪なものが同時に存在しているなんて」 

 

Recommend

明るい魔術のアフリカ。アフリカ中を旅してまわったジャーナリストの記録。呪術師も出てくるが、呪術師以上に著者の強運が魔術めいていてすごい。

 

明るい魔術のアフリカ。アフリカ・コンゴで伝説の怪獣モケレ・ムベンベを探す著者が、呪術師や魔女とタフにわたりあいながらサバイブする。こちらもまた著者の強運が魔術めいている。

 

邪悪な魔術のアフリカ。アフリカにある架空の国で、地獄と地獄と地獄が展開する。本当に息が絶え絶えになった。

 

『アイスランドへの旅』ウィリアム・モリス|聖地巡礼の旅

アイスランドはすばらしい、美しい、そして荘厳なところで、私はそこで、じっさい、とても幸せだったのだ。 

――ウィリアム・モリスアイスランドへの旅』

 

ヨーロッパに住んでいた頃、時間を見つけてはヨーロッパの国々を周遊していた。どこの国がよかったか、と聞かれると答えに迷うが(文学、美術、食事、遺跡、いろいろな切り口がある)、最も驚いた国はアイスランドだった。

冬至が近づいた真冬に、オーロラが見たいと思いたち、友人に声をかけてふらりとでかけたら、あまりにも異界めいた光景が続いていて、あぜんとした。今でも、真っ黒い溶岩の岩山、真っ青な流氷の群れ、透きとおる氷が散らばった海岸線、青い鉱石の断面図みたいな氷河を思いだす。エッダとサガのうまれた土地はすさまじかった。

アイスランドへの旅 (ウィリアム・モリス・コレクション)

アイスランドへの旅 (ウィリアム・モリス・コレクション)

 

本書は、 「モダンデザインの父」と評されるウィリアム・モリスが、アイスランドを6週間にわたって友人とともに旅行した記録である。モリスは大のエッダ・マニアだったようで、エッダとサガを熟読したうえでアイスランドへ旅をした。

本書ではずっと「これがあの物語の土地か」「これがあの事件の起こった場所か」とエッダとサガにまつわる話をし続けていて、マニアが聖地巡礼する姿そのものである。いつの世もマニアやオタクの行動は変わらない。

モリスのアイスランドへの情熱はなみなみならぬものがある。時は19世紀、飛行機や車などがない時代にヨーロッパの最果てに旅行することは、今よりもずっと難しかった。モリス一行は、アイスランドへは船で行き、アイスランドの荒野を、30頭のロバを連れて野営しながら進んだ。川を渡るだけでも一大事で、何時間もかかる。

しかも、彼らが旅するのは、今のように観光ルートが確立されたアイスランドではなく、溶岩や岩山、川、湿地帯などが続く、溶岩でできた果てしない荒野だ。モリスはなにもない荒野にエッダやサガの物語を重ね合わせて、灰色の湿地帯から物語を読み取ろうとする。荒野で楽しくなれるオタクの情熱はすさまじい。

 

単調な荒野ばかりが続くので、読み進めることがなかなかつらく心が何度も折れかけたが、モリスのエッダ・マニアぶり、アイスランドの人たちとごはんをおいしそうに食べる姿、友人たちと悪ふざけをする姿がかわいく、予想に反してモリスを愛でる読書となった。いつの時代もどの国でも、愛好家は愛好家だ。

 

 

アイスランドの記憶

 

Recommend 

エッダ―古代北欧歌謡集

エッダ―古代北欧歌謡集

 

エッダを訳した書物。原文は解説がないとだいぶ読みにくいが、古代の詩を味わうにはやはり原文がよい。 

 

 いくつかあるエッダとサガをまとめて解説しているため、わかりやすい。

 

物語北欧神話 上

物語北欧神話 上

 

『壊れやすいもの』などの作者である作家ニール・ゲイマンが現代語でわかりやすく北欧神話を語り直した。若者でも読めるように、との心遣いがあるため、とてもわかりやすくてよい。

 

北北西に曇と往け 1巻 (HARTA COMIX)
 

 現代アイスランド漫画。モリスが歩いた荒野と明るい観光地をどちらも楽しめる。

 

 バイキングが跋扈していた戦国北欧マンガ。ここに描かれるフィヨルドの島々がリアルでよい。

 

アイスランド在住の朱位昌併さんによるWebサイト。アイスランド文章を翻訳して紹介している。

『方形の円-偽説・都市生成論』ギョルゲ・ササルマン|建築不可能な都市たちの生と死

その都市には起点も終点もなかった。いつもその周囲に群がっているヘリコプターから見ると一つの巨大な塔に似ていて、頂上部は遠近法効果で小さく見え、遠い彼方に消えていた。

ーー「ヴァーティシティ 垂直市」 

 

『方形の円 偽説・都市生成論』は、タイムラプス動画のような小説だと思う。

タイムラプスは、星や雲の動き、生命の栄枯盛衰など、長時間の観察を必要とする経過を早送りして、わずかな時間に圧縮する。タイムラプスを見ることは、人類の時間軸を超えること、人間ではない「なにか」の視点を借りて「世界のうねり」をのぞき見ることだ。

本書の読者は、シャーレ上の菌コロニーを観察するように、人類がこの目で観察できない都市の生成と滅亡を、爆発的な早送りで観察することになる。

 

方形の円 (偽説・都市生成論) (海外文学セレクション)

方形の円 (偽説・都市生成論) (海外文学セレクション)

 

 

本書は、奇妙な都市が生成して滅亡する姿を、数ページに圧縮して繰り返す。垂直、格子状、六角形、円筒の形をした奇妙な都市と建築がうまれては消えていく。

どの都市もすばらしく魅力的な名前がついている。ヴァヴィロン(格差市)、アラパバード(憧憬市)、イソポリス(同位市)、ヴァーティシティ(垂直市)、クリーグブルグ(戦争市)、ノクタピオラ(夜遊市)、クアンタ・カー(K量子市)、アルカヌム(秘儀市)……名前だけでなく建築様式やフォルムも美しい。一方、住みやすい都市は驚くほど少なく、住民はいたりいなかったりするし、旅人には手厳しい(わりとすぐ死ぬ)。

見捨てられ忘れられ、植物の飽くなき攻撃に窒息しながら、壮麗な廃墟は、ジャングルの奥から、未来の考古学者の博識を待ちわびている。その一方、セネティア人種の最後の末裔は、秘密のセクトを構成して、世界の滅亡が近いと予言しながら地上を隈なく遍歴している。 

ーー「セネティア 老成市」

すぐ滅亡する都市もあれば、増幅し続ける都市もある。増える系都市としてもっとも好きだったのは、ムセーウム(学芸市)だ。

ムセーウムは、何重にも積み重なった死んだ都市の上に、生きた都市を積み上げ、また死んだら積み上げていく。もし世界の旧市街がこの都市生成方法を採用したとしたら、いったいどんなことになるだろうと、想像するだけで考古学好きの血が騒ぐ。

先人たちの 英姿に対する、そして歴史に対するうやうやしい尊敬の念に満ちた「布令」におって、いかなる家のいかなる理由による取り壊しも厳重に禁止された。違反すれば極刑となった。…もし古今東西最大の発明家の一人が、実に気の利いたシステムを着想しなかったら、おそらく「布令」はそれほど持続できなかっただろう。そのシステムは、新しい世代が現存の建物の屋根の上に自分の家を建ててもよいとするものだった。死んだ都市が幾重も積み重なり、頂上に生きている都市を聳えさせた……。

ーームセーウム(学芸市)

 

こんな奇妙な都市たちが、シャーレ上の菌コロニーのようにうごめいている。都市は人の生活のための容れ物ではなく、それ自身が生物であるかのようだ。

住民は、都市という名の生物の臓腑で生きる細胞だ。人類は都市をつくるだけではなく、都市によってつくられる。住民は、都市に合わせてその姿や生活を変えていく。ポセイドニア(海中市)では人類はますますイルカに似てくるし、アンタール(南極市)では真っ暗い世界で生活するため人類が淡い光を放ち、プロトポリス(原型市)では類人猿へと近づいていく。

時とともに、人類はますますイルカに似ていくだろう……。

ーー「ポセイドニア 海中市」

 

著者は、生活や思考といった「個人の視点」からは遠く距離をとるものの、人類から目線をそらさず、都市と人類をまとめてひとつの「運命共同体」として観察し続ける。おそらく著者は人間に興味があるのだろうが、果てしなく遠い距離感と容赦のなさのためか、この小説はどこか人外めいた空気をまとっている。

どの都市も遠くから眺めていたいが、旅や居住はあまりしたくない(たぶん死ぬ)。こんなふうに、美しく奇妙で過酷な世界を観察する私たちもまた、異界から眺めてくる観察者たちから「見てるぶんにはいいけれど住みたくはない」と思われているのかもしれない。

 

収録作品

気に入った作品には*。

  • 「ヴァヴィロン 格差市」**
  • 「アラパバード 憧憬市」**
  • 「ヴィルジニア 処女市」
  • 「トロパエウム 凱歌市」*
  • 「セネティア 老成市」
  • 「プロトポリス 原型市」**
  • 「イソポリス 同位市」**
  • 「カストルム 城砦市」
  • 「・・・」
  • 「ザアルゼック 太陽市」
  • 「グノッソス 迷宮市」
  • 「ヴァーティシティ 垂直市」**
  • 「ポセイドニア 海中市」*
  • 「ムセーウム 学芸市」**
  • 「ホモジェニア 等質市」**
  • 「クリーグブルグ 戦争市」*
  • 「モエビア、禁断の都」*
  • 「モートピア モーター市」**
  • 「アルカ 方舟」
  • 「コスモヴィア 宇宙市」
  • 「サフ・ハラフ 貨幣石市」**
  • 「シヌルビア 憂愁市」*
  • 「ステレオポリス 立体市」**
  • 「プルートニア 冥王市」
  • 「ノクタピオラ 夜遊市」**
  • 「ユートピア」
  • 「オールドキャッスル 古城市」
  • 「ゲオポリス 地球市」
  • 「ダヴァ 山塞市」**
  • 「オリュンピア」
  • 「ハットゥシャシュ 世界遺産市」*
  • 「セレニア 月の都」
  • 「アンタール 南極市」**
  • 「アトランティス」
  • 「クアンタ・カー K量子市」**
  • 「アルカヌム 秘儀市」**

 

Recommend

見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

 

訳者や著者本人が、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』を挙げている。短い断章形式で架空の都市を描くスタイルは確かに似ているが、読んだ印象はだいぶ異なる。『方形の円』のほうが、より都市と住民の運命は一体化している。それにしても、イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』と『方形の円』が別々にほぼ同時期に書かれたことは、驚きである。(『タタール人の砂漠』と『シルトの岸辺』のように、同時期に生成される奇妙ななにかがあるのかもしれない)

 

ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所 野又穫作品集

ALTERNATIVE SIGHTS―もうひとつの場所 野又穫作品集

 

 本書の想定画を描いた日本人画家の画集。空想の建築ばかりがえんえんと続く、すばらしい画集。『方形の円』は野又穫でジャケ読みした。

 

空想の建築、建築不可能な建築(アンビルト)ものとして最近に読んだ。ピラネージは優れた風景画家として建築を完璧に描く。建築への深い造形と想像力のコンビネーション、人間の生活から離れた雰囲気が似ている。

 

メイドインアビス 1 (バンブーコミックス)

メイドインアビス 1 (バンブーコミックス)

 

同じく「場」が主人公の作品。 奇妙な都市と容赦のなさ、美しく過酷な世界をのぞく好奇心と後ろめたさが、どことなく似ている。

 

 

『ミステリウム』エリック・マコーマック|奇病で村全滅ミステリのふりをしたなにか

「動機。あなたはほんとうに動機や原因や結果みたいなものを信じているの? 本や劇以外で、未解決の事柄がきちんと片付くと信じているの?」

ーーエリック・マコーマック『ミステリウム』

 

マコーマックは、物語を組み上げると同時に内側から解体しにかかる作家だと思う。

するすると物語が組み上がっていくように見えて、ずっと足元がひそかに掘り崩されている。やがて足元が崩れて、読者は予想しなかったところへ放り出される。

マコーマックに感染した物語は、王道の物語のふりをした「なにか」になる。

ミステリウム

ミステリウム

 

「ミステリー小説」にマコーマックが感染した小説が『ミステリウム』だ。

物語は、いかにもミステリーらしい展開で幕を開ける。

スコットランドを思わせる「北部」の寒村キャリックで、住民がしゃべり続けた果てに死ぬ奇病が発生する。原因はわからない。治すすべはない。致死率100%の未知の病である。

奇病が発生する直前に、不穏な兆候はいくつもあった。「水文学者」なる外部の男マーティン・カークがやってきて、キャリックについて調べ回っていた。よそ者がきてから、町の公共物が破壊される事件が続いて、そして住民たちが死に始める。

死に飲まれつつある閉鎖空間キャリックに、若い新聞記者ジェイムズ・マックスが滞在を許可される。語り手は、死につつある証言者たちにインタビューすることで、疫病と事件の手がかりを追い求める。この疫病の正体はなにか、犯罪の動機はどこにあるのか、なぜキャリックが狙われたのか。

 

物語にはミステリーらしい要素すべてがそろっている。さびれた炭鉱町、吹きすさぶヒースと荒野、怪しいよそ者、町に伝わる「ミステリウム」の祭り、町に伝わる秘められた歴史、よそ者、唯一の生き残り、死ぬ運命にある証言者たち。すべてが完璧だ。

あとは真実を暴くだけ。しかし、語り手と読者の期待をよそに、住民たちは  「真実を語ることができるのは、君があまりよく知らないときだけだ」と口をそろえて煙に巻く。

   「しかし私は北部が好きになった。なかなかうまくいえないのだが、北部のほうが南部よりも複雑なのだ。こちらではなにひとつ単刀直入ではない。人は隠し事をする。ごく些細なことでさえ。しかもその理由ははっきりしないーーひょっとしたら転生の秘密好みにすぎないのかもしれない。北部ではほんとうの謎がさらに謎めいたものになるのだ」

 

この小説は、謎と、謎に引き寄せられる人間たちのための物語だと思う。

理解できないことや謎を提示されると、人は2つのことを要求する。まず「なぜ」を知りたがる。そして「因果」を見いだしたがる。「なぜ」と「因果」がわかることで、人は興奮して快感を得る。ミステリーや陰謀論はこの「謎の仕組みを理解したい欲求」に応える。

マコーマックは人間の欲求を完璧に理解していて、抜群におもしろい物語と手がかりを提供してくれる。ミステリというメインディッシュだけではなく、脱線話のサイドディッシュもじつに凝っていておもしろい。そうしてじゅうぶんにもてなした後に本性を現す。

マコーマックは確信犯だ。しかし私も共犯だ。マコーマックだとわかっているのに、のこのこと見物にいって、ひきずりこまて爆破されて、満足しながら帰ってくる。書く阿呆に読む阿呆。どちらも途方もなく救いがたく、ゆえに愛するしかない。

 

Memo:『ミステリウム』世界の地理

『ミステリウム』では具体的な地名が描かれていないが、基本はイギリスの地理に即していると思われる。

  • 北部…本書の舞台。ブリテン島における北部にある、スコットランド。著者の出身地。スコットランドは歴史的に南部(イングランド)と戦いながら併合された歴史があり、現在では穏やかな共存をしつつも、独自の政治と文化を持つ。北部の島はゲール語文化が残っている。
  • 南部…ブリテン島の南部にある、イングランド。日本人が「英国」と聞いて思い浮かべるのはだいたいイングランドのこと。イングランドの首都はロンドンで、UKの首都でもある。
  • 首都…イングランドの首都ロンドンか、スコットランドの首都エディンバラか迷ったが、文脈と町並みの描写から考えるに、エディンバラのほうだと思われる。
  • 植民地…おそらくアメリカ。同じ言語だが話し方が異なる描写がある。

エリック・マコーマックの感想

Recommend

スコットランドの島を舞台にした小説。灰色の空、ヒース、荒野、陰鬱な空気と陰惨な事件が満ちている。

 

『ミステリウム』は『悪童日記』三部作の『二人の証拠』『第三の嘘』を思わせる。これが真実だ、と思った後、物語はひっくり返り続ける。

 

『ミステリウム』も『コスモス』も一種のアンチ・ミステリである。
 

『競売』も『ミステリウム』と同じように「素人探偵が謎の組織を追うミステリー」プロットだが、ピンチョン界では証拠が足並みをそろえて探偵のもとへ突撃してくる。この「不自然なまでの都合のよさ」はマコーマック界にもある。そんなばかな、を全編にわたって展開し続けるピンチョン界を楽しめる小説。

 

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

 

 途中で登場する突飛な「犯罪学」が、思いっきりソシュールのシニフィアンとシニフィエのパロディで笑った。マコーマックお得意の真顔ギャグ。

『ウインドアイ』ブライアン・エヴンソン|「私以外のなにか」になっていく私

彼らが恐れているのは、自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなってしまうことなのだ。ふたたび生に戻ってこなくて済むよう、自分の死にはっきり輪郭が与えられることを彼らは望んでいる。

――ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』

 

自分が自分でなくなる方法は2つある。

ひとつは、自分を構成する要素を失うこと。もうひとつは、自分以外の「なにか」を自分の中に招き入れること。

前者はたとえば記憶喪失で、後者は悪霊や宇宙人によるパラサイトだ。

基本的に、人間は知らないうちに「自分以外のなにか」になったりはしない。構成要素を失えば痛覚や喪失感といったアラートが鳴って知らせてくるし、身体は「自分以外のなにか」を排除する免疫を持っている。

だが、著者はその小説世界で、痛覚や免疫といった防御機能をすべて停止させてしまう。結果として、自己と他者の境界、生と死の境界が崩落する。

この恐ろしいエヴンソン・ワールドでは、自己と「自分以外のなにか」の境界がまったいらで通行自由なので、たやすく自分が自分でなくなってしまう

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 ブライアン・エヴンソンは、あらゆる短編を尽くして「自分が自分ではなくなる恐怖」を描こうとする。 

「自分の構成要素を失う」物語では、身体、記憶、家族といった、自分を構成する重要な要素が突然「そんなものはない」と言われてなかったことにされる。

「自分以外のなにかを招き入れる」物語では、身体が「なにか」と融合する。自分以外の手が、自分以外の目が、自分以外の耳が、免疫ゼロの登場人物たちに巣くい、じわじわと内部から自我を食らっていく。著者は、宇宙人や悪霊といった不可視の侵入者ではなく、手や目や耳や頭といった「実在する身体パーツの侵入者」を多く描く。身体のパーツは誰にでもなじみがあるものだから、想像しやすく恐ろしい。

自分を失いながらなにかを招き入れる、最悪の物語ももちろんある。

そしていまは? 出口があるとしても、私に見つけられるようには思えない。恐怖はあるものの、残された選択肢はただひとつに思える。

エヴンソンが描くこれらの「自分が自分でなくなる」感覚は、精神医学や神経学の病理を思わせるものがある。

私たちが「自分は自分だ」と思えるのは、「自分はこの体をすみずみまで所有している」と感じるからで、身体の所有感覚がアイデンティティにつながっている。

ゆえに「自分の身体を所有している感覚」に問題がある人は「自分が自分でない」と感じる。たとえばコタール症候群の人は「自分がすでに死んでいる」と断言し、身体完全同一性障害の人は「足が自分のものでないから切断したい」と切望する。「知らない人間の声がする」症状は、統合失調症の症状だ。

著者は、これらの症状と想像力を溶かして混ぜ合わせ、手に負えないところまで増幅させていく。

 

本書は、幸運なら体験しないであろう「自分が自分でなくなる」恐怖を、誰にでも伝わる言葉と舞台で表現してくれる。

 エヴンソン・ワールドに迷いこんだ不運な人たちは、知らないうちに自分が自分でなくなり、自分が立っていた世界が「似ているけれど別の世界」に塗り替わっていることに気づく。

自分を失うという一大事にたいして、登場人物たちは自分を弔うことすらままならない。自分以外の人は誰も気づいていないし、自分はもはや自分ではないからだ。生きながらにして幽霊になるのは、きっとこんな感じなのだろう。

本書を読むと、自己と他者の「境界」は、自分を健全に保ち守るために、とても重要なのだとわかる。本書を読む人間は幸福だ。境界が大事なものだと、失う前に気づけるのだから。

 

収録作品

気に入った作品には*印。

  • ウインドアイ**:妹がいたはずだったんだ。窓は確かにひとつ多かったはずなんだ。そして異界の扉は開き、読者はエヴンソン・ワールドに引きずり込まれる。
  • 二番目の少年**:エヴンソンが書く「お話をしてあげよう」系は本当に怖い。聞いてはいけないけれど聞くしかない。自己と他者の境界が崩落する。
  • 過程
  • 人間の声の歴史
  • ダップルグリム:中世から伝わる古く恐ろしい話の雰囲気を持つ。めずらしく身体パーツではなく「馬」が怖い話。
  • 死の天使**:名前を書くことで死を確かなものにしたい人たち。普通ならいやだが、エヴンソンの世界ならわからなくない、と思ってしまう。
  • 陰気な鏡
  • 無数**:「無数」という単語の意味が最後になってわかる。完全にいかれていて怖い。
  • モルダウ事件**:モルダウ事件とあるが、事件の主語はころころ変わる。そして容疑者と追跡者の境界が溶けていく。
  • スレイデン・スーツ***:難破しかけた船から脱出する術はスレイデン・スーツをくぐり抜けること。王道ゴシックな雰囲気がよい。
  • ハーロックの法則
  • 食い違い:聴覚と視覚がずれてくる。これはおそろしく気持ち悪いだろう。読んでいるだけなのにぐらぐらになった。
  • 赤ん坊か人形か:赤ん坊と人形の区別がつかなくなる。認知の崩壊による自己喪失。
  • トンネル:トンネルは自我を失うのにうってつけの場所だ。通過することで人はなにかを失う。
  • 獣の南
  • 不在の目*:ここらへんになってくると、タイトルに身体パーツが書いてあると「なるほど今度はこいつに乗っ取られるのか」と心の準備ができる。が、やはり最後にはうめく。
  • ボン・スコット
  • タパデーラ:死んだ少年が動いている。死んでいろと言っても動いている。彼は生きているのか死んでいるのか?生死の境界が消滅する。
  • もうひとつの耳**:タイトルそのままに、なにかの耳がなにかを聞き続けている。
  • 彼ら
  • 酸素規約*:タイトルがかっこいい。J-POPかバンド名にありそう。エヴンソンは「謎の組織」もよく描く。謎の組織は期待どおりだいたいやばいのでよい。
  • 溺死親和性種*:こちらもタイトルがかっこいい。
  • グロットー
  • アンスカン・ハウス**:ポーを思わせるゴシックホラー。アンスカン・ハウスにいけば、誰かの苦しみを引き受けることができる。ほら、行ってごらん。

Recommend

異界に落ちていく短編ばかりを集めた「いやな英語文学」アンソロジー。エヴンソンの「ヘベはジャリを殺す」が収録されている。これも本当にいやな話だった。

 

自分が自分でなくなる病理を、神経学の視点で解説している。自分を死んでいると思いこむコタール症候群、自分の足を切断したくなるBIID患者のインタビューがのっていて、どれも共感できなさすぎてすごい。文学好きにもおすすめ。

 

表題作「死体展覧会」は、『ウインドアイ』中にしばしば登場する「謎の組織」を思わせる。暴力が吹き荒れる、別の意味で恐ろしい小説。

『パラダイス・モーテル』エリック・マコーマック|タワー・オブ・ホラ話

おかしなことじゃないか? 人が心に秘めて話さないことがそんなにも重要だとは。人が話すことのほとんどすべてがカモフラージュか、ひょっとすると鎧か、さもなければ傷に巻いた包帯にすぎないとは。

――エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』

 

「ホラ話っぽい事実」と「事実っぽいホラ話」の境界はあいまいで、限りなくホラ話のように見えることが事実だったり、ホラ話のように見えるけれど嘘であることもある。時間が経てば、ホラ話も事実扱いされるし、事実がホラ話扱いされることもあるから、ホラ話と事実を見分けることは、基本的に人類の手に負えない。

さて、小説家は、事実と虚構の境界をぼやかした土壌に作品を組み上げる人たちだが、マコーマックは「極端なホラ話に見える話」をぶちまけて境界を見えなくさせる作家だと思う。

マコーマックの小説では「ありえない」と思うことを誰もがまじめに語っていて、おかしいことがどんどん続く。だからだんだん「そういうものなのか?」と判断力がにぶってくる。

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

 

 

パラダイス・モーテルで、エズラという男性が、祖父の記憶、祖父から聞いた恐るべき話を回想している。

スコットランドのひなびた町から失踪した祖父が、30年ぶりに戻ってきた。祖父は失踪中に船乗りとして世界中を旅していて、ブラジルに滞在中、乗組員から驚くべき話を聞かされたという。

話はこうだ。スコットランドのある島で、マッケンジー一家の妻が失踪した。妻を殺したのは夫の医師で、妻の死体をばらばらにして4人の子供たちの腹を切開して隠した。そんなばかな、と祖父は思う。だが語り手は証拠を見せてくる。

 

この物語を引き金として「そんなばかな」の嵐が幕を開ける。

エズラはマッケンジーの4人の子供たちがその後、どんな人生を送ったのかを調べようとする。調べ始めてまもなく、ぞくぞくとマッケンジーの子供たちの物語がエズラに向かって突進してくる。なんという都合よさ。それにマッケンジーの子供たちの話はそろって奇想天外でおぞましい。なんという不自然な一貫性。しかしそれでも、語られる物語、登場人物たちがそろいもそろって大真面目に、馬鹿馬鹿しくもグロテスクな逸話をたたみかけてくる。

子供たちの話はどこか干し首めいていて、血がしたたる湿気に満ちているのではなく、乾いている。ぎょっとはするのだが、どこか浮世離れしているせいか、ちらちらと見続けてしまう。しかもよくよく見てみればユーモラスな顔をしていたりするものだから、笑いと親しみすらわいてくる。

登場するエピソードで好きだったのは、<自己喪失者研究所>のマッド・サイエンティスト、目玉がやばい位置についているシャーマン、作家と作家のファン(に見せかけた狂人)の話だ。4人分しかないとわかっていても、もっと話を! と望んでいる自分がいた。

「苦痛の持続が人間にも同じ効果をもたらすとすれば、われわれはとてもうまいごちそうになるだろう」

また、スコットランドクラスタとして特筆したいのが、エズラと祖父が住む町、マッケンジー一族が移り住んだ島が持つ、灰色がかった陰鬱な空気だ。スコットランドの北部諸島は、荒野と灰色の海、灰色の空、ヴァイキングとケルトの民が残した遺跡に満ちている。この荒野から、このような物語がうまれてくるのは似つかわしく思える。

 

「そんなばかな」を限界まで積み上げて、話が広がりに広がってすっかり手に負えなくなってきたところで、物語は開かれながら折りたたまれていく。虚実の境界がぬるぬると溶けて瓦解していく霧の向こうで、作家が高らかに笑っている幻影を見た。

「それが人生というものだ。小説のふりをしたひと握りの短篇というやつが 」

 

Recommend

スコットランドを舞台にした小説。こちらも荒野と陰惨な事件と陰鬱に満ちていて、スコットランドはこういう物語をうみやすい土壌なのかもしれない。(北欧諸国と似た雰囲気なので、北欧ノワール小説と雰囲気が近いかもしれない)

 

ウルフの『灯台』もまた、スコットランドの島を舞台にしている。スコットランドは最古の灯台がある灯台の国で、国立美術館には灯台の巨大なランプが展示されていて、よく見にいったものだった。

 

淡い焔

淡い焔

 

「 信頼できない語り手」が祖国ゼンブラについて語りまくる注釈もどき小説。「怪物じみた小説もどきをこしらえるつもりはない」とナボコフは書いているが、まさにこれは「怪物じみた小説もどき」そのものなのだ。ナボコフの真顔ギャグが炸裂する本。 

 

ボラーニョの真顔ギャグが炸裂する「信頼できない語り手」小説。「平和の象徴である鳩を鷹狩りで撃ち落としまくるヨーロッパ協会」といったホラ話を真顔で語る。その背後には、隠したい悪の体躯が見え隠れする。

 

嘘が本当になったり本当が嘘になったりする騙りの魔術でいちばん好きな本。長らく絶版なのでそろそろ復刊してほしい。

『素晴らしきソリボ』パトリック・シャモワゾ―|小説が到達できない、語りの魔術

 彼にとっては、書くことでは物事の本質をとらえることはできないのです。

――パトリック・シャモワゾ―『素晴らしきソリボ』

 

じつににぎやかな小説だ。文字よりも声への敬意に満ちている。

かつてすべての物語が声で語られた時代があった。ええくりいく! と語り手が聴衆に語りかければ、聴衆は、ええくらあく! と叫び返し、語り手と聴衆がわいわいガヤガヤ相互にやりとりをしながら、物語を進めていった。

語り手の身振りや目つき、抑揚、沈黙、吐息、すべてが物語だった。それらは放たれた瞬間に失われる、一瞬の輝きに満ちたものだったから、誰もが語り手とともにその一瞬を共有したがった。

素晴らしきソリボ

素晴らしきソリボ

 

 

「声による物語」は輝きに満ちているが、その特性上、放たれた瞬間に消えていく宿命にある。その美しさと悲しみを体現した男が、ソリボ・マフィニーク(素晴らしきソリボ)だ。

舞台は口承文化が残るカリブ海マルティニーク島。本書は、誰からも尊敬される愛され系の語り手ソリボが、言葉に喉を掻き裂かれて死ぬところから始まる。

ぱうぉる ら ばい あん ごおじぇと(言葉が彼を掻き裂いた……)

死因、「言葉に喉を掻き裂かれる」。そんなばかげた死因は聞いたこともないと、警察が殺人事件と見なしてソリボの聴衆(だいたい無職)に尋問する。

だが聴衆たちはソリボの素晴らしさや思い出こそ語るものの、事件の手がかりになりそうなことはなにもしゃべらない。それはそうだ、彼らは殺してなどいないのだから。しかし、警察は信じず、暴力を使ってでもなんとしてでも殺人事件にしたてようとする。

答えはマグカップ一杯分もないのに、問いだけは一樽分もあるってわけだ。 

 

この不毛な会話から見えてくるのは、権力者である警察と、ソリボを愛する聴衆たちの「言語の違い、生きる世界の違い」だ。

警察は宗主国の言語フランス語を話し、聴衆たちの多くはクレオール語(フランス語とアフリカ人たちの言葉が混ざったピジン言語)を話す。そして警察は物語が死んだ世界(あるいは客観の世界)に、聴衆たちは物語が生きている世界(あるいは主観の世界)に住んでいる。

警察にとって、死者について語ることは供述書のためだが、聴衆たちにとって、死者について語ることは愛と思い出と弔いのためである。

誰がソリボを殺したか捜しても何も真実は得られませんよ。本当の問いは、ソリボは誰か、ということです。

 

ソリボ不在の世界で、ソリボの存在感がどんどん増していく。彼は謎めいている。そして魅力的だ。ソリボとは誰なのか。なぜ彼は誰からも愛されたのか、彼はなんのために語っていたのか。

彼の言葉は、どんな耳にもたどり着くような隠れた道、心についている見えない扉にたどり着く道をわかっていた。

この語り部はそれぞれの土地、そこに住む人々、それぞれの苦悩を語ることができた 。

ソリボを知れば知るほど「なんてすごいんだソリボ」という思いと「なんで死んでしまったんだソリボ」という思いが高まっていく。

とくに私が好きだったのが、ソリボが主催した葬式と、ソリボがつくったサメ肉のマリネだ。どちらも祝祭めいた雰囲気に満ちていて、その場に居合わせたくなった。

ちなみに本書にはいろいろな料理が登場する。ドングレ(煮込みパスタ)トランパージュ、タフィア酒でフランベしたメシュイ(羊のグリル)、フェロス(タラ、キャッサバ、アボカドで出来た団子)、キャッサバのホットケーキ、ザボン漬け、どれもおいしそうで食べたい。

 

本書は、語り手ソリボの喪失をとおして、発した瞬間に失われるが瞬間にすべてを詰めこめる「声の文化」と、後世まで残るが語りの大半を失ってしまう「文字の文化」の悲しき差異を描く。

声の文化と文字の文化は、お互いに衝突するものではないが、互換できるものでもない。「語る者」ソリボと「書く者」 シャモワゾー、ふたりの間には溝が容赦なく横たわる。

話された言葉を書くことは絶対にないのさ。単語を綴るだけでしかない。おまえは語るべきだったなあ。

著者は書く者でありながら、書く言葉の不出来さに落胆するが、それでも彼は書く。

落胆と執念の集大成とも言えるのが、最終章のソリボの語りだ。終盤にこれほどの音と生命力が凝縮された小説はそうないだろう。まさに本書の華と言える。

翻訳ではおそらく韻および言葉の音楽性が失われるから、日本語読者にはソリボの語りの1~2割ぐらいしか届いていないかもしれない。

それでもソリボの言葉は越境して、ソリボの死後も残った。この事実こそが、シャモワゾーが落胆しつつも書き続ける理由なのではないか。

わたしは去るがおまえは残る。わたしは語るが、おまえは、自分は話された言葉から来たと言いながら実際は書く。おまえとわたしは遠く隔たっているが、それを超えておまえはわたしに手を差し伸べる。いいことだ、しかしおまえが触れているもの、それは距離そのものなのだ…… 

 

Memo:声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

  • 作者: ウォルター・J.オング,Walter J. Ong,林正寛,糟谷啓介,桜井直文
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 1991/10/31
  • メディア: 単行本
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『声の文化と文字の文化』は、本書のテーマど直球の古典である。

声はかつて世界において「記憶」をとどめる主流の方法だったが、文字の出現によって記憶は文字が主流になり、音読社会から黙読社会になっていった。

声は揮発性が高く属人的であるがゆえに、災害や戦争によって継承がうまくいかないと永久に失われてしまう。一方、文字もまた消失や破壊の危険にさらされるが、耐久性が声よりも高く、複製可能のため、結果として「記憶を残す記録媒体」として主流になった。

『素晴らしきソリボ』では失われること、文字媒体への変換率の悪さ(対話ではノンバーバル・コミュニケーションが7割と言われているから、文字だと語りの3割ぐらいしか残せないだろう)に主軸が置かれている。『声の文化と文字の文化』では「揮発性」「継承性」「記録媒体としての耐久性」といった視点で「声の文化」と「文字の文化」を比較している。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

 

「その場にいることによる相互性」においては、「複製技術時代の芸術作品」でベンヤミンが「アウラ」として提唱している。ソリボの語りは、アウラの話でもあるだろう。

 

Recommend:マルティニーク文学、口承文学

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『素晴らしきソリボ』はマルティニークの口承文化に主眼を置いていて、『レザルド川』はマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、『ジョジョ』『ハンター×ハンター』感があってよかった。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2004/07/01
  • メディア: 単行本
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

ペルーのジャングルに住む語り手を追うペルー人の青年2人が、それぞれの形で語り部へと接近していく。同じような興味から語り部に近づいていく2人が、まったく違うアプローチをとる。『密林の語り部』でも語り部は豊かな言葉を語っている。

 

ブリテンの荒野になじみがあるせいか、口承文化といえばケルト文化を思い出す。彼らは文字文化をよしとせず、20年かけてすべての詩や物語を暗記して伝えていった。異文化によって征服されると彼らの物語の多くは失われ、一部はキリスト教の物語などに吸収されていった。

『レザルド川』エドゥアール・グリッサン|原色の自然と情熱が踊る

 それは町だ、砂糖キビと湿地帯と遠い海と近い泥からなるちっぽけな土地だ。そしてレザルド川を忘れることはできない。

――エドゥアール・グリッサン『レザルド川』

  

フォークナーのヨクナパトーファ郡、中上健次紀州のように、土地そのものが小説の重要な主人公として燃え上がる小説がある。これらの小説を読むと、登場人物たちよりも、彼らを取り巻く土地のほうが長く記憶に残る。そして似たような湿度や光を感じると、まるであの小説世界のようだ、と訪れたことのない土地をなつかしく思い出す。

『レザルド川』は、おそらくそうした土地小説のひとつだ。読み終わった今、太陽の下で真っ赤に咲き乱れる火炎樹、まぶしい光に満ちた海、そして赤と黄色と緑に満ちたレザルド川である。

レザルド川

レザルド川

 

ぼくらはあまりに伝説に生きてきすぎた。君は奇跡を信じている。そうじゃないか?

1945年のマルティニーク島の町で、政治への情熱を抱えた若者たちがある野望を抱えていた。次の市長選で絶対に勝たせたいマルティニーク人がいるから、邪魔なフランス(マルティニークを植民地化した宗主国)寄りの実力者ガランを暗殺しようとしていた。

このガラン殺害計画のために、山からタエルという名の若者が呼ばれる。やる意味があるかわからない無謀な計画だが、若者の熱気ゆえか、若者たちのリーダー格マチウと打ち解けたタエルは殺人を約束する。

 

ガラン暗殺のため、タエルはレザルド川を下っていく。この川下りは本書のハイライトで、とても謎めいていておもしろい。

ガランがひとりで川下りを始め、タエルがその後をひそかに追うオーソドックスな追跡から始まったはずなのに、途中からお互いの存在をはっきり認識し合い、距離があるにもかかわらず、思念めいたもので会話を始める(読書会では『ジョジョ』『ハンター×ハンター』ぽいという感想が出た)。

彼らは、標的と暗殺者といった関係から脱線して、唯一無二の「レザルド共同体」となり、大いなるレザルド川を下っていく。レザルド川の描写はもはや川なのか? と思うほどで、赤黄緑黒とその姿を変えて、ちっぽけな人間たちを広大な海へと運んでいく。

レザルド川は今やゆったりと、力強く流れている。周囲の土地は黄色い血で膨れあがり、川が醸成する泥で超えた、分厚い波状をなして広がっている。それは時に緑と赤の呪文となる。 

 

示唆と隠喩に満ちた小説だ。著者の言葉は原色の鉱石みたいにきらきらゴツゴツしていて、詩を思わせる言葉が、レザルド川やマルティニークの自然を礼賛する時に爆発的に花開く。

――美だって? そいつを私に説明してくれ、美というやつを。

――誰かが町へ降りてくる、それはぼくだ。彼は誰かに合う。それはマチウだ。

――おまえの兄弟だ。

――二人が、同じ日に。それが美だ。

マルティニークの自然が輝く中で、若者たちもまた青春を謳歌する。彼らは恋をして、ある者は恋が実り、ある者は失恋し、友情を確かめたり、反目したり、議論に白熱したり、海ではしゃぎ、祭りの夜に大笑いしたりする。

(マチウ! マチウ!)しかし彼女はなお笑っていた。そうした一切の錯乱、音の監獄、成熟した砂糖キビの矢、未来の収穫、熱い風の上に、この新しい輝く、憐憫も脆弱さもない、二人だけのために燃え立つ、純粋な輝きがあった。

 

おおいに遊び笑う姿は私たちとそう変わらない一方、政治への情熱と議論で結びつくあたりはやはり現代とはちょっと違っている。 

だが、当時はそういう時代だった。本書の時代は1945年。第二次世界大戦が終わって世界中が脱植民地化する中で、フランスから独立するか独立しないかが、マルティニークに住む人たちの大いなる関心ごとだった。だから彼らは真剣に話しあったし、選挙に熱狂した。選挙によって自分たちが独立するかしないかが変わる。そんな年だった。

この熱狂と真剣さは、少しだけわかる気がする。私はかつて、スコットランドの独立選挙に居合わせたことがある。町のあらゆるところに独立と選挙の文言やビラが踊り、人々はちょっとした時に独立の話題を口にした。あけっぴろげな政治的な話題を好まないスコットランド人ですらそうだったのだ。独立を目前にしたマルティニーク人たちが熱狂したとしてもふしぎはない。

 

その熱情を、著者は記憶にとどめておこうとしたのかもしれない。激情は炎か突風のようなもので、長くは続かないが、いくばくかの熱を記録に残すことはできる。著者は川のように書き、川のように後世まで運ぼうとした。だからだろうか、私が『レザルド川』のことを思い出す時、原色の自然と情熱が今も目の前で踊っている。

「忘れるな、忘れるなよ。憶えておけよ。」まるで言葉が降り、広がり、溢れる一本の川となることができるみたいに。まるで言葉が閃光をそのまま凝縮して(実を結ばせる)しかるべき土地へ運んでいくことができるみたいに。

言葉は決して死に絶えてしまうことはなく、川は決して土砂を海に運び終えてしまうことはない。

 

Memo:『レザルド川』読書会

アフリカイルカことスミス市松氏(@ichimatsu_smith)の主催で『レザルド川』読書会が開催された。本書はかなり暗喩に満ちた小説なので、象徴やマルティニーク文化を知っているとより楽しめるかもしれない。

山に生きる者たち

タエルやパパ・ロングエといった山の住民は「逃亡奴隷の子孫」である。マルティニーク島の黒人たちは奴隷としてアフリカから連れてこられて、サトウキビ畑で強制労働させられた。畑から逃げる者たちは追手が探せない山に逃げて潜伏した。だからか、タエルにせよパパ・ロングエにせよ、山に住む者は町の人とは違った密教ぽさや厳しさがある。タエルが山からやってくるのは、町の若者たちではなしえないことを「厳しい場所に住む者」にたくしたからかもしれない。

町の若者たち

本書は肌の色について言及がないが、教育を受けフランスへの留学をする者が多いことから、おそらくムラート(混血)であろう。『黒人小屋通り』で黒人少年が学校へ進学した時、自分以外はほとんどがムラートでありなじめなかったと書いている。特にヴァレリーは中でも裕福だっただろう、と読書会で指摘があった。

マルティニークの地形

京都のように、各方角に意味を込めている。東は川、北は山(逃亡奴隷の土地)、南は畑(裕福な者が住む土地、サトウキビ畑)、西は海(カリブ海)。なお、マルティニークは海に囲まれているが、東側の大西洋は「厳しい海」で、西のカリブ海は「優しい海」らしい。

レザルド川

「亀裂」という意味の川で、マルティニーク島を東西に走っている。

夜話

コントと呼ばれる、語り手と聴衆がかけあいをする談話。 マルティニーク文化に欠かせないもので、『黒人小屋通り』『素晴らしきソリボ』にも登場する。夜話のかけあいは、タエルとマチウ、タエルとガランのかけあいにも通じるかもしれない。

アフリカから伝わる伝説から名前をつけられた犬たちは、不吉の象徴、暴力の象徴としてなんども現れる。

呪術師

パパ・グランデは未来をみとおす力がある。呪術師の語りと呪術師への敬意は、アフリカとのつながりを感じる。

 

以下、参加者の感想をざっくりまとめ。やはりその特徴的な文章のためか、文章への言及が多かった。

  • 長い詩みたいな文章
  • 映像が目に浮かんでくる
  • 塗りたくった油絵ぽい
  • J-POPの歌詞みたいな文章
  • シンボリックな文章
  • 文章が読みにくい
  • 神話のような印象
  • 川下りがあつくておもしろい
  • マチウの女遍歴がどうかと思う
  • きらきら青春小説でほろり。『野生の探偵』ぽい
  • エモさを感じる
  • 「ぼく」とは何者か
  • 幼年期が終わり、青春が終わり、サーガが終わる
  • イメージの氾濫
  • 自分の文体を獲得しようとする試み
  • 海が多彩な象徴(親愛だったり抱擁だったり殺人だったり)
  • 戯曲みたい
  • 人称がいろいろ変わる(一人称と二人称と三人称が混在している)
  • 自然描写がすばらしい

Recommend

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

 

マルティニーク島出身の作家による「口承文化」「声の語り」への敬意に満ちた小説。愛され系の語り手ソリボが「言葉に掻き裂かれて死ぬ」。彼の死をいたんだソリボの聴衆(だいたい無職)が彼の思い出を語ることで、「語り手とは何者か」が浮かび上がる。

 

土地に根差したサーガといえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。他にも『アブサロム、アブサロム!』は『レザルド川』と共通点がある。ガランはレザルド川の上流に屋敷をかまえていた。その様子が、大屋敷をかまえるサトペンと似ていると読書会で言われていた。黒人、奴隷、屋敷、水源を確保する白人というモチーフは確かに通じるものがある。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

 

 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

 

『黒人小屋通り』ジョゼフ・ゾベル|過酷で美しい少年時代

 大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

――ジョゼフ・ゾベル『黒人小屋通り』

 

今年の夏は、例年どおり八月の光に誘われて、アメリカ南部の小説をぐるぐるとめぐっていた。南部から立ち昇る蒸気にすっかりのぼせて、さらに南下してカリブン(カリブ海文学)へと移動してきた。

アメリカ南部とカリブ海は、ともに黒人がアフリカから奴隷として連れてこられた歴史を持つ。どちらも同じ大陸から連れてこられた人の末裔たちだが、土地と人によって、こうも語る物語が違うのか、と驚いた。

黒人小屋通り

黒人小屋通り

 

 

 黒人小屋通りとは、カリブ海マルティニーク島に存在した黒人街だ。

かつてコロンブスが「世界で最も美しい場所」と称賛し、現在は「カリブ海の花」としてリゾート地になっているマルティニーク島の斜面には、一面のサトウキビ畑があった。丘の頂上には白人農場主(ベケ)の屋敷、その下には混血(ムラート)が住む農園監督者の家、その下に黒人小屋通りがあり、さらに下は一面のサトウキビ畑が続いた。

この住居の位置は、そのままマルティニーク社会における階級を示していた。肌の色によって階級が決まっていて、黒人は最下層に位置づけられていた。

 

奴隷制度が終わってまもない1930年代、この黒人小屋通りから、ひとりの黒人少年が声を上げた。その声は、黒人たちが苦しむ貧富と差別の過酷さを語り、そして黒人たちが生きる世界の美しさを語った。

 

黒人小屋通りは、トタン屋根のバラックでできた狭い住宅で、語り手の少年ジョゼは祖母とともに黒人小屋通りで育った。黒人小屋通りの子どもたちはそろってわんぱくで、いたずらし放題、盗み食いし放題で、とにかく生命力がすごい。

着ているものはぼろ布だけでほぼ裸、食事だってけっして豪華とは言えないのだが、それでも皆がおいしそうに食べるものだから、こちらもつい食欲を刺激されてしまう(干しダラの料理はどれもおいしそうだ)。

とくにサトウキビ収穫時期のシーンは、祝祭めいた雰囲気に満ちている。背後にはもちろん白人農場主による搾取問題があるのだが、それでも語り手はこの瞬間を祝福する。 

そして刈り入れになった。

僕ら子供たちは一日じゅう、サトウキビの切れ端を吸うことができた。僕らは畑にサトウキビの切れ端を探しに行った。親たちも切れ端を持ってきてくれたものだ。口から汁がこぼれるほど吸って、服をべたべたにして、仲間たちのむき出しになったお腹はてかてかになるのだった。 

差別や労働についてなにも知らない子供だからのんきなのかといえば、そうでもない。ジョゼはきちんと黒人たちが苦しむ貧困や差別を見ている。だが、彼にとって、苦しい生活と構造を知ることと、黒人の美しさを賛美することは両立する。

 すでにそのころ、僕は直感から、悪魔と貧乏と死というのは疫病神みたいなもので、特に黒人にとりつくのだと知っていた。無理だとは知りながらも、僕は黒人たちが悪魔やベケに仕返しするために、何ができるのだろうかと考えるのだった。 

大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

 

本書は「過酷だが美しい」「美しいが過酷だ」「貧しいが幸福に生きている」「富があるが苦しんでいる」といった複雑な声に満ちている。この語りを支えるのは、語り手の素直さと観察眼、そして彼の多様な立ち位置だ。

ジョゼは教育を受け、黒人小屋通りからただひとりバカロレア(フランスにおける大学入学資格を得る教育機関)に合格して、黒人少年としては例外的に「黒人小屋通り」以外の世界を目撃した。

ジョゼ少年は、自分が住んでいた世界以外を知ったうえで、黒人小屋通りとそこに住む人たちに親愛の情を向ける。彩り豊かな語りには、「誰も語らなかった黒人小屋通りについて自分が語ろう」とする意思がうかがえる。

 

著者はジョゼ少年と同じように高等教育を受けた後にフランスにわたり、第二次世界大戦中に本書を書いた。自分の土地を離れ、宗主国の言語で語ることについて、著者がどのような心境だったのかはわからない。だが、著者のように、フランス語で書くマルティニーク人がいなければ、世界はマルティニークに住む黒人たちの声を知る機会が遅れただろう。一方で、自分たちの言葉で語らずに外国語を使う文学者たち(総じて彼らはエリートだ)への批判があるのもわかる。

この白黒つけられない微妙さもまた、マルティニーク文学らしい。

 

Recommend:マルティニーク小説

アメリカ南部の黒人少女小説。『黒人小屋通り』が祝祭的な黒人社会だったのにたいして、『地下鉄道』は地獄としか言いようのない奴隷社会から少女が逃げ出す物語だ。過酷な物語だが、少女が誇り高い逃亡者なので、最後まであっというまに読んでしまう。

 

レザルド川

レザルド川

  • 作者: エドゥアールグリッサン,Edouard Glissant,恒川邦夫
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/12/01
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同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『レザルド川』でももちろんマルティニークに住むムラートと黒人たちの世界は描かれるが、こちらではむしろマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、ハンター×ハンター感があってよかった。

 

 同じくマルティニーク島出身の作家による「語り部」小説。こちらではマルティニークが誇る「語り手」文化に主眼が置かれる。ぱたっとぅ、さ! ええくりい! ええくらあ! といったクレオール語がふんだんに使われていて、声に出して読むと楽しい。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

 

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

 

 読みたい。マルティニーク島の隣グアドループでうまれた作家による、カリブ家系の年代記。今年に復刊される見込み。

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド|自分をすりつぶす場所から逃げよ

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。

――コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』

 

逃げることについて、私はわりと前向きな気持ちを抱いている種類の人間だ。家庭でも学校でも会社でも国でも、つらい場所に無理をして留まるより、息がしやすい場所へ行ったほうがいいと思っている。

逃げることをネガティブにとらえる人は、逃げたら負けだ、逃げたって変わらない、逃げた先でどうなるかわからないからリスクがある、と言うけれど、未来の不確定さやリスクよりも、つらい現状が予想どおり続いて変わらないことのほうが耐えがたい。

だから、逃げる人の話、特に前向きに逃げる人の話には惹かれ続けてきた。

地下鉄道

地下鉄道

 

 

時代は南北戦争以前、アメリカの深南部でうまれ育った少女奴隷コーラが、自由州の北部へ逃亡しようとする。

当時、黒人奴隷は白人のために生きる「財産であり、呼吸する資本金であり、肉体からなる利潤」で、奴隷の逃亡とその手助けは、財産の盗難であり犯罪だった。

しかもコーラは、最も過酷な州のひとつと言われるジョージア州でうまれ育った。深南部は奴隷を酷使をする文化土壌で、物理的にも北部から遠かった。なお悪いことに、コーラが働く農園の主人は残虐で、逃亡奴隷を八つ裂きにして見せしめにすることを楽しむ狂気の男だった。

この絶望的な環境では、奴隷が逃亡できる見込みはほとんどない。たとえ逃げられたとしても、奴隷狩り人があちこちに跋扈していて、見つかれば八つ裂きによる死が待っている。

「そういうふうに生まれついたの? 奴隷みたいに?」

だが、逃亡奴隷を支援する秘密組織「地下鉄道」が彼女のもとに現れる。「逃げ切ったただひとりの奴隷」を母に持つ少女コーラは、地下鉄道の助けを借りて、逃亡を決意する。

 

そして逃亡奴隷をめぐり、奴隷を逃亡させようとする「北部」と、奴隷を逃がすまいとする「南部」が激突する。

本書は、地下鉄道を追うことで、地下鉄道が貫く「アメリカ」そのものを描いている。

登場人物たちが北部へ突き進む姿は、アメリカの伝統芸能「ロード・ノベル」を踏襲している。逃亡によって登場人物たちは、法律や文化ががらりと変わる「州」、黒人の人権が正反対の「北部」「南部」をまたいで、「異なる国の集合体」であるアメリカを知ることになる。

「この国がどんなものか知りたいなら、わたしはつねにいうさ、鉄道に乗らなければならないと。列車が走るあいだ外を見ておくがいい。アメリカの真の顔がわかるだろう」 

読者は、地下鉄道のルートと逃亡者と追跡者を追うことで、アメリカめぐりをする。

もっとも、アメリカめぐりというよりは地獄めぐりに近い。逃亡の旅は流血と死にまみれ、たくさんの人が死んでいく。

こんな残酷な世界が、移動するだけで自分の生きる権利が激変してしまう世界がかつてあったのだ。

 

著者は歴史の事実をもとに想像力を駆使して、背景を書きこんでいる。また、登場人物たちもよい。コーラはじつに強い少女で、自分が人間であると確信している。その誇り高さと怒りが、彼女の壮絶な逃亡を支えている。きっとこれくらい自我が強くなければ、こんな逃亡はできない。彼女の独白や後悔はどれも切実で痛ましくて胸に迫り、中でも「心のノート」に名前を書き足していくシーンが好きだった。

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。  

たったひとりの反乱。コーラはしばし笑みを浮かべた。それから、独房にいるという事実がまたよみがえった。壁の隙間で鼠のようにもがきながら。畑にいようと地下にいようと、屋根裏部屋にいようと、アメリカは変わらず彼女の看守だった。

敵役としての奴隷狩り人リッジウェイは、『ブラッド・メリディアン』の判事(アメリカ文学で最もやばい男のひとり)を彷彿とさせる男で、奴隷を狩る自分を誇っている。

そしてもうひとり、ただひとり逃げ切った伝説を持つコーラの母がいる。彼女は不在でありながら、コーラとリッジウェイそれぞれに激しい感情を引き起こさせるトリガーだ。彼女の物語は短いが強烈で、読み終わったときは思わずうめいた。

 

逃げるとは、「現状維持による諦めと安心」と「未知に飛び込む希望と不安」との間で揺れて、後者を選ぶことだ。

たいていの人は、安心をとって現状維持を選ぶ。だが、現状維持の引力を振り切って、不安定な道を走る逃亡者たちがいる。彼ら逃亡者たちが、陰惨な時代を切り開く弾丸となり、その軌跡が残りの人たちを運ぶ道になる。私たちの歴史はそうやってつくられてきた。

彼らはもちろん傷つくし後悔するし迷うが、自分をすりつぶすことを良しとせず、振り切って逃げる。誇り高い逃亡者の物語だった。

「おれの主人は言った。銃を持った黒んぼより危険なのは、本を読む黒んぼだと。そいつは積もり積もって黒い火薬になるんだ!」

 

Recommend:南部の物語、逃げる物語

史実の「地下鉄道」で大活躍した伝説的な逃亡奴隷の伝記。コーラもなかなか強い少女だが、ハリエットは物理的な強さ&キャラの強さでさらにその上をいく。虫歯が痛すぎるので自分でたたき折るエピソードには仰天した。

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 『地下鉄道』で、文字を読める黒人奴隷の少年が読んでいた。ガリバーの旅行が、逃亡奴隷の旅行(旅行といえるほど優雅なものではまったくないが)と重なっている。この角川版は訳が2011年と新しいので、新潮版(1951年訳)よりもだいぶ読みやすくなっている。

 

南北戦争よりずっと昔のアメリカでの残虐。入植した白人がインディアンを狩りまくる。奴隷狩り人リッジウェイを1000倍禍々しくした狂気の「判事」に震撼せよ。

 

南部といえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。どちらも胃痛が爆発する系の沈鬱な南部だが、この血が燃える世界には驚愕するばかりだ。南部、南部、なんという土地なのか!

  

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

 

コーラたち黒人奴隷の末裔である黒人女性が、どのようにして狂って残酷なアメリカを生き延びたのか。20世紀後半になっても彼女たちはずっと苦しい人生を強いられてきたことがわかる。

 

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

 

 退屈な日常から逃れて美術館に住み着いた悪ガキたちの逃亡物語。彼らのかっこいい逃亡が、私の逃亡の源泉となっている。いつだってこんなふうに、笑いながら逃亡したい。