ボヘミアの海岸線

海外文学を読んで感想を書く

『ミステリウム』エリック・マコーマック|奇病で村全滅ミステリのふりをしたなにか

「動機。あなたはほんとうに動機や原因や結果みたいなものを信じているの? 本や劇以外で、未解決の事柄がきちんと片付くと信じているの?」

ーーエリック・マコーマック『ミステリウム』

 

マコーマックは、物語を組み上げると同時に内側から解体しにかかる作家だと思う。

するすると物語が組み上がっていくように見えて、ずっと足元がひそかに掘り崩されている。やがて足元が崩れて、読者は予想しなかったところへ放り出される。

マコーマックに感染した物語は、王道の物語のふりをした「なにか」になる。

ミステリウム

ミステリウム

 

「ミステリー小説」にマコーマックが感染した小説が『ミステリウム』だ。

物語は、いかにもミステリーらしい展開で幕を開ける。

スコットランドを思わせる「北部」の寒村キャリックで、住民がしゃべり続けた果てに死ぬ奇病が発生する。原因はわからない。治すすべはない。致死率100%の未知の病である。

奇病が発生する直前に、不穏な兆候はいくつもあった。「水文学者」なる外部の男マーティン・カークがやってきて、キャリックについて調べ回っていた。よそ者がきてから、町の公共物が破壊される事件が続いて、そして住民たちが死に始める。

死に飲まれつつある閉鎖空間キャリックに、若い新聞記者ジェイムズ・マックスが滞在を許可される。語り手は、死につつある証言者たちにインタビューすることで、疫病と事件の手がかりを追い求める。この疫病の正体はなにか、犯罪の動機はどこにあるのか、なぜキャリックが狙われたのか。

 

物語にはミステリーらしい要素すべてがそろっている。さびれた炭鉱町、吹きすさぶヒースと荒野、怪しいよそ者、町に伝わる「ミステリウム」の祭り、町に伝わる秘められた歴史、よそ者、唯一の生き残り、死ぬ運命にある証言者たち。すべてが完璧だ。

あとは真実を暴くだけ。しかし、語り手と読者の期待をよそに、住民たちは  「真実を語ることができるのは、君があまりよく知らないときだけだ」と口をそろえて煙に巻く。

   「しかし私は北部が好きになった。なかなかうまくいえないのだが、北部のほうが南部よりも複雑なのだ。こちらではなにひとつ単刀直入ではない。人は隠し事をする。ごく些細なことでさえ。しかもその理由ははっきりしないーーひょっとしたら転生の秘密好みにすぎないのかもしれない。北部ではほんとうの謎がさらに謎めいたものになるのだ」

 

この小説は、謎と、謎に引き寄せられる人間たちのための物語だと思う。

理解できないことや謎を提示されると、人は2つのことを要求する。まず「なぜ」を知りたがる。そして「因果」を見いだしたがる。「なぜ」と「因果」がわかることで、人は興奮して快感を得る。ミステリーや陰謀論はこの「謎の仕組みを理解したい欲求」に応える。

マコーマックは人間の欲求を完璧に理解していて、抜群におもしろい物語と手がかりを提供してくれる。ミステリというメインディッシュだけではなく、脱線話のサイドディッシュもじつに凝っていておもしろい。そうしてじゅうぶんにもてなした後に本性を現す。

マコーマックは確信犯だ。しかし私も共犯だ。マコーマックだとわかっているのに、のこのこと見物にいって、ひきずりこまて爆破されて、満足しながら帰ってくる。書く阿呆に読む阿呆。どちらも途方もなく救いがたく、ゆえに愛するしかない。

 

Memo:『ミステリウム』世界の地理

『ミステリウム』では具体的な地名が描かれていないが、基本はイギリスの地理に即していると思われる。

  • 北部…本書の舞台。ブリテン島における北部にある、スコットランド。著者の出身地。スコットランドは歴史的に南部(イングランド)と戦いながら併合された歴史があり、現在では穏やかな共存をしつつも、独自の政治と文化を持つ。北部の島はゲール語文化が残っている。
  • 南部…ブリテン島の南部にある、イングランド。日本人が「英国」と聞いて思い浮かべるのはだいたいイングランドのこと。イングランドの首都はロンドンで、UKの首都でもある。
  • 首都…イングランドの首都ロンドンか、スコットランドの首都エディンバラか迷ったが、文脈と町並みの描写から考えるに、エディンバラのほうだと思われる。
  • 植民地…おそらくアメリカ。同じ言語だが話し方が異なる描写がある。

エリック・マコーマックの感想

Recommend

スコットランドの島を舞台にした小説。灰色の空、ヒース、荒野、陰鬱な空気と陰惨な事件が満ちている。

 

『ミステリウム』は『悪童日記』三部作の『二人の証拠』『第三の嘘』を思わせる。これが真実だ、と思った後、物語はひっくり返り続ける。

 

『ミステリウム』も『コスモス』も一種のアンチ・ミステリである。
 

『競売』も『ミステリウム』と同じように「素人探偵が謎の組織を追うミステリー」プロットだが、ピンチョン界では証拠が足並みをそろえて探偵のもとへ突撃してくる。この「不自然なまでの都合のよさ」はマコーマック界にもある。そんなばかな、を全編にわたって展開し続けるピンチョン界を楽しめる小説。

 

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)

 

 途中で登場する突飛な「犯罪学」が、思いっきりソシュールのシニフィアンとシニフィエのパロディで笑った。マコーマックお得意の真顔ギャグ。

『ウインドアイ』ブライアン・エヴンソン|「私以外のなにか」になっていく私

彼らが恐れているのは、自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなってしまうことなのだ。ふたたび生に戻ってこなくて済むよう、自分の死にはっきり輪郭が与えられることを彼らは望んでいる。

――ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』

 

自分が自分でなくなる方法は2つある。

ひとつは、自分を構成する要素を失うこと。もうひとつは、自分以外の「なにか」を自分の中に招き入れること。

前者はたとえば記憶喪失で、後者は悪霊や宇宙人によるパラサイトだ。

基本的に、人間は知らないうちに「自分以外のなにか」になったりはしない。構成要素を失えば痛覚や喪失感といったアラートが鳴って知らせてくるし、身体は「自分以外のなにか」を排除する免疫を持っている。

だが、著者はその小説世界で、痛覚や免疫といった防御機能をすべて停止させてしまう。結果として、自己と他者の境界、生と死の境界が崩落する。

この恐ろしいエヴンソン・ワールドでは、自己と「自分以外のなにか」の境界がまったいらで通行自由なので、たやすく自分が自分でなくなってしまう

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

ウインドアイ (新潮クレスト・ブックス)

 

 

 ブライアン・エヴンソンは、あらゆる短編を尽くして「自分が自分ではなくなる恐怖」を描こうとする。 

「自分の構成要素を失う」物語では、身体、記憶、家族といった、自分を構成する重要な要素が突然「そんなものはない」と言われてなかったことにされる。

「自分以外のなにかを招き入れる」物語では、身体が「なにか」と融合する。自分以外の手が、自分以外の目が、自分以外の耳が、免疫ゼロの登場人物たちに巣くい、じわじわと内部から自我を食らっていく。著者は、宇宙人や悪霊といった不可視の侵入者ではなく、手や目や耳や頭といった「実在する身体パーツの侵入者」を多く描く。身体のパーツは誰にでもなじみがあるものだから、想像しやすく恐ろしい。

自分を失いながらなにかを招き入れる、最悪の物語ももちろんある。

そしていまは? 出口があるとしても、私に見つけられるようには思えない。恐怖はあるものの、残された選択肢はただひとつに思える。

エヴンソンが描くこれらの「自分が自分でなくなる」感覚は、精神医学や神経学の病理を思わせるものがある。

私たちが「自分は自分だ」と思えるのは、「自分はこの体をすみずみまで所有している」と感じるからで、身体の所有感覚がアイデンティティにつながっている。

ゆえに「自分の身体を所有している感覚」に問題がある人は「自分が自分でない」と感じる。たとえばコタール症候群の人は「自分がすでに死んでいる」と断言し、身体完全同一性障害の人は「足が自分のものでないから切断したい」と切望する。「知らない人間の声がする」症状は、統合失調症の症状だ。

著者は、これらの症状と想像力を溶かして混ぜ合わせ、手に負えないところまで増幅させていく。

 

本書は、幸運なら体験しないであろう「自分が自分でなくなる」恐怖を、誰にでも伝わる言葉と舞台で表現してくれる。

 エヴンソン・ワールドに迷いこんだ不運な人たちは、知らないうちに自分が自分でなくなり、自分が立っていた世界が「似ているけれど別の世界」に塗り替わっていることに気づく。

自分を失うという一大事にたいして、登場人物たちは自分を弔うことすらままならない。自分以外の人は誰も気づいていないし、自分はもはや自分ではないからだ。生きながらにして幽霊になるのは、きっとこんな感じなのだろう。

本書を読むと、自己と他者の「境界」は、自分を健全に保ち守るために、とても重要なのだとわかる。本書を読む人間は幸福だ。境界が大事なものだと、失う前に気づけるのだから。

 

収録作品

気に入った作品には*印。

  • ウインドアイ**:妹がいたはずだったんだ。窓は確かにひとつ多かったはずなんだ。そして異界の扉は開き、読者はエヴンソン・ワールドに引きずり込まれる。
  • 二番目の少年**:エヴンソンが書く「お話をしてあげよう」系は本当に怖い。聞いてはいけないけれど聞くしかない。自己と他者の境界が崩落する。
  • 過程
  • 人間の声の歴史
  • ダップルグリム:中世から伝わる古く恐ろしい話の雰囲気を持つ。めずらしく身体パーツではなく「馬」が怖い話。
  • 死の天使**:名前を書くことで死を確かなものにしたい人たち。普通ならいやだが、エヴンソンの世界ならわからなくない、と思ってしまう。
  • 陰気な鏡
  • 無数**:「無数」という単語の意味が最後になってわかる。完全にいかれていて怖い。
  • モルダウ事件**:モルダウ事件とあるが、事件の主語はころころ変わる。そして容疑者と追跡者の境界が溶けていく。
  • スレイデン・スーツ***:難破しかけた船から脱出する術はスレイデン・スーツをくぐり抜けること。王道ゴシックな雰囲気がよい。
  • ハーロックの法則
  • 食い違い:聴覚と視覚がずれてくる。これはおそろしく気持ち悪いだろう。読んでいるだけなのにぐらぐらになった。
  • 赤ん坊か人形か:赤ん坊と人形の区別がつかなくなる。認知の崩壊による自己喪失。
  • トンネル:トンネルは自我を失うのにうってつけの場所だ。通過することで人はなにかを失う。
  • 獣の南
  • 不在の目*:ここらへんになってくると、タイトルに身体パーツが書いてあると「なるほど今度はこいつに乗っ取られるのか」と心の準備ができる。が、やはり最後にはうめく。
  • ボン・スコット
  • タパデーラ:死んだ少年が動いている。死んでいろと言っても動いている。彼は生きているのか死んでいるのか?生死の境界が消滅する。
  • もうひとつの耳**:タイトルそのままに、なにかの耳がなにかを聞き続けている。
  • 彼ら
  • 酸素規約*:タイトルがかっこいい。J-POPかバンド名にありそう。エヴンソンは「謎の組織」もよく描く。謎の組織は期待どおりだいたいやばいのでよい。
  • 溺死親和性種*:こちらもタイトルがかっこいい。
  • グロットー
  • アンスカン・ハウス**:ポーを思わせるゴシックホラー。アンスカン・ハウスにいけば、誰かの苦しみを引き受けることができる。ほら、行ってごらん。

Recommend

異界に落ちていく短編ばかりを集めた「いやな英語文学」アンソロジー。エヴンソンの「ヘベはジャリを殺す」が収録されている。これも本当にいやな話だった。

 

自分が自分でなくなる病理を、神経学の視点で解説している。自分を死んでいると思いこむコタール症候群、自分の足を切断したくなるBIID患者のインタビューがのっていて、どれも共感できなさすぎてすごい。文学好きにもおすすめ。

 

表題作「死体展覧会」は、『ウインドアイ』中にしばしば登場する「謎の組織」を思わせる。暴力が吹き荒れる、別の意味で恐ろしい小説。

『パラダイス・モーテル』エリック・マコーマック|タワー・オブ・ホラ話

おかしなことじゃないか? 人が心に秘めて話さないことがそんなにも重要だとは。人が話すことのほとんどすべてがカモフラージュか、ひょっとすると鎧か、さもなければ傷に巻いた包帯にすぎないとは。

――エリック・マコーマック『パラダイス・モーテル』

 

「ホラ話っぽい事実」と「事実っぽいホラ話」の境界はあいまいで、限りなくホラ話のように見えることが事実だったり、ホラ話のように見えるけれど嘘であることもある。時間が経てば、ホラ話も事実扱いされるし、事実がホラ話扱いされることもあるから、ホラ話と事実を見分けることは、基本的に人類の手に負えない。

さて、小説家は、事実と虚構の境界をぼやかした土壌に作品を組み上げる人たちだが、マコーマックは「極端なホラ話に見える話」をぶちまけて境界を見えなくさせる作家だと思う。

マコーマックの小説では「ありえない」と思うことを誰もがまじめに語っていて、おかしいことがどんどん続く。だからだんだん「そういうものなのか?」と判断力がにぶってくる。

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)

 

 

パラダイス・モーテルで、エズラという男性が、祖父の記憶、祖父から聞いた恐るべき話を回想している。

スコットランドのひなびた町から失踪した祖父が、30年ぶりに戻ってきた。祖父は失踪中に船乗りとして世界中を旅していて、ブラジルに滞在中、乗組員から驚くべき話を聞かされたという。

話はこうだ。スコットランドのある島で、マッケンジー一家の妻が失踪した。妻を殺したのは夫の医師で、妻の死体をばらばらにして4人の子供たちの腹を切開して隠した。そんなばかな、と祖父は思う。だが語り手は証拠を見せてくる。

 

この物語を引き金として「そんなばかな」の嵐が幕を開ける。

エズラはマッケンジーの4人の子供たちがその後、どんな人生を送ったのかを調べようとする。調べ始めてまもなく、ぞくぞくとマッケンジーの子供たちの物語がエズラに向かって突進してくる。なんという都合よさ。それにマッケンジーの子供たちの話はそろって奇想天外でおぞましい。なんという不自然な一貫性。しかしそれでも、語られる物語、登場人物たちがそろいもそろって大真面目に、馬鹿馬鹿しくもグロテスクな逸話をたたみかけてくる。

子供たちの話はどこか干し首めいていて、血がしたたる湿気に満ちているのではなく、乾いている。ぎょっとはするのだが、どこか浮世離れしているせいか、ちらちらと見続けてしまう。しかもよくよく見てみればユーモラスな顔をしていたりするものだから、笑いと親しみすらわいてくる。

登場するエピソードで好きだったのは、<自己喪失者研究所>のマッド・サイエンティスト、目玉がやばい位置についているシャーマン、作家と作家のファン(に見せかけた狂人)の話だ。4人分しかないとわかっていても、もっと話を! と望んでいる自分がいた。

「苦痛の持続が人間にも同じ効果をもたらすとすれば、われわれはとてもうまいごちそうになるだろう」

また、スコットランドクラスタとして特筆したいのが、エズラと祖父が住む町、マッケンジー一族が移り住んだ島が持つ、灰色がかった陰鬱な空気だ。スコットランドの北部諸島は、荒野と灰色の海、灰色の空、ヴァイキングとケルトの民が残した遺跡に満ちている。この荒野から、このような物語がうまれてくるのは似つかわしく思える。

 

「そんなばかな」を限界まで積み上げて、話が広がりに広がってすっかり手に負えなくなってきたところで、物語は開かれながら折りたたまれていく。虚実の境界がぬるぬると溶けて瓦解していく霧の向こうで、作家が高らかに笑っている幻影を見た。

「それが人生というものだ。小説のふりをしたひと握りの短篇というやつが 」

 

Recommend

スコットランドを舞台にした小説。こちらも荒野と陰惨な事件と陰鬱に満ちていて、スコットランドはこういう物語をうみやすい土壌なのかもしれない。(北欧諸国と似た雰囲気なので、北欧ノワール小説と雰囲気が近いかもしれない)

 

ウルフの『灯台』もまた、スコットランドの島を舞台にしている。スコットランドは最古の灯台がある灯台の国で、国立美術館には灯台の巨大なランプが展示されていて、よく見にいったものだった。

 

淡い焔

淡い焔

 

「 信頼できない語り手」が祖国ゼンブラについて語りまくる注釈もどき小説。「怪物じみた小説もどきをこしらえるつもりはない」とナボコフは書いているが、まさにこれは「怪物じみた小説もどき」そのものなのだ。ナボコフの真顔ギャグが炸裂する本。 

 

ボラーニョの真顔ギャグが炸裂する「信頼できない語り手」小説。「平和の象徴である鳩を鷹狩りで撃ち落としまくるヨーロッパ協会」といったホラ話を真顔で語る。その背後には、隠したい悪の体躯が見え隠れする。

 

嘘が本当になったり本当が嘘になったりする騙りの魔術でいちばん好きな本。長らく絶版なのでそろそろ復刊してほしい。

『素晴らしきソリボ』パトリック・シャモワゾ―|小説が到達できない、語りの魔術

 彼にとっては、書くことでは物事の本質をとらえることはできないのです。

――パトリック・シャモワゾ―『素晴らしきソリボ』

 

じつににぎやかな小説だ。文字よりも声への敬意に満ちている。

かつてすべての物語が声で語られた時代があった。ええくりいく! と語り手が聴衆に語りかければ、聴衆は、ええくらあく! と叫び返し、語り手と聴衆がわいわいガヤガヤ相互にやりとりをしながら、物語を進めていった。

語り手の身振りや目つき、抑揚、沈黙、吐息、すべてが物語だった。それらは放たれた瞬間に失われる、一瞬の輝きに満ちたものだったから、誰もが語り手とともにその一瞬を共有したがった。

素晴らしきソリボ

素晴らしきソリボ

 

 

「声による物語」は輝きに満ちているが、その特性上、放たれた瞬間に消えていく宿命にある。その美しさと悲しみを体現した男が、ソリボ・マフィニーク(素晴らしきソリボ)だ。

舞台は口承文化が残るカリブ海マルティニーク島。本書は、誰からも尊敬される愛され系の語り手ソリボが、言葉に喉を掻き裂かれて死ぬところから始まる。

ぱうぉる ら ばい あん ごおじぇと(言葉が彼を掻き裂いた……)

死因、「言葉に喉を掻き裂かれる」。そんなばかげた死因は聞いたこともないと、警察が殺人事件と見なしてソリボの聴衆(だいたい無職)に尋問する。

だが聴衆たちはソリボの素晴らしさや思い出こそ語るものの、事件の手がかりになりそうなことはなにもしゃべらない。それはそうだ、彼らは殺してなどいないのだから。しかし、警察は信じず、暴力を使ってでもなんとしてでも殺人事件にしたてようとする。

答えはマグカップ一杯分もないのに、問いだけは一樽分もあるってわけだ。 

 

この不毛な会話から見えてくるのは、権力者である警察と、ソリボを愛する聴衆たちの「言語の違い、生きる世界の違い」だ。

警察は宗主国の言語フランス語を話し、聴衆たちの多くはクレオール語(フランス語とアフリカ人たちの言葉が混ざったピジン言語)を話す。そして警察は物語が死んだ世界(あるいは客観の世界)に、聴衆たちは物語が生きている世界(あるいは主観の世界)に住んでいる。

警察にとって、死者について語ることは供述書のためだが、聴衆たちにとって、死者について語ることは愛と思い出と弔いのためである。

誰がソリボを殺したか捜しても何も真実は得られませんよ。本当の問いは、ソリボは誰か、ということです。

 

ソリボ不在の世界で、ソリボの存在感がどんどん増していく。彼は謎めいている。そして魅力的だ。ソリボとは誰なのか。なぜ彼は誰からも愛されたのか、彼はなんのために語っていたのか。

彼の言葉は、どんな耳にもたどり着くような隠れた道、心についている見えない扉にたどり着く道をわかっていた。

この語り部はそれぞれの土地、そこに住む人々、それぞれの苦悩を語ることができた 。

ソリボを知れば知るほど「なんてすごいんだソリボ」という思いと「なんで死んでしまったんだソリボ」という思いが高まっていく。

とくに私が好きだったのが、ソリボが主催した葬式と、ソリボがつくったサメ肉のマリネだ。どちらも祝祭めいた雰囲気に満ちていて、その場に居合わせたくなった。

ちなみに本書にはいろいろな料理が登場する。ドングレ(煮込みパスタ)トランパージュ、タフィア酒でフランベしたメシュイ(羊のグリル)、フェロス(タラ、キャッサバ、アボカドで出来た団子)、キャッサバのホットケーキ、ザボン漬け、どれもおいしそうで食べたい。

 

本書は、語り手ソリボの喪失をとおして、発した瞬間に失われるが瞬間にすべてを詰めこめる「声の文化」と、後世まで残るが語りの大半を失ってしまう「文字の文化」の悲しき差異を描く。

声の文化と文字の文化は、お互いに衝突するものではないが、互換できるものでもない。「語る者」ソリボと「書く者」 シャモワゾー、ふたりの間には溝が容赦なく横たわる。

話された言葉を書くことは絶対にないのさ。単語を綴るだけでしかない。おまえは語るべきだったなあ。

著者は書く者でありながら、書く言葉の不出来さに落胆するが、それでも彼は書く。

落胆と執念の集大成とも言えるのが、最終章のソリボの語りだ。終盤にこれほどの音と生命力が凝縮された小説はそうないだろう。まさに本書の華と言える。

翻訳ではおそらく韻および言葉の音楽性が失われるから、日本語読者にはソリボの語りの1~2割ぐらいしか届いていないかもしれない。

それでもソリボの言葉は越境して、ソリボの死後も残った。この事実こそが、シャモワゾーが落胆しつつも書き続ける理由なのではないか。

わたしは去るがおまえは残る。わたしは語るが、おまえは、自分は話された言葉から来たと言いながら実際は書く。おまえとわたしは遠く隔たっているが、それを超えておまえはわたしに手を差し伸べる。いいことだ、しかしおまえが触れているもの、それは距離そのものなのだ…… 

 

Memo:声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

  • 作者: ウォルター・J.オング,Walter J. Ong,林正寛,糟谷啓介,桜井直文
  • 出版社/メーカー: 藤原書店
  • 発売日: 1991/10/31
  • メディア: 単行本
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『声の文化と文字の文化』は、本書のテーマど直球の古典である。

声はかつて世界において「記憶」をとどめる主流の方法だったが、文字の出現によって記憶は文字が主流になり、音読社会から黙読社会になっていった。

声は揮発性が高く属人的であるがゆえに、災害や戦争によって継承がうまくいかないと永久に失われてしまう。一方、文字もまた消失や破壊の危険にさらされるが、耐久性が声よりも高く、複製可能のため、結果として「記憶を残す記録媒体」として主流になった。

『素晴らしきソリボ』では失われること、文字媒体への変換率の悪さ(対話ではノンバーバル・コミュニケーションが7割と言われているから、文字だと語りの3割ぐらいしか残せないだろう)に主軸が置かれている。『声の文化と文字の文化』では「揮発性」「継承性」「記録媒体としての耐久性」といった視点で「声の文化」と「文字の文化」を比較している。

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

 

「その場にいることによる相互性」においては、「複製技術時代の芸術作品」でベンヤミンが「アウラ」として提唱している。ソリボの語りは、アウラの話でもあるだろう。

 

Recommend:マルティニーク文学、口承文学

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『素晴らしきソリボ』はマルティニークの口承文化に主眼を置いていて、『レザルド川』はマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、『ジョジョ』『ハンター×ハンター』感があってよかった。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2004/07/01
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

ペルーのジャングルに住む語り手を追うペルー人の青年2人が、それぞれの形で語り部へと接近していく。同じような興味から語り部に近づいていく2人が、まったく違うアプローチをとる。『密林の語り部』でも語り部は豊かな言葉を語っている。

 

ブリテンの荒野になじみがあるせいか、口承文化といえばケルト文化を思い出す。彼らは文字文化をよしとせず、20年かけてすべての詩や物語を暗記して伝えていった。異文化によって征服されると彼らの物語の多くは失われ、一部はキリスト教の物語などに吸収されていった。

『レザルド川』エドゥアール・グリッサン|原色の自然と情熱が踊る

 それは町だ、砂糖キビと湿地帯と遠い海と近い泥からなるちっぽけな土地だ。そしてレザルド川を忘れることはできない。

――エドゥアール・グリッサン『レザルド川』

  

フォークナーのヨクナパトーファ郡、中上健次紀州のように、土地そのものが小説の重要な主人公として燃え上がる小説がある。これらの小説を読むと、登場人物たちよりも、彼らを取り巻く土地のほうが長く記憶に残る。そして似たような湿度や光を感じると、まるであの小説世界のようだ、と訪れたことのない土地をなつかしく思い出す。

『レザルド川』は、おそらくそうした土地小説のひとつだ。読み終わった今、太陽の下で真っ赤に咲き乱れる火炎樹、まぶしい光に満ちた海、そして赤と黄色と緑に満ちたレザルド川である。

レザルド川

レザルド川

 

ぼくらはあまりに伝説に生きてきすぎた。君は奇跡を信じている。そうじゃないか?

1945年のマルティニーク島の町で、政治への情熱を抱えた若者たちがある野望を抱えていた。次の市長選で絶対に勝たせたいマルティニーク人がいるから、邪魔なフランス(マルティニークを植民地化した宗主国)寄りの実力者ガランを暗殺しようとしていた。

このガラン殺害計画のために、山からタエルという名の若者が呼ばれる。やる意味があるかわからない無謀な計画だが、若者の熱気ゆえか、若者たちのリーダー格マチウと打ち解けたタエルは殺人を約束する。

 

ガラン暗殺のため、タエルはレザルド川を下っていく。この川下りは本書のハイライトで、とても謎めいていておもしろい。

ガランがひとりで川下りを始め、タエルがその後をひそかに追うオーソドックスな追跡から始まったはずなのに、途中からお互いの存在をはっきり認識し合い、距離があるにもかかわらず、思念めいたもので会話を始める(読書会では『ジョジョ』『ハンター×ハンター』ぽいという感想が出た)。

彼らは、標的と暗殺者といった関係から脱線して、唯一無二の「レザルド共同体」となり、大いなるレザルド川を下っていく。レザルド川の描写はもはや川なのか? と思うほどで、赤黄緑黒とその姿を変えて、ちっぽけな人間たちを広大な海へと運んでいく。

レザルド川は今やゆったりと、力強く流れている。周囲の土地は黄色い血で膨れあがり、川が醸成する泥で超えた、分厚い波状をなして広がっている。それは時に緑と赤の呪文となる。 

 

示唆と隠喩に満ちた小説だ。著者の言葉は原色の鉱石みたいにきらきらゴツゴツしていて、詩を思わせる言葉が、レザルド川やマルティニークの自然を礼賛する時に爆発的に花開く。

――美だって? そいつを私に説明してくれ、美というやつを。

――誰かが町へ降りてくる、それはぼくだ。彼は誰かに合う。それはマチウだ。

――おまえの兄弟だ。

――二人が、同じ日に。それが美だ。

マルティニークの自然が輝く中で、若者たちもまた青春を謳歌する。彼らは恋をして、ある者は恋が実り、ある者は失恋し、友情を確かめたり、反目したり、議論に白熱したり、海ではしゃぎ、祭りの夜に大笑いしたりする。

(マチウ! マチウ!)しかし彼女はなお笑っていた。そうした一切の錯乱、音の監獄、成熟した砂糖キビの矢、未来の収穫、熱い風の上に、この新しい輝く、憐憫も脆弱さもない、二人だけのために燃え立つ、純粋な輝きがあった。

 

おおいに遊び笑う姿は私たちとそう変わらない一方、政治への情熱と議論で結びつくあたりはやはり現代とはちょっと違っている。 

だが、当時はそういう時代だった。本書の時代は1945年。第二次世界大戦が終わって世界中が脱植民地化する中で、フランスから独立するか独立しないかが、マルティニークに住む人たちの大いなる関心ごとだった。だから彼らは真剣に話しあったし、選挙に熱狂した。選挙によって自分たちが独立するかしないかが変わる。そんな年だった。

この熱狂と真剣さは、少しだけわかる気がする。私はかつて、スコットランドの独立選挙に居合わせたことがある。町のあらゆるところに独立と選挙の文言やビラが踊り、人々はちょっとした時に独立の話題を口にした。あけっぴろげな政治的な話題を好まないスコットランド人ですらそうだったのだ。独立を目前にしたマルティニーク人たちが熱狂したとしてもふしぎはない。

 

その熱情を、著者は記憶にとどめておこうとしたのかもしれない。激情は炎か突風のようなもので、長くは続かないが、いくばくかの熱を記録に残すことはできる。著者は川のように書き、川のように後世まで運ぼうとした。だからだろうか、私が『レザルド川』のことを思い出す時、原色の自然と情熱が今も目の前で踊っている。

「忘れるな、忘れるなよ。憶えておけよ。」まるで言葉が降り、広がり、溢れる一本の川となることができるみたいに。まるで言葉が閃光をそのまま凝縮して(実を結ばせる)しかるべき土地へ運んでいくことができるみたいに。

言葉は決して死に絶えてしまうことはなく、川は決して土砂を海に運び終えてしまうことはない。

 

Memo:『レザルド川』読書会

アフリカイルカことスミス市松氏(@ichimatsu_smith)の主催で『レザルド川』読書会が開催された。本書はかなり暗喩に満ちた小説なので、象徴やマルティニーク文化を知っているとより楽しめるかもしれない。

山に生きる者たち

タエルやパパ・ロングエといった山の住民は「逃亡奴隷の子孫」である。マルティニーク島の黒人たちは奴隷としてアフリカから連れてこられて、サトウキビ畑で強制労働させられた。畑から逃げる者たちは追手が探せない山に逃げて潜伏した。だからか、タエルにせよパパ・ロングエにせよ、山に住む者は町の人とは違った密教ぽさや厳しさがある。タエルが山からやってくるのは、町の若者たちではなしえないことを「厳しい場所に住む者」にたくしたからかもしれない。

町の若者たち

本書は肌の色について言及がないが、教育を受けフランスへの留学をする者が多いことから、おそらくムラート(混血)であろう。『黒人小屋通り』で黒人少年が学校へ進学した時、自分以外はほとんどがムラートでありなじめなかったと書いている。特にヴァレリーは中でも裕福だっただろう、と読書会で指摘があった。

マルティニークの地形

京都のように、各方角に意味を込めている。東は川、北は山(逃亡奴隷の土地)、南は畑(裕福な者が住む土地、サトウキビ畑)、西は海(カリブ海)。なお、マルティニークは海に囲まれているが、東側の大西洋は「厳しい海」で、西のカリブ海は「優しい海」らしい。

レザルド川

「亀裂」という意味の川で、マルティニーク島を東西に走っている。

夜話

コントと呼ばれる、語り手と聴衆がかけあいをする談話。 マルティニーク文化に欠かせないもので、『黒人小屋通り』『素晴らしきソリボ』にも登場する。夜話のかけあいは、タエルとマチウ、タエルとガランのかけあいにも通じるかもしれない。

アフリカから伝わる伝説から名前をつけられた犬たちは、不吉の象徴、暴力の象徴としてなんども現れる。

呪術師

パパ・グランデは未来をみとおす力がある。呪術師の語りと呪術師への敬意は、アフリカとのつながりを感じる。

 

以下、参加者の感想をざっくりまとめ。やはりその特徴的な文章のためか、文章への言及が多かった。

  • 長い詩みたいな文章
  • 映像が目に浮かんでくる
  • 塗りたくった油絵ぽい
  • J-POPの歌詞みたいな文章
  • シンボリックな文章
  • 文章が読みにくい
  • 神話のような印象
  • 川下りがあつくておもしろい
  • マチウの女遍歴がどうかと思う
  • きらきら青春小説でほろり。『野生の探偵』ぽい
  • エモさを感じる
  • 「ぼく」とは何者か
  • 幼年期が終わり、青春が終わり、サーガが終わる
  • イメージの氾濫
  • 自分の文体を獲得しようとする試み
  • 海が多彩な象徴(親愛だったり抱擁だったり殺人だったり)
  • 戯曲みたい
  • 人称がいろいろ変わる(一人称と二人称と三人称が混在している)
  • 自然描写がすばらしい

Recommend

マルティニーク島うまれの作家による小説。「黒人小屋通り」とは、黒人奴隷を祖先に持つ黒人たちが住む通りで、トタン屋根の狭いバラックに皆が暮らしていた。暮らしは貧しく重労働だった。ゾベルは黒人小屋通りの過酷さと美しさを同居させた物語を書いた。

 

マルティニーク島出身の作家による「口承文化」「声の語り」への敬意に満ちた小説。愛され系の語り手ソリボが「言葉に掻き裂かれて死ぬ」。彼の死をいたんだソリボの聴衆(だいたい無職)が彼の思い出を語ることで、「語り手とは何者か」が浮かび上がる。

 

土地に根差したサーガといえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。他にも『アブサロム、アブサロム!』は『レザルド川』と共通点がある。ガランはレザルド川の上流に屋敷をかまえていた。その様子が、大屋敷をかまえるサトペンと似ていると読書会で言われていた。黒人、奴隷、屋敷、水源を確保する白人というモチーフは確かに通じるものがある。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

 

 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

 

『黒人小屋通り』ジョゼフ・ゾベル|過酷で美しい少年時代

 大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

――ジョゼフ・ゾベル『黒人小屋通り』

 

今年の夏は、例年どおり八月の光に誘われて、アメリカ南部の小説をぐるぐるとめぐっていた。南部から立ち昇る蒸気にすっかりのぼせて、さらに南下してカリブン(カリブ海文学)へと移動してきた。

アメリカ南部とカリブ海は、ともに黒人がアフリカから奴隷として連れてこられた歴史を持つ。どちらも同じ大陸から連れてこられた人の末裔たちだが、土地と人によって、こうも語る物語が違うのか、と驚いた。

黒人小屋通り

黒人小屋通り

 

 

 黒人小屋通りとは、カリブ海マルティニーク島に存在した黒人街だ。

かつてコロンブスが「世界で最も美しい場所」と称賛し、現在は「カリブ海の花」としてリゾート地になっているマルティニーク島の斜面には、一面のサトウキビ畑があった。丘の頂上には白人農場主(ベケ)の屋敷、その下には混血(ムラート)が住む農園監督者の家、その下に黒人小屋通りがあり、さらに下は一面のサトウキビ畑が続いた。

この住居の位置は、そのままマルティニーク社会における階級を示していた。肌の色によって階級が決まっていて、黒人は最下層に位置づけられていた。

 

奴隷制度が終わってまもない1930年代、この黒人小屋通りから、ひとりの黒人少年が声を上げた。その声は、黒人たちが苦しむ貧富と差別の過酷さを語り、そして黒人たちが生きる世界の美しさを語った。

 

黒人小屋通りは、トタン屋根のバラックでできた狭い住宅で、語り手の少年ジョゼは祖母とともに黒人小屋通りで育った。黒人小屋通りの子どもたちはそろってわんぱくで、いたずらし放題、盗み食いし放題で、とにかく生命力がすごい。

着ているものはぼろ布だけでほぼ裸、食事だってけっして豪華とは言えないのだが、それでも皆がおいしそうに食べるものだから、こちらもつい食欲を刺激されてしまう(干しダラの料理はどれもおいしそうだ)。

とくにサトウキビ収穫時期のシーンは、祝祭めいた雰囲気に満ちている。背後にはもちろん白人農場主による搾取問題があるのだが、それでも語り手はこの瞬間を祝福する。 

そして刈り入れになった。

僕ら子供たちは一日じゅう、サトウキビの切れ端を吸うことができた。僕らは畑にサトウキビの切れ端を探しに行った。親たちも切れ端を持ってきてくれたものだ。口から汁がこぼれるほど吸って、服をべたべたにして、仲間たちのむき出しになったお腹はてかてかになるのだった。 

差別や労働についてなにも知らない子供だからのんきなのかといえば、そうでもない。ジョゼはきちんと黒人たちが苦しむ貧困や差別を見ている。だが、彼にとって、苦しい生活と構造を知ることと、黒人の美しさを賛美することは両立する。

 すでにそのころ、僕は直感から、悪魔と貧乏と死というのは疫病神みたいなもので、特に黒人にとりつくのだと知っていた。無理だとは知りながらも、僕は黒人たちが悪魔やベケに仕返しするために、何ができるのだろうかと考えるのだった。 

大人の黒人たちが裸になって立派な馬の隣に立つ姿が湖の水に映っているのほど、素朴で美しいものを見たことがなかった。

 

本書は「過酷だが美しい」「美しいが過酷だ」「貧しいが幸福に生きている」「富があるが苦しんでいる」といった複雑な声に満ちている。この語りを支えるのは、語り手の素直さと観察眼、そして彼の多様な立ち位置だ。

ジョゼは教育を受け、黒人小屋通りからただひとりバカロレア(フランスにおける大学入学資格を得る教育機関)に合格して、黒人少年としては例外的に「黒人小屋通り」以外の世界を目撃した。

ジョゼ少年は、自分が住んでいた世界以外を知ったうえで、黒人小屋通りとそこに住む人たちに親愛の情を向ける。彩り豊かな語りには、「誰も語らなかった黒人小屋通りについて自分が語ろう」とする意思がうかがえる。

 

著者はジョゼ少年と同じように高等教育を受けた後にフランスにわたり、第二次世界大戦中に本書を書いた。自分の土地を離れ、宗主国の言語で語ることについて、著者がどのような心境だったのかはわからない。だが、著者のように、フランス語で書くマルティニーク人がいなければ、世界はマルティニークに住む黒人たちの声を知る機会が遅れただろう。一方で、自分たちの言葉で語らずに外国語を使う文学者たち(総じて彼らはエリートだ)への批判があるのもわかる。

この白黒つけられない微妙さもまた、マルティニーク文学らしい。

 

Recommend:マルティニーク小説

アメリカ南部の黒人少女小説。『黒人小屋通り』が祝祭的な黒人社会だったのにたいして、『地下鉄道』は地獄としか言いようのない奴隷社会から少女が逃げ出す物語だ。過酷な物語だが、少女が誇り高い逃亡者なので、最後まであっというまに読んでしまう。

 

レザルド川

レザルド川

  • 作者: エドゥアールグリッサン,Edouard Glissant,恒川邦夫
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/12/01
  • メディア: 単行本
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同じくマルティニーク島生まれの作家による小説。『レザルド川』でももちろんマルティニークに住むムラートと黒人たちの世界は描かれるが、こちらではむしろマルティニークの美しい自然を賛美することに主眼が置かれている。思念で対話しながら川をくだるシーンは、ハンター×ハンター感があってよかった。

 

 同じくマルティニーク島出身の作家による「語り部」小説。こちらではマルティニークが誇る「語り手」文化に主眼が置かれる。ぱたっとぅ、さ! ええくりい! ええくらあ! といったクレオール語がふんだんに使われていて、声に出して読むと楽しい。

 

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

クレオールとは何か (平凡社ライブラリー (507))

  • 作者: パトリック・シャモワゾー,ラファエル・コンフィアン,西谷修
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2004/07/01
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 『素晴らしきソリボ』の作者による、クレオール文学の解説。エメ・セゼールによるネグリチュード(黒人文化を自覚する文学運動)、クレオール(黒人としてのアイデンティティよりはマルティニークにおける文化の混合に目を向ける運動)への歴史がまとまっている。

 

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

生命の樹―あるカリブの家系の物語 (新しい「世界文学」シリーズ)

 

 読みたい。マルティニーク島の隣グアドループでうまれた作家による、カリブ家系の年代記。今年に復刊される見込み。

『地下鉄道』コルソン・ホワイトヘッド|自分をすりつぶす場所から逃げよ

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。

――コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』

 

逃げることについて、私はわりと前向きな気持ちを抱いている種類の人間だ。家庭でも学校でも会社でも国でも、つらい場所に無理をして留まるより、息がしやすい場所へ行ったほうがいいと思っている。

逃げることをネガティブにとらえる人は、逃げたら負けだ、逃げたって変わらない、逃げた先でどうなるかわからないからリスクがある、と言うけれど、未来の不確定さやリスクよりも、つらい現状が予想どおり続いて変わらないことのほうが耐えがたい。

だから、逃げる人の話、特に前向きに逃げる人の話には惹かれ続けてきた。

地下鉄道

地下鉄道

 

 

時代は南北戦争以前、アメリカの深南部でうまれ育った少女奴隷コーラが、自由州の北部へ逃亡しようとする。

当時、黒人奴隷は白人のために生きる「財産であり、呼吸する資本金であり、肉体からなる利潤」で、奴隷の逃亡とその手助けは、財産の盗難であり犯罪だった。

しかもコーラは、最も過酷な州のひとつと言われるジョージア州でうまれ育った。深南部は奴隷を酷使をする文化土壌で、物理的にも北部から遠かった。なお悪いことに、コーラが働く農園の主人は残虐で、逃亡奴隷を八つ裂きにして見せしめにすることを楽しむ狂気の男だった。

この絶望的な環境では、奴隷が逃亡できる見込みはほとんどない。たとえ逃げられたとしても、奴隷狩り人があちこちに跋扈していて、見つかれば八つ裂きによる死が待っている。

「そういうふうに生まれついたの? 奴隷みたいに?」

だが、逃亡奴隷を支援する秘密組織「地下鉄道」が彼女のもとに現れる。「逃げ切ったただひとりの奴隷」を母に持つ少女コーラは、地下鉄道の助けを借りて、逃亡を決意する。

 

そして逃亡奴隷をめぐり、奴隷を逃亡させようとする「北部」と、奴隷を逃がすまいとする「南部」が激突する。

本書は、地下鉄道を追うことで、地下鉄道が貫く「アメリカ」そのものを描いている。

登場人物たちが北部へ突き進む姿は、アメリカの伝統芸能「ロード・ノベル」を踏襲している。逃亡によって登場人物たちは、法律や文化ががらりと変わる「州」、黒人の人権が正反対の「北部」「南部」をまたいで、「異なる国の集合体」であるアメリカを知ることになる。

「この国がどんなものか知りたいなら、わたしはつねにいうさ、鉄道に乗らなければならないと。列車が走るあいだ外を見ておくがいい。アメリカの真の顔がわかるだろう」 

読者は、地下鉄道のルートと逃亡者と追跡者を追うことで、アメリカめぐりをする。

もっとも、アメリカめぐりというよりは地獄めぐりに近い。逃亡の旅は流血と死にまみれ、たくさんの人が死んでいく。

こんな残酷な世界が、移動するだけで自分の生きる権利が激変してしまう世界がかつてあったのだ。

 

著者は歴史の事実をもとに想像力を駆使して、背景を書きこんでいる。また、登場人物たちもよい。コーラはじつに強い少女で、自分が人間であると確信している。その誇り高さと怒りが、彼女の壮絶な逃亡を支えている。きっとこれくらい自我が強くなければ、こんな逃亡はできない。彼女の独白や後悔はどれも切実で痛ましくて胸に迫り、中でも「心のノート」に名前を書き足していくシーンが好きだった。

 こんなにも家から離れたことはかつてなかったことだった。この瞬間に鎖に繋がれ連れ戻されたとしても、歩んできたこの数マイルは自分のものだ。  

たったひとりの反乱。コーラはしばし笑みを浮かべた。それから、独房にいるという事実がまたよみがえった。壁の隙間で鼠のようにもがきながら。畑にいようと地下にいようと、屋根裏部屋にいようと、アメリカは変わらず彼女の看守だった。

敵役としての奴隷狩り人リッジウェイは、『ブラッド・メリディアン』の判事(アメリカ文学で最もやばい男のひとり)を彷彿とさせる男で、奴隷を狩る自分を誇っている。

そしてもうひとり、ただひとり逃げ切った伝説を持つコーラの母がいる。彼女は不在でありながら、コーラとリッジウェイそれぞれに激しい感情を引き起こさせるトリガーだ。彼女の物語は短いが強烈で、読み終わったときは思わずうめいた。

 

逃げるとは、「現状維持による諦めと安心」と「未知に飛び込む希望と不安」との間で揺れて、後者を選ぶことだ。

たいていの人は、安心をとって現状維持を選ぶ。だが、現状維持の引力を振り切って、不安定な道を走る逃亡者たちがいる。彼ら逃亡者たちが、陰惨な時代を切り開く弾丸となり、その軌跡が残りの人たちを運ぶ道になる。私たちの歴史はそうやってつくられてきた。

彼らはもちろん傷つくし後悔するし迷うが、自分をすりつぶすことを良しとせず、振り切って逃げる。誇り高い逃亡者の物語だった。

「おれの主人は言った。銃を持った黒んぼより危険なのは、本を読む黒んぼだと。そいつは積もり積もって黒い火薬になるんだ!」

 

Recommend:南部の物語、逃げる物語

史実の「地下鉄道」で大活躍した伝説的な逃亡奴隷の伝記。コーラもなかなか強い少女だが、ハリエットは物理的な強さ&キャラの強さでさらにその上をいく。虫歯が痛すぎるので自分でたたき折るエピソードには仰天した。

 

ガリバー旅行記 (角川文庫)

ガリバー旅行記 (角川文庫)

 

 『地下鉄道』で、文字を読める黒人奴隷の少年が読んでいた。ガリバーの旅行が、逃亡奴隷の旅行(旅行といえるほど優雅なものではまったくないが)と重なっている。この角川版は訳が2011年と新しいので、新潮版(1951年訳)よりもだいぶ読みやすくなっている。

 

南北戦争よりずっと昔のアメリカでの残虐。入植した白人がインディアンを狩りまくる。奴隷狩り人リッジウェイを1000倍禍々しくした狂気の「判事」に震撼せよ。

 

南部といえば、フォークナーのヨクナパトーファ・サーガである。どちらも胃痛が爆発する系の沈鬱な南部だが、この血が燃える世界には驚愕するばかりだ。南部、南部、なんという土地なのか!

  

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

塩を食う女たち――聞書・北米の黒人女性 (岩波現代文庫)

 

コーラたち黒人奴隷の末裔である黒人女性が、どのようにして狂って残酷なアメリカを生き延びたのか。20世紀後半になっても彼女たちはずっと苦しい人生を強いられてきたことがわかる。

 

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

 

 退屈な日常から逃れて美術館に住み着いた悪ガキたちの逃亡物語。彼らのかっこいい逃亡が、私の逃亡の源泉となっている。いつだってこんなふうに、笑いながら逃亡したい。

『ハリエット・タブマン』上杉忍|モーゼと呼ばれた伝説の逃亡奴隷

逃亡者は先のことを何も知らずに自らを投げ出さねばならない。北斗七星と北極星のみを頼りにただひたすら先に進んだ。星が見えないときは、樹木の幹のこけの生えている側から北の方向を知って進んだ。彼女は、州というものがあること自体を知らなかった。

――上杉忍『ハリエット・タブマン』

「アメリカ人は、彼女を知ってはじめて奴隷制を理解する」――そんな賛辞を受けるアフリカ系アメリカ人女性がいる。

彼女の名前はハリエット・タブマン。逃亡した逃亡奴隷、何人もの奴隷を逃亡させた地下組織「地下鉄道」の担い手、奴隷解放運動家、黒人コミュニティの支援家だった。同胞を次々と逃亡させるその手腕は伝説となり、「黒人のモーゼ」と呼ばれていた。

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』を読んでから、秘密組織「地下鉄道」のことを知りたいと思い、ハリエット・タブマンにたどりついた。

ハリエット・タブマン 「モーゼ」と呼ばれた黒人女性

ハリエット・タブマン 「モーゼ」と呼ばれた黒人女性

 

 北南部と新南部

ハリエット・タブマンは1820〜21年ごろ、メリーランド州にうまれた。

南部といえば、フォークナーのヨクナパトーファ、ホワイトヘッド『地下鉄道』のような、過酷で残虐な南部を思い浮かべがちだが、同じ南部でも場所によって事情は違っている。

ヨクナパトーファ(ミシシッピ州)や『地下鉄道』(ジョージア州)で描かれる南部は「深南部」である。綿花プランテーションが主産業で、奴隷を働かせれば働かせるほど儲かった。

一方、タブマンが住んでいたメリーランド州は、南部の最北端に位置する「北南部」だった。北南部はタバコのプランテーションが主産業だったものの、過剰供給によりタバコ産業が衰退し、結果として「奴隷あまり」状態だった。

 

逃亡する奴隷たち

労働力があまりがちになった北南部では、「深南部への売却」「奴隷の貸し借り」「奴隷の解放」が進んだ。

「深南部への売却」は家族の分断を意味したため、黒人奴隷は売却をいやがって(当然だ)逃亡する動機が強まる。奴隷の貸し借りによって行動の自由度が与えられるため、逃亡のチャンスが増える。そして、解放された自由黒人は奴隷の逃亡を支援する。

こうして北南部では、奴隷が逃亡する「動機」「機会」「ネットワーク」が拡大していった。

これら「黒人奴隷の逃亡」と「自由黒人の増加」は、白人に危機感を抱かせた。黒人の数が増えれば、いつ形勢が逆転されて自分たちの地位が脅かされるかわからない。白人は暴力と法律によって、己の恐怖を押さえつけようとした。

タブマンが逃亡したのは、黒人の自由度が増して白人の締めつけが厳しくなる前で、ちょうど逃亡しやすい時だった。

逃げることは今でもそれなりのコストをともなうが、19世紀の奴隷が逃亡するのはは、想像を絶する難易度だったことだろう。地図もない、磁石もない、金もない、文字も読めない、裏切り者にいつあたるかもわからない状況で、何百キロも逃亡できるだろうか。「見つかったら殺される」と不安になって動けなくなったり、「奴隷で現状維持したほうが楽かもしれない」と期待したり、焦って失敗したりしても不思議ではない。事実、タブマンの周りにそういう人たちがたくさんいた。

逃亡者は先のことを何も知らずに自らを投げ出さねばならない。北斗七星と北極星のみを頼りにただひたすら先に進んだ。星が見えないときは、樹木の幹のこけの生えている側から北の方向を知って進んだ。彼女は、州というものがあること自体を知らなかった。

 

地下組織「地下鉄道」

黒人奴隷の逃亡を助ける組織「地下鉄道」は、逃亡奴隷、自由黒人、奴隷制に反対する白人たちのネットワークで成り立っていた。タブマンは白人クエーカー教徒にかくまわれて、次々と「駅」(隠れ家)を渡り歩いて、北部にたどりついた。

逃亡が成功したタブマンは、家族全員を北部に連れてくるため、10回以上も南部に戻り、一緒についてくる70〜80人近くの人を逃亡させた。 「脱線」(地下鉄道用語で失敗の意味)した人はひとりもおらず、その車掌(逃亡奴隷を手助けする人)としての手腕により、タブマンは伝説的な存在となった。

 

キャラが強すぎハリエット

タブマンがなぜ逃亡を成功させ続けられたのか。本人は「神の加護」だと言っていたようだが、本書では逃亡をすべて成功させた理由として「体力」「使命感」「人脈」「綿密な計画性」をあげている。

タブマンは野外労働を好んだため体力があり、「家族全員を南部から救い出して北部に逃がす」強い使命感があった。また労働をつうじて人脈があったため、情報を受け取りやすかった。そして、念入りな準備をして計画し、いくつかの逃亡パターンを入念に考えていたという。確かに、難しい計画を成功させるにはどれも必要な能力であり、神の加護や偶然と見なすよりも説得力がある。

とはいえ、伝説になる理由もよくわかる。彼女のキャラが濃すぎるのだ。彼女は精神も肉体も鋼のようで、行軍中に虫歯の激痛が耐えがたくなり、銃を使ってばきっと抜いて「すっきりした」と言い放ったという(周囲の男性たちは唖然としたらしい)。日本だったらまちがいなくタブマンは漫画化されていただろう。

 

逃亡は戦いである

「黒人」「女性」「奴隷」という、アメリカ社会で差別される属性を3つも持ちながらも、功績を残した生命力と信念には圧倒される。 

彼女を見ると思う、逃げることは戦いである。既得権益を守りたい人間たちは「平和な世に争いを持ち込む野蛮な人間」「法律破りのならず者」「負け犬」と、逃げたり戦ったりする者を貶めるが、そんな声に屈していたら、現代のアメリカはなかった。

ハリエット・タブマンは、2020年に出る新20ドル紙幣に、肖像が使われることになるようだ。これだけのことをやってのけたのだから当然といえば当然だが、ハリエットの紙幣が出たことを「ようやく」と言うべきか、「この時代によく出した」と言うべきか。

 

ハリエット・タブマンが映画化

ちょうど 「Harriet」が2019年11月アメリカにて映画化される。日本でも、これを機にハリエット・タブマンや地下鉄道が知られるようになるとよい。

 

Recommend

タブマンが参加した秘密組織「地下鉄道」を想像力を使って語りなおした本。タブマンみたいな超人が出てこないぶん、地下組織の危うさと命の危険さが切実だ。きっとこれも地下鉄道の一面なのだろう。

 

奴隷少女と白人少女が鬼と暮らしていた。そうしたら鬼になった。アメリカの黒人奴隷が逃亡するシーンが登場する。奴隷ではない人も奴隷も、どちらも優しさと鬼を抱えている、人間という度しがたい生き物についての恐るべき物語。

 

アメリカ黒人の歴史 (NHKブックス)

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  • 作者: ジェームス・M・バーダマン,森本豊富
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南北戦争の時代 19世紀 (岩波新書)

南北戦争の時代 19世紀 (岩波新書)

 

これまで小説の背景として描かれていた南北戦争と黒人奴隷の歴史を知るために読みたい。

『海の乙女の惜しみなさ』デニス・ジョンソン|地すべりしていく人の隣に座る

今になってみれば、これから生きる年数よりも、過去に生きた年数のほうが多い。これから楽しみにすることよりも、思い出すべきことのほうが多い。

――デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』

 

デニス・ジョンソンは、底に落ちた人生について、驚くべきフラットさで語る作家だと思う。彼はかつて麻薬常用者で、「いろいろなものを台なしになってしまった」と語るが、うまくやっている他者への妬み、自分をこんなにしてしまった人間への怒りは語らない。似た境遇にいる「社会不適合者」たちを激励したり、同族嫌悪を示したりもしない。

誇張せず、自虐せず、フラットに己の境遇を語ることは思いのほか難しい。どんな世界をくぐり抜けたらあの境地にたどりつくのだろうと途方に暮れる。

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

海の乙女の惜しみなさ (エクス・リブリス)

 

 

世界は回り続ける。これを書いているのだから、僕がまだ死んでいないことは明らかだろう。だが、君がこれを読むころにはもう死んでいるのかもしれない。

すべり落ちていく者の隣に座る作家が、老いて死んでいく人たちについて語る短編集だ。

『ジーザス・サン』でおなじみの麻薬常用者や刑務所あがりの人たちだけではなく、老人、病人、死んだ人たち、そして社会でそれなりに成功した老人(多くは作家、あるいはメディア関係、大学の人である)が登場する。『ジーザス・サン』では誰もが社会不適合者で、社会的地位がある人なんていなかったから、この変化にはすこし驚いた。著者がそれなりに社会的地位を得たからかもしれない。

だが、やはりデニス・ジョンソンはデニス・ジョンソンで、社会的地位があってもなくても、誰もが孤独と喪失と失望を抱えている。社会と関わりつつも距離を置いて生きている彼らは、同じように社会からはぐれた人たちと出会い、別れていく。

 

本書では、他者とのめぐりあいは、『ジーザス・サン』よりずっと「死と老いに近い場所」にある。訃報を聞き、葬式に参加して、見舞いに行くことで、語り手たちは他者と関わる。

表題「海の乙女の惜しみなさ」では、語り手はしばしば死のイベントをとおして他者と再会する。お互いに生きている時に出会ったのに、自分はまだ生きていて、相手はもう生きていない。この途方もない落差が、ドライなユーモアとともになんども反復される。

「そうです。自殺してしまったようで」

「どうやって死んだかは知りたくない。それは言わないでくれ」。正直言って、どうしてそんなことを言ったのか、今でもまったく想像がつかない。

死だけではなく、老いや病にまつわる描写も迫力がある。年をとり、社会的地位や認知は上がるが、体調や細胞や記憶はどんどん崩れていく。

 前も後も存在せず、夢の世界のように論理を欠いたその世界のただなかで、それを作り上げていたのは、リズの認知症と、リンクの麻酔薬による朦朧とした状態と糖尿病による血糖値の上昇、ときおり起こるインスリンによる精神病、そして血中の毒素、主にアンモニアが寄せては引くことによって繰り返される譫妄状態だった。

2つの短編集を読んで、ジョンソンは「地すべりしていく人たち」を描く作家なのだと感じた。『ジーザス・サン』では、麻薬常用者たちが社会からすべり落ちていき、『海の乙女の惜しみなさ』では、老いによって体調や細胞がどんどん崩れてこぼれ落ち、友人知人たちが死に向かって地すべりしていく。

そんな人たちの隣にジョンソンは座っていて、黙りながら一緒に地すべりしていく。よくわからないがなぜか近くにいて、なにもしてこない併走者としてのジョンソンは、どことなく妖怪に似ている。

 

デニス・ジョンソンの人たちは、重力のなすがまま、どんどん下へ下へと向かっていくのだが、それでも重苦しい後味を残さないのは、地すべりする人たちが時折はっとするような輝きをもって顔をあげて、笑いと光を放つからかもしれない。

彼らの目には、懐かしい人、会いたい人、大事な人、大事だった人、よく知らないけれど印象に残っている人たちが映っている。そんな様子をジョンソンはこう書いている。

「心の中にかぎ針があって、そこから伸びる糸が誰かの手につながっている」

いい文章だ。私もたまにかぎ針を思い出して、たぐり寄せる。きっと年をとったからだろう。さらに年をとったら、かぎ針には誰がつながっているだろうか?

今の俺としては、腹のなかに十五か十六本のかぎ針があって、そこから伸びる糸がずっと会ってない人たちの手に握られてるって感じで、その話もそんな糸のひとつなわけ。  

俺の心のなかに十本くらいのかぎ針があって、そこから伸びる糸をたどって書いてるんだ。俺がこれを誠心誠意やってて、ちょっとした助けを求めてるってことが、天にまします誰かさんに伝わってるといいんだけど、ここではっきりいっとくと、俺はひざまずいたりはしないからな。

 

収録作品

気に入った作品には*。

  • 海の乙女の惜しみなさ*
    広告代理店で勤務していた老年男性が、自分の人生を思い出しながら語っていく。偶然に出会った画家の知人の葬式とレシピ集のエピソード、最後の「海の乙女」が登場する文がよい。

  • アイダホのスターライト***
    すばらしく夢のある名前「スターライト」は、アルコール依存症治療センターの名前である。麻薬依存の苦しみと、家族友人知人ぜんぜん知らない人たちへの手紙という感情が、スターライトできらめく。本書のなかではいちばん好き。

  • 首絞めボブ*
    『ジーザス・サン』を思い出させる、刑務所にいた頃の話。刑務所は、軽犯罪者と殺人犯が一緒に暮らすため緊張感がただよう。殺人犯とともに暮らすスリルをブラックユーモアとともに描く。

  • 墓に対する勝利*
    中年の作家が、知り合いの老いた作家を見舞いにいったら、彼はすでに現実と妄想の区別がつかなくなっていた。病と老いの匂いが充満する作品で、介護をしていたころのあのにおいを思い出した。

  • ドッペルゲンガー、ポルターガイスト**
    エルヴィス・プレスリーの死んだ双子にまつわる陰謀論に執着する詩人の話。パラノイアなので、陰謀論の話は大好きだから楽しく読んだ。ドッペルゲンガーとポルターガイスト、ともに怪奇小説やゴシック小説でおなじみのモチーフが、現代的なモチーフと重なりながら、ラストに向かって直進する。

 

デニス・ジョンソンの著作レビュー

Recommend

聖書 新共同訳  新約聖書

聖書 新共同訳 新約聖書

 

地すべりしていく者たちの隣に座る姿勢は、ジーザス・クライストを思い起こさせる。キリスト教はいろいろな権力に使われたが、もともとの「弱者のための宗教」であったことを思い出す。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、魂が砕かれた者を救われる」は聖書の一文だが、ジョンソン作品の中にあってもおかしくはない(救われたい、にはなるだろうが)。

 

真顔でたんたんとユーモアを語るドライな語り口(真顔系ユーモア作家と呼んでいる)の雰囲気がなんとなく似ている。

 

『居心地の悪い部屋』岸本佐知子編|日常が揺れて異界になる

  Hにつねにつきまとっていた、あの奇妙な無効の感じを、どう言葉にすればわかってもらえるだろう。 

――岸本佐知子編『居心地の悪い部屋』

言葉は、未知の世界を切り開いて照らす光であり、既知の世界を異界に揺り戻す闇でもある。『居心地の悪い部屋』は、日常に闇をしたたらせる言葉、日常を異界に突き落とす言葉だけを集めた闇アンソロジーだ。

収録された12の短編どれから読んでも、もれなくそわそわして、背後を振り返りたくなる。編者は腕によりをかけて不安になる物語を集めたらしいから、「いやな後味」「具合が悪くなる」はきっと褒め言葉になるだろう。

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

居心地の悪い部屋 (河出文庫 キ 4-1)

 

 

収録作品はそれぞれ趣が異なるが、いくつかの共通点がある。

まず、暴力や死が練りこまれている話が多い。これはわかりやすい。身体的な安全が脅かされれば、心的安全が揺らいで不安になる。「ヘベはジャリを殺す」「チャメトラ」「あざ」「父、まばたきもせず」「潜水夫」「やあ!やってるかい!」では、殺人や事故や監禁などの暴力と、その結果としての死が背後にうごめいている。

ジャリのまぶたを縫い合わせてしまうと、ヘベはそこから先どうしていいかわからなくなった。

暴力がなくても、想定外のものや事象に対峙すれば不安になる。「あざ」「どう眠った?」「潜水夫」「ささやき」「オリエンテーション」「喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ」は、日常に想定外の異物がぬるりと入りこむ不安、自分の知っているルールや常識とは異なるものに対峙する不安を描いている。

そして、「理由がまったく分からない」状態を描いた作品たち。「ヘベはジャリを殺す」「父、まばたきもせず」「ケーキ」では奇怪な行動や暴力が描かれているが、彼らがなぜそのような行動をするのかがわからない。だから怖い。

わたしは丸々となりたかった、とても丸々と、なぜならわたしは丸々としていなかったから、だからわたしは何か手だてを、計画をたてようと思った。

「ヘベはジャリを殺す」「チャメトラ」「あざ」「分身」「ケーキ」など、幻影や悪夢めいたヴィジョンを描いた作品も多い。

 

限りなく自分の見知っているものに近いはずなのに、なにかがずれている。自分が知っている日常とよくわからない「それ」との落差が、不安と恐怖をうむ。

その感情は、部屋の床にあらわれた巨大な亀裂をのぞきこむ時みたいなものだ。隙間から落ちないとわかってるから楽しめるものの、うっかりすると落下しかねないので、摂取時にはお気をつけを。

 

 収録作品

気に入った作品には*。

  •  「ヘベはジャリを殺す」ブライアン・エヴンソン***
    最初の作品にこれを持ってくるところがすごい。タイトルどおりの話なのだが、親密な友情の話でもある。温かい友情の言葉と暴力は、ふつうなら相容れない。なのに一緒になっている。最後までほんとうに怖い。

  • 「チャメトラ」ルイス・アルベルト・ウレア***
    幻想の風味が強い作品。最後のシーンがすばらしく映像的でありながら映像化できないもので、まさに悪夢のヴィジョンと呼ぶにふさわしい。

  • 「あざ」アンナ・カヴァン*
    影のある同級生は、秘密を抱えているらしい。世の中でうごめいている暴力のルールに一瞬だけ触れてしまった恐怖をあざやかなヴィジョンとともに描く。

  • 「どう眠った?」ポール・グレノン*
    眠りを建築で表現する、奇想系。命が脅かされる不安はないので、本書のなかでは平和に読める。語っている内容は異様だが、マウンティングしあうあたりはものすごくリアルで、その落差がおもしろい。

  • 「父、まばたきもせず」ブライアン・エヴンソン*
    父がなぜこのような行動をするのか、その心が見えない恐ろしさ。乾いた心が、乾いた大地の描写と重なっていて、フアン・ルルフォのような読後感を与える。

  • 「分身」リッキー・デュコーネイ
    部屋に分身がいた話。掌編とも言える短さなうえ、奇想といえるほどではなかった。

  • 「オリエンテーション」ダニエル・オロズコ**
    入社オリエンテーションのテンプレート文章にのせて、いかれた企業の暴露話が続く。まったく仕事の話をしていないので笑った。しかし、オリエンテーションをきっちり受けていないと、この会社ではすぐに命が危なくなりそうだ。

  • 「潜水夫」ルイス・ロビンソン**
    ずうずうしい潜水夫に頼み事をせざるをえなくなったレストランオーナーの男が、潜水夫につられてどんどん逸脱していく「日常地すべり」系。暴力の衝動がおさえられなくなるあたりがリアル。

  • 「やあ!やってるかい!」ジョイス・キャロル・オーツ*
    一息でつないでいく文章が奇妙だが、「やあ!やってるかい!」と会う人会う人に声を掛ける男もそうとうにいかれている。しかし、世の中を見てみれば、こういう事件はありそうで、それもまた恐ろしい。

  • 「ささやき」レイ・ヴクサヴィッチ**
    本書のなかではいちばんの王道ホラー。王道だがやはり怖い。最後の1行で、ぎゃーとなった。

  • 「ケーキ」ステイシー・レヴィーン**
    ケーキを大量に並べるヴィジョン、パラノイア的な思考が、まったく理解できなくていい。

  • 「喜びと哀愁の野球トリビア・クイズ」ケン・カルファス
    えんえんとファールを打ち続ける選手の話など、普通ぽく見えて普通のルールからはかけ離れた野球の話が続く。野球をよく知っている人ならもっと楽しめるのかもしれない。

 

Recommend

暴力、死、不可解なルール、幻視、これらすべてを練りこんだイラク生まれの作家による短編集。脳髄が色とりどりの布とともに飛んでいく圧倒的なヴィジョンは、今も脳裏に残っている。

 

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)

遁走状態 (新潮クレスト・ブックス)

 

 『居心地の悪い部屋』で唯一、2作品が掲載されている作家の短編集。「へべはジャリを殺す」がすごかったのでこちらも読んでみたい。

 

収録されている「あざ」のひんやり感を極北までつきつめて、永久凍土に突っ込んだような小説。私は不可解かつ圧倒的な幻視をする小説が好きなのかもしれない。

 

『優しい鬼』レアード・ハント|傷つけられ続けて鬼になる

かんがえる力をつかってじぶんをどこかよその場所につれていくやり方はクリオミーとジニアから教わったのだった。……

「よその場所って?」とわたしは訊いた。

「そこでない場所どこでも」とジニアは言った。

「きれいな場所」とクリオミーが言った。

「あんたが踊ってみたい場所」

――レアード・ハント『優しい鬼』

 傷つけられ続けて鬼になる

人が鬼になる瞬間を見たことがある。その家には怒りに取り憑かれた鬼がいて、何年も家族を攻撃し続けていた。ある者は逃げ、ある者は倒れ、ある者は怒りを爆発させて鬼になった。新しくうまれた鬼は若くて強く、老いた鬼が攻撃すれば何倍もの火力でやり返したので、やがて老いた鬼は小さくなっていった。新しい鬼は怒り続け、やがて古い鬼と同じように他者を攻撃するようになった。その時、鬼は古くから生き続けていて、人から人へと受け継がれていくのだと知った。

優しい鬼

優しい鬼

 

むかしわたしは鬼たちの住む場所にくらしていた。わたしも鬼のひとりだった。 

舞台は南北戦争前のアメリカ中部。ケンタッキー州の人里離れた田舎に、鬼たちの住む場所があった。鬼の住む場所は楽園(パラダイス)と呼ばれていて、農場主である男性とその妻ジニー、奴隷男たちと奴隷女たちが住んでいた。

この楽園という名の閉鎖空間で、鬼が生まれては消えていく。 

奴隷制の世界において最も権力のある農場主ライナス・ランカスターは、最初の鬼としてふさわしく、一緒に暮らす人たちをあらゆる暴力で虐げる。

「鬼は恐ろしい、鬼でない者は優しい」といったわかりやすい二項対立の物語かと思わせておいて、『優しい鬼』というタイトルが示唆するとおり、白黒つけられない濃灰色の領域を進んでいく。

「ものごと、起きると決まったら泣いてもムダなのよ」 

 

文体はひらがなと平易な言葉の連なりで、ほとんどイノセントと言ってもいいぐらいなのだが、語られるのは、淡い夢心地の地獄である。

雲の上の王国、ヒナギクの王冠、祭りのキャンディゼリー、淡い陽光といった、悪に染まらないものたちが輝く世界で、悪がひたひたと水位を上げていく。目玉とキャンディゼリーが一緒くたに入ったガラス瓶のように、本書では甘い夢と悲惨が同居している。

夢心地の地獄を支えるのは、女たちの「声」だ。難しい言葉を知らない女たち(そういう時代だった)が、己の地獄を己の言葉で語る。弱い立場の者たちの重層的な語りが、本書を形づくる。

かんがえる力をつかってじぶんをどこかよその場所につれていくやり方はクリオミーとジニアから教わったのだった。……

「よその場所って?」とわたしは訊いた。

「そこでない場所どこでも」とジニアは言った。

「きれいな場所」とクリオミーが言った。

「あんたが踊ってみたい場所」

 

鬼がいる場所に不幸にも居合わせてしまった時に人間がどうなっていくかを、本書は描いている。

誰だって大事にされたいし、愛されたい。しかし、その願いがかなわず、他者から傷つけられ、自尊心を踏みにじられ続ければ、人は怒りと失望を抱えて鬼になる。鬼になりたくないなら、鬼のいる場所から逃げるか、鬼につぶされるしかない。

被害者と加害者の境界は思ったよりも曖昧で、かつての被害者が加害者になることも、かつての加害者が被害者になることもある。かつて優しかった人が鬼になることもあるし、鬼だった人が優しさを見せることもある。

人間は、優しさと悪のあいだで揺らぐ、曖昧で筆舌に尽くしがたい生き物だ。

だから本書は過去の歴史物語なんかではない。たしかに奴隷制度は終わった。でも、鬼をうむ制度は形を変えて生き延びていて、鬼は今もそこらじゅうにいる。

  「世界のありようですよ、かあさま。世界のありようですよ、ミス・ジニー」 

でも目たちはいまもここにある――それぞれがそれぞれのガラス瓶に浮かぶキャンディゼリー。 

 

Recommend:鬼の話、おぞましい楽園の話

地下鉄道

地下鉄道

 

 鬼につぶされるか、鬼になるか、鬼から逃げるか。この選択肢のうち「逃げる」を選んだ黒人奴隷少女の物語。『優しい鬼』で語られる「玉ねぎの物語」にもつうじる。現代と違い、当時は「逃げる」ことはすなわち「死」であった。

 

鬼がいる場所に住んでいた少年たちの物語。少年たちは、逃げるか、鬼になるか、鬼につぶされるかの選択を迫られる。

 

小説世界で最もおぞましい「楽園」といえば「夜みだ」だろう。『優しい鬼』はほんわか夢心地の悲惨だが、『夜みだ』は夢と悲惨がぐるぐるどろどろに溶け合っていて、ほんとうに心をなぎ倒してくる。

黒人たちが黒人のための「楽園」を作ろうとしたら、殺意が育って開花した。もしかしたら文学において、「楽園」と呼ばれる土地でほんとうに楽園ぽいものなんて、ないのではないか。

『私はすでに死んでいる』アニル・アナンサスワーミー|自分の体を「異物」と感じる人たち

「コタール症候群は、地球に立ちはだかる巨大な黒い壁みたいなもの。そこから土星をのぞこうとしても、見えるはずがないのです」

――アニル・アナンサスワーミー『私はすでに死んでいる』

 

「私は自分にとって永遠の異邦人である」と、アルベール・カミュは書いた。

自分が自分でないように思える、自分が別の“なにか”だと思える、自分の精神と体が分離している、自分はすでに死んでいる――こうした「自分がぶれている」感覚と体験はしばしば文学の中に描かれてきた。

これらの一部は作家が想像力を飛翔させてつくりだしたものだろうが、実在する症例もある。本書は、これまで私が「幻想」として読んでいたものを、驚くべき症例、信じがたい証言とともに、「神経学」の視点から切り拓いていく。

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

私はすでに死んでいる――ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳

 

 

サイエンス誌の編集者である著者は、「自分が自分だと思えない」さまざまな症例を紹介している。

たとえば「コタール症候群」は「自分はすでに死んでいる」と思い込む現象だ。コタール症候群の人たちは、医者から医学的な証拠を突きつけられても「脳みそが腐っている」「自分は死んでいる」と思い込む。医者との会話はどれもシュールきわまりない。

「つまりきみの精神は生きているというわけだね」ゼーマンは言う。

「そうです。精神は生きています」

「精神と脳は密接に結びついているのだから、脳も生きているのでは?」ゼーマンは核心に迫った。

だがグレアムはその手には乗らない。「いやいや、精神は生きていても脳は死んでいます。自殺未遂をしたあの浴槽で死んだんです」

 コタール症候群はめずらしいため研究が進んでいないが、患者の多くは重度のうつ病にあること、そして「自分は存在してはいけない」といった強い罪悪感があるという。

 

「脳が死んでいる」と同じぐらい驚いたのが、「自分の足は自分のものではない、切断したい」と考える人たちだ。自分の四肢を自分のものではないと思いこむ症状は、身体完全同一性障害(BIID)と名がついていて、患者の何割かは実際に足を切断する。 著者は、あるBIDDの男性が闇医者に依頼して足を切断しようとする話を紹介している。「足を切断する」ことへの感情が、あまりにも自分のものと違いすぎて、呆然としてしまう。

「この足とおさらばするためにはどんな方法がある? 何を、どうすればいい? でもそのために命を落とすのはいやだ」切断者の写真を見たり、道で切断者を見かけたりすると、衝動が高ぶってしかたがない。「そのことで頭がいっぱいになる。数日間は、どうやって足をなくすかということしか考えられない」

 

アルツハイマーや多重人格、ドッペルゲンガー、幽体離脱といった、おなじみの話もある。

ポーやスティーブンスンなど多くの小説で目にする「ダブル(分身)」は、「自己像幻視」で、神経学の観点から見れば「感覚の統合が脳でつまづいた状態」だ。

ドストエフスキー作品おなじみの症状も登場する(へ!へ!へ!ではない)。ドストエフスキーは『白痴』のムイシュキン公爵など、恍惚の発作を起こす人物を描いていて、その描写は「恍惚」の症状をきわめて的確にとらえているという。しかもドスト風「世界と自分が一体化した幸福感」は、医学的な刺激によって再現できるらしい。つまり、実験に協力すれば、誰もがドストエフスキーになって、へ!へ!へ!できるということか。なんていい時代になったんだ。

 

著者は、自分が自分だと感じられない人々の症例をとおして、「なぜ人は自分を自分だと認識するのか」を探りだそうとする。

身体と脳は密接に結びついていて、全身を「所有している感覚」が「自分は自分である」と感じる自己につながっている。身体から受ける情報を脳内でうまく統合できれば「自己」感覚が満たされるが、統合がうまくいかないと「自己」からはぐれて「自分が自分でない」と感じるようになる。

自己や精神は「確固としたもの」でも「身体より優れたもの」でもなく、「脳が刺激に反応してうまれる感覚」にすぎない。「身体と精神」といった西洋的な二元論ではない、もっと混然としてあいまいな「自己」を著者は提示する。

 

幻想文学の領域を、科学のランタンを手にして歩き、最後には「私はなぜ私なのか」という哲学の問いにもぐりこむ、じつに刺激的な読書だった。著者が文学好きなのか、ときおり文学話が出てくるところもよい。「自分が自分でない」と感じる文学を読む視点が多彩になりそうで、楽しみだ。

 

 

Recommend

火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者 (ハヤカワ文庫NF)

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妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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「驚異的な言動をする人たちのノンフィクション」といえばオリヴァー・サックス。2人ともとても興味深い事例を紹介してくれる点は同じだが、アナンサスワーミーはもっと相対した人たちへの感情をよく描いているように思う(サックスは医者で、アナンサスワーミーは編集者だからかもしれないが)

 

黒猫・アッシャー家の崩壊 ポー短編集? ゴシック編 (新潮文庫)

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 分身小説の元祖「ウィリアム・ウィルソン」が収録されている。あらためて読み直したい。

 

白痴 1 (河出文庫)

白痴 1 (河出文庫)

 

 善良なるムイシュキン公爵の恍惚シーンは、神経学の観点から見ても「現実の症状によく似ている」らしい。帝政ロシアはみんなへ!へ!へ!なのかと思っていたら、別にそうでもなかったようで。

 

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

ウェイクフィールド / ウェイクフィールドの妻

 

 ボルヘスが大好きな「ウェイクフィールド」もまた別の作法で「自分を自分から分離させた人」なのかもしれない。

 

『酸っぱいブドウ/はりねずみ』ザカリーヤー・ターミル|シリアを生き抜く鬼火

ファーリス・マウワーズは頭なしで生まれた。彼の母は泣き、医者は恐怖のあまり息を呑んだ。彼の父は恥じ入って壁際に身を寄せ、看護師たちは病院のベランダへと散り散りになった。

だが医師たちの予想に反してファーリスは死なず、長生きした。何も見ず、何も聞かず、何も喋らず、不平を漏らすことも働くこともなく。多くの人は彼を羨み、あれは損より得することのほうが多いだろうと言った。ファーリスは飽くことなく待っているのだ。頭なしで生まれる女を。巡り合って新しい人類を生み出すために、長く待たずにすめばいいと思いながら。

――ザカリーヤー・ターミル『酸っぱいブドウ/はりねずみ』

 

ぱっと現れては消える鬼火を集めたような小説だ。

シリアの作家による超短編小説である。超短編小説といえば、バリー・ユアグローやダニイル・ハルムスといった作家を想起するが、本書はむしろそれら超短編よりも『遠野物語』などの伝承を思わせる。

ある土地にまつわる出来事が、現実と奇想を織り交ぜて語られる。どれも数ページあるいは数行で終わる物語の断片で、現れては消えていく。印象に残る話、読んだ端から忘れる話、なにもわからず途方にくれる話とさまざまだ。断片を拾い集めていくと、やがて土地、土地に住む人間たちの感情、土地を守り縛る規範が見えてくる。

酸っぱいブドウ/はりねずみ (エクス・リブリス)

酸っぱいブドウ/はりねずみ (エクス・リブリス)

 

 

「酸っぱいブドウ」では、シリアのどこかにある架空の町、クワイク地区で起きる出来事が語られる。クワイク地区はいわゆる修羅の町で、「金が入るとなれば自分の母親でも殺す金持ち連中」と「窓ガラスを見ればもれなく医師を投げて割ったりするガキども」で悪名高い。

クワイク地区の人々は暴言、暴力、死、殺人、強盗、強姦をつうじて他者と関わり、愛や喜び、信頼といった感情はほとんど語られない。

頭なしで生まれる男、空を飛ぶ馬、男が精力的になる魔法の錠剤、発言のたびに殴ってくる不可視の手など、さまざまな奇想が登場するが、その背後には巨躯の不穏が見え隠れする。

この不穏はボラーニョの作品を思い出させるもので、おそらく独裁政権による抑圧を示唆しているのだろう。 『酸っぱいブドウ』『はりねずみ』どちらもシリア内戦前の作品だが、内戦前から不穏が渦巻いていたと思われる。

するといきなり痛烈な平手打ちを首筋に食らった。彼は辺りを見回したが、殴った人を見なかった。

次に殴られたのは、おあるお金持ちに「あなたは我が国が生んだ最大の人物ですね」といったときだった。彼は殴った人を見なかった。 

その次は、長いもじゃもじゃひげを蓄えた男の手にうやうやしく接吻し、祈ってもらおうとしたときだった。彼は殴った人を見なかった。 

 

「酸っぱいブドウ」は大人たちの物語で誰もが物言わず抑圧のルールに従っている。「はりねずみ」は6歳の少年による物語のためか、より率直に「見てはいけない」「語ってはいけない」現実を直視している。

僕たちは広場についた。…処刑された男がぶら下がっている。…処刑された男は真っ青な顔で、口から舌を垂らしていた。みんなは満面の笑みでそのまわりにいた。僕は目を瞑った。

歩いている途中、僕は小さな男の子が泣きながら歩道に立っているのを見た。誰もなぜ泣くのか尋ねない。僕は目を瞑った。

歩いている途中、僕は十歳くらいの女の子が気を失って学校の鞄も持たずに病院に運ばれていくのを見た。僕は目を瞑った。

 

訳者によれば本書は寓話的で、言論統制が厳しいシリアでも出版できるよう、メタファーを駆使して描かれているという。それゆえ、なにを書いているのか想像できるものもあるし、できないものもある。執筆することで命の危険にさらされる環境に、私は生きていたことがないから、たくさん見落としているものがあるのだろう。それでも、言論統制をくぐり抜け書こう、わかる人にはわかるように書こうとする著者の意思は伝わってくる。

内戦によって、本書に描かれたシリア、オレンジの木とレモンの木が香りスーク(市場)がにぎわうシリアは破壊された。友人の家族が住んでいたため、いつか訪れたいと思っていた国だった。いい国だ、ほんとうにいい国だよ、と彼は言っていた。友人が写真で見せてくれたあのシリアの土を踏みしめたかったが、もうそれはかなわない。本書を読んでいるあいだにボルタンスキー展を訪れたからだろうか、鬼火のような物語群はまるで失われた町で明滅する影絵のように思えた。

 

Recommend

個人的にはハルムスのようなバカバカしいユーモアが炸裂する作家が好きなので、ターミルの作品は笑いの要素が少なかった。

 

 イラクの作家が描く、幻想が飛び交う殺戮のヴィジョン。『死体展覧会』のほうがより奇想度と臓物度が高い。

ピノチェトの独裁政権下で沈黙を守り、抑圧に従った詩人の独白。「自分は悪くない」と言い続け、抑圧についてはなにひとつ語らずに沈黙を守ろうとする。「饒舌な沈黙」文学。

独裁の抑圧下で「なにが語られないのか」をかいま見れる本。チリのピノチェト政権から亡命した作家が、言論統制の外から抑圧を語る。ボラーニョが周囲を描くことで悪を浮かび上がらせるのにたいして、ドルフマンはまっすぐな言葉でピノチェトの悪を語る。

『セミ』ショーン・タン|雇われ人の心をえぐる社員ゼミ

しごと ない。 家ない。 お金 ない。 トゥク トゥク トゥク! 

――ショーン・タン『セミ』

 

鮮やかだ。あらゆる意味で鮮やかな書物である。

 

夏だからセミの話をする。主人公はセミだ。大企業でまじめに働いている。だが、報われない。灰色のスーツを着て、灰色のオフィスに勤めるセミの人生は灰色だ。会社と他の従業員にこき使われて、まともな扱いをされない。セミの語り口はあくまでユーモラスだが、現状は厳しい。

セミ

セミ

 

 

 セミの問題は、人間が抱えている問題そのものだ。彼は人間のように働くのに、人間でないから差別を受ける。読者はセミに共感トゥクトゥク、心配トゥクトゥクする。

セミはわれわれであり、われわれはセミである。そんな気持ちにさせられる。

セミと自我の境が曖昧になったところで、鮮やかなラストに出会う。1ページで世界が跳躍して価値観が変わる。

最後まで読み終わった時、解放感と驚嘆と喜びと沈鬱が一緒になって感情が大変なことになって、仕事と人間を辞めたくなった。仕事でつらい雇われ人の心をえぐる、恐るべき絵本。トゥク トゥク トゥク!

 Recommend

アライバル

アライバル

 

 緻密な精密画とかわいい謎生き物にときめく、セリフのない漫画。ショーン・タンが描く人生は異邦人のつらさ、世界になじめないつらさで、順風満帆とは言いがたい。それでもいつも最後には救われる。

 

人間は虫になり、虫は人間になる。虫と人間の境目がとことん曖昧になった、ロシアのユーモア小説。この鮮やかな切り替わりは、小説ならではだと思う。

 

蟲の神

蟲の神

 

ショーン・タンとは対照的に、救いがなく突き放されて呆然とするのがエドワード・ゴーリーだ。同じ虫の童話(童話?)でも、絶望的なまでに後味が違う。小さい頃に読んだらトラウマになりそうだが、実際はどうなのだろう。

 

『洪水の年』マーガレット・アトウッド|暗黒企業、エコカルト、世界の終末

光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。

――マーガレット・アトウッド『洪水の年』 

 

巨大企業、エコカルト、世界の終末

旧約聖書の物語「ノアの洪水」は、世界滅亡の話だ。世界を150日間の洪水が襲って、箱船に乗ったノア夫婦と動物以外はすべてが死んだ。

いま私たちが生きる世界は、おそらく洪水だけでは滅亡しない。だが、目に見えない「水なし洪水」がきたらどうだろうか?

洪水の年(上)

洪水の年(上)

 
洪水の年(下)

洪水の年(下)

 

 

マッドアダム三部作、第1作

 

「マッドアダム三部作」の第2作である本書は、「水なし洪水」によって人類が滅亡するまでの物語である。 『オリクスとクレイク』と同じ世界の話ではあるものの、前作とは独立した登場人物のため、どちらから読み始めてもかまわない。

『オリクスとクレイク』では巨大企業と特権階級の物語が語られた。『洪水の年』は「平民」女性と、「神の庭師」と呼ばれるエコ宗教集団にまつわる物語だ。

 

  <水なし洪水>が破壊と同時に浄化をもたらし、世界中が今や新しいエデンでありますように。今はまだ新しいエデンではなくとも、間もなくそうなりますように。

語り手はトビーとレン、ふたりの女性だ。どちらも「神の庭師」に所属している。どちらの人生もそれぞれに過酷で、周囲に振り回されている。だが、彼女たちはやがて人生を自分で動かしていく。搾取してくるものから逃れ、前を向いて、自分の力と頭を使ってタフに生き延びる。

 アダム一号はよく言っていた。波を止められないのなら、船で行けばいい。修復不可能なものでも、まだ使えるかもしれない。光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。つまり、悪いことにも何かしら良い面がある、挑戦を引き起こすから。

2人の女性がシビアな現実を生き延びるサバイバルストーリーとしておもしろいが、他にも見どころがある。

まず、最大の謎――なぜ人類が滅亡したのか、背景にうごめく力と思惑はなんだったのか――がじょじょに見えてくる展開がうまい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』2つの側面から見ると、陰にうごめいていた力が明らかになる(この2作では全貌は明らかにならない、おそらく第3作ですべてがつながるのだろう)。

世界観もよく作りこまれている。なんの肉を使っているかがわからない「シークレットバーガー」、極悪囚人たちが互いに殺し合うショー型監獄を生中継する番組、大企業の製品を使って自己改造する美容クリニック、臓器を提供するために改造されたブタ、それらすべてを取り仕切っている大企業コープセコー。

これらの細部はどれも現実の延長線にある。私たちの世界では倫理がかろうじて勝って留まっているだけで、いつこうなってもおかしくないものばかりだ。違う世界戦の話なのにどれも見覚えがあって、くらくらする。 

そして「神の庭師」たちも、いかにもありそうなエコ宗教だが、どこか不穏だ。彼らの説話はキリスト教をモチーフにしていて、平和主義のように見えるが、穏やかな言葉の裏には巨大な不穏がちらついている。だんだん言っていることが歪んできて、後半になるにつれて緊張感が高まってくる。

捕食獣の日に私たちが瞑想するのは、<第一級捕食者>としての神の面です。急で激しい神の顕現。そんな<力>の前での、人間の小ささと恐怖心、私たちの<ねずみ性>とでも申しましょうか。壮麗な<光>の中で個が消滅させられる感じです。

 ……食べるのと食べられるのとでは、どちらがより恵まれているでしょうか? 逃げるのと追うのでは? 与えるのと与えられるのでは? これらは本質的には同じ質問です。このような質問はあもうすぐ仮定のものではなくなります。どんな<第一級捕食獣たち>が外をうろついているか、わからないからです。

 

アトウッドの魅力は、大きい物語のうねりと謎、細部の作りこみがどちらもうまく、かつ現代に生きる私たちが「自分の物語になりうるかもしれない」と思わせる現実味にあると思う。

登場人物もいい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』ではともに、社会的地位がなく権力者にとって価値がない人たちがタフに生き延びようとする。その姿がまぶしい。 

じつに胃が痛くなる世界で、私などはとても生き延びられる気がしないが、彼女たちは暗黒に塗りつぶされた世界で、全力でダンスする。たとえ観客が誰もいなくても、死がそこら中に転がっていても、彼女たちのために彼女たちはダンスして闇の中で笑う。なんと人間だろうか。そういう描写が私はとても好きだ。

 アダムたちとイヴたちはよく言っていた。“私たちは自分たちが食べたものからできている”って。でも私が言いたいのは、“私たちは自分たちが望むものからできている”ということ。もし希望を持てないのなら、何をしたって無駄でしょ。

 

 マッドアダム三部作、第1作


マーガレット・アトウッドの著作レビュー

 

Recommend

人類が絶滅するまであと少しのアメリカ・ロード小説。おぞましい暴力と純粋な子供のコントラストが極北すぎて脳の混乱が起きる、すさまじい小説。

旧約聖書を知っていますか

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新約聖書を知っていますか (新潮文庫)

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 マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。