『酸っぱいブドウ/はりねずみ』ザカリーヤー・ターミル|シリアを生き抜く鬼火
ファーリス・マウワーズは頭なしで生まれた。彼の母は泣き、医者は恐怖のあまり息を呑んだ。彼の父は恥じ入って壁際に身を寄せ、看護師たちは病院のベランダへと散り散りになった。
だが医師たちの予想に反してファーリスは死なず、長生きした。何も見ず、何も聞かず、何も喋らず、不平を漏らすことも働くこともなく。多くの人は彼を羨み、あれは損より得することのほうが多いだろうと言った。ファーリスは飽くことなく待っているのだ。頭なしで生まれる女を。巡り合って新しい人類を生み出すために、長く待たずにすめばいいと思いながら。
――ザカリーヤー・ターミル『酸っぱいブドウ/はりねずみ』
ぱっと現れては消える鬼火を集めたような小説だ。
シリアの作家による超短編小説である。超短編小説といえば、バリー・ユアグローやダニイル・ハルムスといった作家を想起するが、本書はむしろそれら超短編よりも『遠野物語』などの伝承を思わせる。
ある土地にまつわる出来事が、現実と奇想を織り交ぜて語られる。どれも数ページあるいは数行で終わる物語の断片で、現れては消えていく。印象に残る話、読んだ端から忘れる話、なにもわからず途方にくれる話とさまざまだ。断片を拾い集めていくと、やがて土地、土地に住む人間たちの感情、土地を守り縛る規範が見えてくる。
「酸っぱいブドウ」では、シリアのどこかにある架空の町、クワイク地区で起きる出来事が語られる。クワイク地区はいわゆる修羅の町で、「金が入るとなれば自分の母親でも殺す金持ち連中」と「窓ガラスを見ればもれなく医師を投げて割ったりするガキども」で悪名高い。
クワイク地区の人々は暴言、暴力、死、殺人、強盗、強姦をつうじて他者と関わり、愛や喜び、信頼といった感情はほとんど語られない。
頭なしで生まれる男、空を飛ぶ馬、男が精力的になる魔法の錠剤、発言のたびに殴ってくる不可視の手など、さまざまな奇想が登場するが、その背後には巨躯の不穏が見え隠れする。
この不穏はボラーニョの作品を思い出させるもので、おそらく独裁政権による抑圧を示唆しているのだろう。 『酸っぱいブドウ』『はりねずみ』どちらもシリア内戦前の作品だが、内戦前から不穏が渦巻いていたと思われる。
するといきなり痛烈な平手打ちを首筋に食らった。彼は辺りを見回したが、殴った人を見なかった。
次に殴られたのは、おあるお金持ちに「あなたは我が国が生んだ最大の人物ですね」といったときだった。彼は殴った人を見なかった。
その次は、長いもじゃもじゃひげを蓄えた男の手にうやうやしく接吻し、祈ってもらおうとしたときだった。彼は殴った人を見なかった。
「酸っぱいブドウ」は大人たちの物語で誰もが物言わず抑圧のルールに従っている。「はりねずみ」は6歳の少年による物語のためか、より率直に「見てはいけない」「語ってはいけない」現実を直視している。
僕たちは広場についた。…処刑された男がぶら下がっている。…処刑された男は真っ青な顔で、口から舌を垂らしていた。みんなは満面の笑みでそのまわりにいた。僕は目を瞑った。
歩いている途中、僕は小さな男の子が泣きながら歩道に立っているのを見た。誰もなぜ泣くのか尋ねない。僕は目を瞑った。
歩いている途中、僕は十歳くらいの女の子が気を失って学校の鞄も持たずに病院に運ばれていくのを見た。僕は目を瞑った。
訳者によれば本書は寓話的で、言論統制が厳しいシリアでも出版できるよう、メタファーを駆使して描かれているという。それゆえ、なにを書いているのか想像できるものもあるし、できないものもある。執筆することで命の危険にさらされる環境に、私は生きていたことがないから、たくさん見落としているものがあるのだろう。それでも、言論統制をくぐり抜け書こう、わかる人にはわかるように書こうとする著者の意思は伝わってくる。
内戦によって、本書に描かれたシリア、オレンジの木とレモンの木が香りスーク(市場)がにぎわうシリアは破壊された。友人の家族が住んでいたため、いつか訪れたいと思っていた国だった。いい国だ、ほんとうにいい国だよ、と彼は言っていた。友人が写真で見せてくれたあのシリアの土を踏みしめたかったが、もうそれはかなわない。本書を読んでいるあいだにボルタンスキー展を訪れたからだろうか、鬼火のような物語群はまるで失われた町で明滅する影絵のように思えた。
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個人的にはハルムスのようなバカバカしいユーモアが炸裂する作家が好きなので、ターミルの作品は笑いの要素が少なかった。
イラクの作家が描く、幻想が飛び交う殺戮のヴィジョン。『死体展覧会』のほうがより奇想度と臓物度が高い。
ピノチェトの独裁政権下で沈黙を守り、抑圧に従った詩人の独白。「自分は悪くない」と言い続け、抑圧についてはなにひとつ語らずに沈黙を守ろうとする。「饒舌な沈黙」文学。
独裁の抑圧下で「なにが語られないのか」をかいま見れる本。チリのピノチェト政権から亡命した作家が、言論統制の外から抑圧を語る。ボラーニョが周囲を描くことで悪を浮かび上がらせるのにたいして、ドルフマンはまっすぐな言葉でピノチェトの悪を語る。
『セミ』ショーン・タン|雇われ人の心をえぐる社員ゼミ
しごと ない。 家ない。 お金 ない。 トゥク トゥク トゥク!
――ショーン・タン『セミ』
鮮やかだ。あらゆる意味で鮮やかな書物である。
夏だからセミの話をする。主人公はセミだ。大企業でまじめに働いている。だが、報われない。灰色のスーツを着て、灰色のオフィスに勤めるセミの人生は灰色だ。会社と他の従業員にこき使われて、まともな扱いをされない。セミの語り口はあくまでユーモラスだが、現状は厳しい。
セミの問題は、人間が抱えている問題そのものだ。彼は人間のように働くのに、人間でないから差別を受ける。読者はセミに共感トゥクトゥク、心配トゥクトゥクする。
セミはわれわれであり、われわれはセミである。そんな気持ちにさせられる。
セミと自我の境が曖昧になったところで、鮮やかなラストに出会う。1ページで世界が跳躍して価値観が変わる。
最後まで読み終わった時、解放感と驚嘆と喜びと沈鬱が一緒になって感情が大変なことになって、仕事と人間を辞めたくなった。仕事でつらい雇われ人の心をえぐる、恐るべき絵本。トゥク トゥク トゥク!
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緻密な精密画とかわいい謎生き物にときめく、セリフのない漫画。ショーン・タンが描く人生は異邦人のつらさ、世界になじめないつらさで、順風満帆とは言いがたい。それでもいつも最後には救われる。
人間は虫になり、虫は人間になる。虫と人間の境目がとことん曖昧になった、ロシアのユーモア小説。この鮮やかな切り替わりは、小説ならではだと思う。
ショーン・タンとは対照的に、救いがなく突き放されて呆然とするのがエドワード・ゴーリーだ。同じ虫の童話(童話?)でも、絶望的なまでに後味が違う。小さい頃に読んだらトラウマになりそうだが、実際はどうなのだろう。
『洪水の年』マーガレット・アトウッド|暗黒企業、エコカルト、世界の終末
光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。
――マーガレット・アトウッド『洪水の年』
巨大企業、エコカルト、世界の終末
旧約聖書の物語「ノアの洪水」は、世界滅亡の話だ。世界を150日間の洪水が襲って、箱船に乗ったノア夫婦と動物以外はすべてが死んだ。
いま私たちが生きる世界は、おそらく洪水だけでは滅亡しない。だが、目に見えない「水なし洪水」がきたらどうだろうか?
マッドアダム三部作、第1作
「マッドアダム三部作」の第2作である本書は、「水なし洪水」によって人類が滅亡するまでの物語である。 『オリクスとクレイク』と同じ世界の話ではあるものの、前作とは独立した登場人物のため、どちらから読み始めてもかまわない。
『オリクスとクレイク』では巨大企業と特権階級の物語が語られた。『洪水の年』は「平民」女性と、「神の庭師」と呼ばれるエコ宗教集団にまつわる物語だ。
<水なし洪水>が破壊と同時に浄化をもたらし、世界中が今や新しいエデンでありますように。今はまだ新しいエデンではなくとも、間もなくそうなりますように。
語り手はトビーとレン、ふたりの女性だ。どちらも「神の庭師」に所属している。どちらの人生もそれぞれに過酷で、周囲に振り回されている。だが、彼女たちはやがて人生を自分で動かしていく。搾取してくるものから逃れ、前を向いて、自分の力と頭を使ってタフに生き延びる。
アダム一号はよく言っていた。波を止められないのなら、船で行けばいい。修復不可能なものでも、まだ使えるかもしれない。光がなければ、望みはないが、闇がなければ、ダンスはない。つまり、悪いことにも何かしら良い面がある、挑戦を引き起こすから。
2人の女性がシビアな現実を生き延びるサバイバルストーリーとしておもしろいが、他にも見どころがある。
まず、最大の謎――なぜ人類が滅亡したのか、背景にうごめく力と思惑はなんだったのか――がじょじょに見えてくる展開がうまい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』2つの側面から見ると、陰にうごめいていた力が明らかになる(この2作では全貌は明らかにならない、おそらく第3作ですべてがつながるのだろう)。
世界観もよく作りこまれている。なんの肉を使っているかがわからない「シークレットバーガー」、極悪囚人たちが互いに殺し合うショー型監獄を生中継する番組、大企業の製品を使って自己改造する美容クリニック、臓器を提供するために改造されたブタ、それらすべてを取り仕切っている大企業コープセコー。
これらの細部はどれも現実の延長線にある。私たちの世界では倫理がかろうじて勝って留まっているだけで、いつこうなってもおかしくないものばかりだ。違う世界戦の話なのにどれも見覚えがあって、くらくらする。
そして「神の庭師」たちも、いかにもありそうなエコ宗教だが、どこか不穏だ。彼らの説話はキリスト教をモチーフにしていて、平和主義のように見えるが、穏やかな言葉の裏には巨大な不穏がちらついている。だんだん言っていることが歪んできて、後半になるにつれて緊張感が高まってくる。
捕食獣の日に私たちが瞑想するのは、<第一級捕食者>としての神の面です。急で激しい神の顕現。そんな<力>の前での、人間の小ささと恐怖心、私たちの<ねずみ性>とでも申しましょうか。壮麗な<光>の中で個が消滅させられる感じです。
……食べるのと食べられるのとでは、どちらがより恵まれているでしょうか? 逃げるのと追うのでは? 与えるのと与えられるのでは? これらは本質的には同じ質問です。このような質問はあもうすぐ仮定のものではなくなります。どんな<第一級捕食獣たち>が外をうろついているか、わからないからです。
アトウッドの魅力は、大きい物語のうねりと謎、細部の作りこみがどちらもうまく、かつ現代に生きる私たちが「自分の物語になりうるかもしれない」と思わせる現実味にあると思う。
登場人物もいい。『オリクスとクレイク』『洪水の年』ではともに、社会的地位がなく権力者にとって価値がない人たちがタフに生き延びようとする。その姿がまぶしい。
じつに胃が痛くなる世界で、私などはとても生き延びられる気がしないが、彼女たちは暗黒に塗りつぶされた世界で、全力でダンスする。たとえ観客が誰もいなくても、死がそこら中に転がっていても、彼女たちのために彼女たちはダンスして闇の中で笑う。なんと人間だろうか。そういう描写が私はとても好きだ。
アダムたちとイヴたちはよく言っていた。“私たちは自分たちが食べたものからできている”って。でも私が言いたいのは、“私たちは自分たちが望むものからできている”ということ。もし希望を持てないのなら、何をしたって無駄でしょ。
マッドアダム三部作、第1作
マーガレット・アトウッドの著作レビュー
- 『侍女の物語』:Huluで話題になったディストピア作品。
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人類が絶滅するまであと少しのアメリカ・ロード小説。おぞましい暴力と純粋な子供のコントラストが極北すぎて脳の混乱が起きる、すさまじい小説。
マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。
『オリクスとクレイク』マーガレット・アトウッド|人類の絶滅神話を語る、世界最後の男
“エクスティンクタソン(絶滅マラソン)。モニターはマッドアダム。アダムは生ける動物に名前をつけた。マッドアダムは死んだ動物に名前をつける。プレーしますか?”
――マーガレット・アトウッド『オリクスとクレイク』
人類の絶滅神話を語る、世界最後の男
罪深い人類が絶滅した世界はエデンだろうか? それとも地獄だろうか?
装丁に使われているボッシュの絵画「快楽の園」には、左に「エデンの園」、中央に「エデンから追放された者たちが性的快楽を求める現世」、右に「地獄」が描かれている。
胃痛エンタメの大御所、マーガレット・アトウッドは、このすべてをとてつもなくえぐい形で「マッドアダム三部作」に書きこんだ。
- 作者: マーガレット・アトウッド,Margaret Atwood,畔柳和代
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/12/17
- メディア: 単行本
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本書は、マッドアダム三部作(『オリクスとクレイク』『洪水の年』『マッドアダム』)の第一作である。『侍女の物語』で女性にとってのディストピアを描いたアトウッドは、人類すべてにとってのディストピアをうみだした。
語り手の名前はスノーマン。人類が滅亡した後の世界でひとり生き残った旧人類だ。だが、厳密にはひとりではない。スノーマンの他に、人間の原罪をすべて取り払ったような「理想の人類」がいる。彼らは怒りや嫉妬がなく、草食で食べ物に困らず、歌が好きでいつも楽しげに笑っている。
スノーマンは身体能力で劣っているし死にそうだが、理想の人類たちに敬われている。なぜならスノーマンは物知りで「世界の成り立ち」「新人類を作った人たち=神」を知っているからだ。
そうして「人類絶滅」の神話がつむがれる。いったいなぜ人類は絶滅したのか。なぜ新人類がうまれたのか。なぜスノーマンが生き残ったのか。
スノーマンがかつてジミーという名前の青年で人類がまだ生きていた頃のこと、オリクスとクレイクのことが明らかになっていく。
終末前の世界は、特権階級と平民に分断された階級社会だった。特権階級とは、国を支配する医療系の巨大企業コープセコーと理系の研究者たちである。
コープセコーは資本主義の邪悪を煮詰めたような企業で、じつにまがまがしい。人類はコープセコーが儲けるために存在する。人間は階級にわけられて値つけされ、それぞれの形でコープセコーの利益となり、やがて途方もない悪行が明らかになる。もはやブラック企業とかそういう次元ではない。悪、これは資本主義を突き詰めた悪だ。
つまりこれが自分の今後の人生だ。招待されたが、実際にはたどり着かない番地で開かれているパーティのように思われた。自分の人生において、誰かは楽しんでいるのだろう。ただし、この瞬間その人物は自分ではなかった。
このディストピア世界は、私たちが生きる世界とは違っているが、まったく違うわけではない。むしろあらゆるところに既視感を覚えて愕然とさせられる。
そう、アトウッドが描くディストピアはいつでも現実の延長線上にある。
『侍女の物語』にまつわるインタビューで「私が想像したものはひとつもない」と答えているように、アトウッドは現実の権力情勢、経済、社会、宗教、科学技術を組み合わせ、「現実と地続きになった想像力」で世界を組み上げる。現代の資本主義を突き詰めて倫理のタガが外されたら、きっとコープセコーみたいになるだろう。登場人物たちも、誰もが「実在しそうな人たち」だから、たいへん心をえぐられる。
生きづらさ最高潮の世界にうんざりさせられているところに、ぬるりと不穏がすべりこんでくる。不穏は後半になるにつれて増幅し、そしてあの時がやってくる。
ポスト・アポカリプスものは すでに世の中にたくさんあるが、人類が絶滅した経緯を「神話」として語り継ぐ人がいるところが特徴だと思う。
「マッドアダム三部作」は、聖書を強烈に意識している作品だ。シリーズ名が「マッドアダム」と最初の人類の名前をもじっているし、続編『洪水の年』では、キリスト教の説話と単語をもちいて世界の滅亡が語られる。そして、聖書でもなんどか人類が絶滅していることを思い出す。
3作目『マッドアダム』を読んでいる途中ではあるが、「マッドアダム三部作」はよくある終末系エンターテインメントには収まらない作品だと期待している(もちろんエンターテインメントとしてもおもしろい)。なぜならアトウッドだからだ。アトウッドの世界構築、細部の作りこみ、胃痛エンタメ展開に、私は信頼を寄せている。多くの人が語ってきた人類滅亡を、アトウッドがどう描くのかが楽しみだ。
何かの一線が越えられ、何かの範囲が越えられてしまったという気持ちにどうしてなるのだろう? どこまでやったらやりすぎで、どこまで行ったら行きすぎか?
マッドアダム三部作、第2作め
マーガレット・アトウッドの著作レビュー
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日本で有名な終末フィクションといえば『20世紀少年』だろう。20世紀少年では国を牛耳るのは政党である。ナチスやオウム真理教をモチーフにしていたからだと思われるが、「マッドアダム三部作」では巨大企業が権力をにぎっているため、より現代に近いと思う。
人類が絶滅するまであと少しのアメリカ・ロード小説。おぞましい暴力と純粋な子供のコントラストが極北すぎて脳の混乱が起きる、すさまじい小説。
マッドアダム三部作をじゅうぶんに楽しみたいなら、聖書の知識が必要だ。聖書は確かに楽しいのだが、とにかくいろいろな説話が多いので、あまりなじみがない人は、聖書そのものに手を出す前に、概要を知ることをおすすめしたい。
『共食いの島』ニコラ・ヴェルト|生産的でない人を共食いさせた国家
いや、ちがう、同志、われわれはうまくやらねばならないとしても、春までには連中全部がくたばるように行動する必要がある。なにか着せるにしても、死ぬ前に少しばかり森の伐採をさせるのに間に合えば十分だ。
――ニコラ・ヴェルト『共食いの島』
生産的でない人を共食いさせた国家
1930年代、スターリン時代ソビエトが主導した「移住計画」の記録である。「移住計画」と聞くとそれほど残虐に聞こえないかもしれないが、20世紀初頭の「移住計画」とは「いらない人間を辺境の地に追いやって、自分たちの世界からなかったことにする」ことだった。ナチスもユダヤ人大量虐殺システムを構築する前は、ユダヤ人をすべてマダガスカル島に移住させる計画をつくっていたことからも、「移住計画」の性質を推し量れる。
ソビエトはナチスよりも先んじて、「移住計画」という名の虐殺を実行した。ナチスは「整然とした虐殺システム」を構築したが、ソビエトのそれは「混沌とした虐殺システム」だった。
「共食いの島」ことナジノ島は、西シベリアを流れる川の中央にある、小さな無人島だ。川沿いは少数民族がわずかに暮らすだけの僻地で、人が住む土地も食料も施設もなにもない。このなんの変哲もない小さな島が、のちにナジノ島事件と呼ばれる惨劇の舞台となる。
1933年、ナジノ島に6000人以上ものロシア人が着の身着のままで送られてきた。
孤島に取り残された6000人は、やがて互いに殺し合い、食人にまで発展した。報告書には、「習い性となった人肉食い」という意味の「オタニスム」(隔世遺伝+自慰の短縮語)というやばい単語があったという。
6000人が反社会分子だったから、このような残虐な事件が起きたのか? いいや。この惨劇は、無計画と無関心によってうまれた。本書は、膨大な資料の調査で、惨劇の背景を浮かび上がらせる。
移住計画にはいちおう「反社会分子を移住により再教育して生産活動ができるようにさせる」との建前があった。政府主導の移住計画だから、食料や設備投資などの予算もついていた。
しかし、権力者にとって魅力的ではない予算は削られる運命にある。予想外の出費、計画の遅れ、生産量の激減などにより、最終的に予算は20%にまで削られた。当然、シベリア側に、受け入れの準備などできなかった。
さらに、移送されてきた人たちの多くは、建前とは異なり「まったく労働に不的確な老人、身障者、知的障害者、盲人」ばかりだったという。生産活動をしようにも、しようがなかった。だが、人はどんどん移送される。食料はない。だが、上層部の計画は死守しなければならない。その結果が、無人島での惨劇だった。
同志自身、連中がどんなふうにここに送られてきたかを見ただろう。河岸に降ろされたとき連中はぼろをまとって裸同然だった。もし国家が再教育する気だったら、われわれの助けを借りずにちゃんと着るものを着せたはずだ!
恐ろしいのは、中央の計画が、まったく現実的でない無能なものだったにもかかわらず、実行されてしまったことだ。計画そのものが破綻しているのに、「計画は実行されなければならない」「見直す余裕はない」とツケが地方局に押しつけられ、シベリア地方局はツケを「お荷物」だった移送者たちに回して、自滅させることで解決した。人の命よりも、上層部の無計画を実行することのほうが大事だった。
人が自主性を放棄して無関心な歯車になる仕組みも恐ろしい。強力な権力構造は「命令されているだけだから」「自分がやりたいわけじゃないから」と、システムに組みこまれた人の感覚を麻痺させて無関心にさせる。ナチスも、この構造を利用した。
さらに、政府にとって「使えない人間」が移住対象者だったことも、うんざりさせられる。「生産的でない人間はいらないから、ゴミ箱に放り込めばいい」と中央政府は考えていた。国民を「ゴミ」、地方を「ゴミ箱」扱いするあたりが心底おぞましい。
権力者の破綻した計画、自主性を放棄して無関心にさせるシステム、権力者にとって使えない人間、この3つがそろった時、システマティックな虐殺がうまれる。
この構造はナチスでも見られたし、現代社会でも無縁ではない。権力者にとって「生産的な人」「生産的でない人」という分類は、今でもいやというほど目にする。
そういう意味で本書は、現代でもまったく色あせない記録だ。もちろん、歴史的な記録としても重要である。ソビエトにとって「移住計画」は重要な政策だったが、大量の飢餓とナジノ島事件が起こってからは、移住計画は縮小して、ソルジェニーツィンが描いた「強制収容所」へとうつっていく。
強制移住で数百万人が行方不明になり、ウクライナでは人工的な飢饉で数百万人が餓死し、強制収容所の劣悪な環境でも大量の人が死んでいった。
ナジノ島の向こうに見えるのは、20世紀に開花して21世紀に受け継がれた、途方もない邪悪である。
いや、ちがう、同志、われわれはうまくやらねばならないとしても、春までには連中全部がくたばるように行動する必要がある。なにか着せるにしても、死ぬ前に少しばかり森の伐採をさせるのに間に合えば十分だ。
「お前らが人民を飢えさせている。だから俺たちはおたがいを食い合っているんだ!」
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日本軍による強制労働によって死んでいった捕虜たちの物語。Death railwayと悪名高い泰緬鉄道の建設は、多くの捕虜の命をすりつぶすことで実現された。95%の闇と5%の鮮烈な光でできた小説。
もはやブラック企業とかいう次元ではない、極悪企業に支配された世界のディストピア物語。資本主義の邪悪を極めたらこんな風になるだろう。邪悪はとどまることを知らず、ついには人類も滅亡する。Huluで人気を誇った『侍女の物語』の作者による、じつに現代的で胃が痛くなる小説。
チリの独裁者ピノチェトもまた、国民を「失踪」させるジェノサイドを実行した。ピノチェトのおぞましさは、ピノチェト本人もさることながら、アメリカやイギリスをはじめとした西洋諸国が「見て見ぬ」ふりをしたことだ。なぜなら「反共産主義」の同胞だったからだ。強国のイデオロギーと経済的な儲けがあれば、虐殺も見なかったことにされる事例。これもまた、違う形の邪悪だ。
ナチスの残虐を描いた書籍はたくさんあるが、中でも『メダリオン』はアウシュビッツ強制収容所があるポーランドで、必ず読まれている小説だ。ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』で語った「凡庸な悪」を、アーレントより先んじて書いている。毎日人が飛び降りる音を聞いていた、という文章が恐ろしく、頭から離れない。
ナジノ島事件と強制移住の後に、シベリアの強制収容所が主流になっていった。囚人の扱いは過酷だが、それでもこの小説にはかすかな希望がある。
1930年代、スターリンはウクライナを意図的に大飢饉にして、数百万のウクライナ人を殺した。飢餓から逃れてきたウクライナ人が、『共食いの島』にも登場する。
『私の名前はルーシー・バートン』エリザベス・ストラウト|実家への割り切れない感情
バートン家という5人の家族がーーだいぶ常識はずれの一家だったがーーいわば屋根のような構造物になっていて、そうと気づいたときには終わっていたのではなかったか。
――エリザベス・ストラウト『私の名前はルーシー・バートン』
実家への割り切れない感情
実家は人生を始めた場所、家族は人生ではじめて関わった他者であり、人にとっての「原点」となるが、素晴らしいものとは限らない。
親から物理的あるいは精神的に暴力を受けた人、気質や考え方が合わない人、貧困で生活が苦しかった人たちにとって、実家や地元は「帰る場所」ではなく「逃れたい場所」となる。金銭、学力、運の力を借りて実家から抜け出した人は、「二度と戻らない過去の場所」として実家を埋葬しようとする。
語り手の名前はルーシー・バートン。イリノイ州の田舎(工業地帯で貧しい地域)アムギャッシュの貧しい家庭で育った。実家は叔父のガレージで、テレビもお金もないから皆の話題に入れず、「くさい」といじめられ、友達ができなかった。父親は仕事が続かず子供たちを虐待しがちで、母は忙しいため子供をまともにかまえなかった。
ルーシーは3兄弟のなかで1人だけ大学に入学し、ニューヨークで小説家として暮らし、ささやかなアメリカン・ドリームを実現する。
ルーシーは無事に過去を埋葬し、実家には帰らず、親と連絡もとっていない。そんな彼女のもとに「実家」がやってくる。ルーシーが長期入院している病室に母親が現れて、5日間だけ滞在することになる。
さびしさは私が人生の最初期に知った味わいである。その味が口の中のどこかに潜んで、まだ残っていた。
絶縁状態にあった母娘の再会と聞けば、「母娘の対決」あるいは「母娘の和解」といったわかりやすい物語を想像しがちだが、ストラウトはそのどちらにも寄せず、もっと絶妙で繊細な物語を展開していく。
ルーシーと母親の会話は、親しみと緊張感が入り混じっている。過去のつらい記憶、実家を捨てた事実が、ルーシーと母親の間にごろりと横たわっていて、彼女たちは不発弾を避けながらどうでもいい話をしつつ、しかし突然にみずから突っこんで爆発させたりする。かと思えば、母親からのささやかな同意を受けて、ルーシーはこのうえなく幸福を感じたりもする。
気にする性分だったのは私たちだ。母も私もそうだった。この世には一つ確実な判断基準がある。どうすれば人より劣っていると思わなくてすむか、ということ。
毒親への嫌悪、血縁の愛情、トラウマ、共依存、そんな単純な言葉ではルーシーの思いは表現しきれない。著者はラベルづけによるパターン化を拒否して、あいまいな感情を言葉で切り分けず、ごろりと投げ出してそのままに描き出そうとする。
ああいう5人が何ともはや不健康な家族だったことかとも思った。しかし、この家族が根っこの部分で相互の心臓に絡みついていたこともわかった。私の夫は「だけど、自分の家が好きじゃなかったんだろう」といった。それで私はこわいと思う気持ちをつのらせた。
私の周りにも、実家が嫌いだったり、家族と合わない人たちがいる。「独立した大人なんだからつらい関係なんて切ってしまえばいいじゃない」と知らない人は言う。「そうだね」と本人も同意する。だが、彼らは結婚式には嫌いなはずの両親を呼んだり、親が病気になったら取り乱したり、認められたら涙を流したりする。
そして、心臓にからみついた家族の存在、自分の感情に驚くのだ。家族への感情は「好きじゃなかった」で終わらせられるような、単純なものではない。
本書は受け入れがたい自分との和解、恥によってうまれる怒りからの解放を描いた小説だと思う。おそらくそれは「自己肯定」と呼ばれるものなのだろうが、著者はわかりやすいラベリングをせず、繊細な感情を幾層にも積み重ねて描く。
ルーシーは、自分の感情にも、他者の感情にも、誠実であろうとしている。他者の感情を断定したり、超越者の視点を使ったりせず、「自分はこう思った」と書くにとどめる。他者のことはわからない、自分の感情も割り切れない、だがそれでいい、と言っているように思える。この姿勢は孤独の肯定だ。孤独を肯定した時、ルーシーは否定したがっていた自分の過去をも肯定する。
人生はリセットできない。過去は変えられない。私は私から逃れられない。自分に割り振られた踊り場で踊るしかない。私は私として生きて死んでいく。
本書は、この事実におののき絶望する人を慰める。過去は変えられなくても、過去の受けとめ方は変わりうる。灰色の記憶が、極彩色に一変することだってできる。
彼女の名前はルーシー・バートン。それ以外にはなれないし、それでいいのである。
「人生は進む。進まなくなるまで進む。」
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実家が嫌いだが割り切れない感情を抱く小説といえば、ベルンハルトである。『消去』は家族を容赦なく罵倒するが、それでも家族を捨てきれない。笑える要素もある。『凍』のほうはユーモアが影をひそめ、よりつらさが増している。
ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち
- 作者: J.D.ヴァンス,関根光宏,山田文
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2017/03/15
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アメリカでも貧乏な地域と見なされる「ラストベルト」で生まれ育ったヒルビリー(田舎者)の自伝。著者は大学を出て弁護士となり地元を抜け出したため、ルーシーと重なるところがある。地元に住む白人たちの様子がわかるので、本書の副読本としておすすめ。
『ピダハン』ダニエル・エヴェレット|神を信じない民と宣教師の30年
伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、私が村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」
――ダニエル・エヴェレット『ピダハン』
神を信じない民と宣教師の対話
ここのところ「言語による世界の認識」に興味がある。喃語を話す幼児と暮らしているからだろう。子供は独自の言語を話し、世界の認識も私とは異なっているのだが、単語と文法をおぼえるにつれて、私の住む世界観にゆっくりとではあるが近づいてきている。私は「自分が知らない世界の見方」が好きなので(海外文学を読む理由のひとつだ)、子供が言語習得する様子は楽しくもある一方、惜しいとも感じる。
自分が持つ世界観から外れた別の世界観、別の言語をのぞきたい思いは強まるばかりで、気持ちの発露として、ピダハン語(アマゾン奥地に住む先住民族の言葉)にまつわる本を読むことにした。
- 作者: ダニエル・L・エヴェレット,屋代通子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2012/03/23
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本書は「少数言語の研究と記録」であり、「言語学者の人生が変わる物語」だ。
著者ダンはアメリカ人の宣教師で、キリスト教を広めるためにピダハンが住むアマゾン奥地の村にやってきた。
彼のミッションは「聖書をピダハン語に訳し、ピダハンを神の国に導く」ことだ。翻訳者がおらず辞書もほとんどない環境で、著者はピダハンの村に住み着いて、彼らの言語をほぼゼロから習得しようとする。
数か月あるいは数年だけを過ごす現地研究と異なり、著者はアメリカとブラジル都市とアマゾン奥地を行き来しつつ、30年近くピダハンの村で過ごした。驚くべき長期滞在である。
なぜ30年も? ピダハン語が難しかったから? ピダハンの世界観が西洋とは大きく異なっていたから? ピダハンにキリスト教を理解させるのが困難だったから? 答えは途中まではイエスだが、結果としてはノーだ。なぜなら著者はやがて、キリスト教をピダハンに教える目的を捨て、神を捨てるからだ。著者がピダハン語を学ぶにつれてピダハンの世界観を知り、自分の世界観に疑問を抱くようになっていく過程はじつにスリリングだ。
本書は「少数言語の研究と記録」と「宣教師の世界観が変わっていく物語」が入り乱れて進む。
著者は「ピダハンは人生に満足してよく笑う民族」だと述べる。その理由として「将来を不安に思わない」文化と言語、そして「自分が直接経験したことのみ話す」文化と言語を挙げている。
ピダハン語は、私が話す言語とはかなり違っている。ピダハン語には、言語に必須と言われる「再帰」がない*1。
「ありがとう」「ごめんなさい」といった交感言語がない。色を表す形容詞もない(「血のような」で赤を表すことはできる)。
そして、未来形や過去形がない。それゆえ「将来に備える」感覚も「未来を不安に思う」感覚もない(そもそも未来形がないのだから語りようがない)。
ひとつのパターンが見えてくる。ピダハンには食品を保存する方法がなく、道具を軽視し、使い捨ての籠しか作らない。将来を気に病んだりしないことが文化的な価値であるようだ。だからといって怠惰なのではない。ピダハンはじつによく働くからだ。
ピダハンの「世界の境界」に関する感覚もおもしろい。ピダハンは「自分が知覚する世界」で生きていて、「自分の知覚から外れた世界」からやってくるもの(視界に入ってくる飛行機、侵入者、病気など)は、「境界を越えてきたもの」として認知される。「境界を越える」という意味を持つ単語「イビピーオ」(「現れる・消える」を同時に表す)は、ピダハンの世界観をよく表している*2。
「イービイが病気なのは葉を踏んだからだ」「なんだって? わたしも葉を踏んだけれど、病気ではないよ」……
「上から来た葉だ」コーホイはそう言って、謎を深めた。
「上から来た葉とは?」
「上のビギーの血のないものが下のビギーに降りてきて葉を置いていった。ピダハンが上から来たビギーを踏むと病気になる。ビギーは葉に似ている。だが人を病気にする」
「上から来たビギーだとどうしてわかるんだ?」
「踏んだら病気になるからだ」
……ピダハンにとって宇宙はスポンジを重ねたケーキのようなもので、それぞれの層はビギーと呼ばれる境界で区切られている。空の上にも世界があり、地面の下にも世界がある。
そしてピダハンは直接経験を重んじる。ピダハン文化には世界創世の神話がない。死者の国や神の国もない。なぜなら自分が経験したわけでもないし、目撃者もいないからだ。彼らが物語るのは、「ジャガーをしとめた話」や「子供がうまれた話」など、語り手あるいは知り合いが実際に経験した話に限られる。
超常現象を信じないわけではない。ピダハンは夢を実経験として、現実と同じ次元で語る。精霊も実在する。村人は精霊に扮して森の奥から話したり踊ったりするため、物理的に精霊は存在していると見なされる。
ピダハンの物語は「経験しうる物語」ばかりだから、驚異的な想像力を求める人にとっては、すこし物足りないかもしれない。しかし、それゆえにピダハンは神や神話を信じない。「誰も神を見たことがない」ものをピダハンは必要としていない。彼らは自分の生活に満足しているから「救い」もいらない。
このことが、著者にとっては衝撃だったようだ。著者は、キリスト教と神の国によって幸福になれる世界を信じていた。キリスト教を知らないピダハンは不幸で、助けてあげる必要があると思っていた。
しかし、彼の世界観はピダハンの世界観を知って激しく揺らいだ。ピダハン語への理解が深まるにつれて、ピダハンの世界観を理解し、彼は自分の世界観に疑問を抱くようになる。
しかしもし自分の人生を脅かすものが何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどう良くすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。
伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、私が村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「おまえがここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」
当時もいまも、これがピダハンの考え方だ。人生は素晴らしい。ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの社会ができあがっている。この考え方に異をとなえるのは容易ではない。
自分の世界観とピダハンの世界観で揺れているシーンで、ぞっとしたところがある。「ピダハンは神を必要としていない」と途方に暮れる著者に、宣教師仲間が「救いを求めるためには、不安を作らなければならない」と語ったところだ。なにもないところに、争いの種や不安、不満を持ちこんで、救いと物資を売りつける。私たちの世界、歴史、経済、宗教は、たしかにそういう仕組みで回っている。
ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、不安や畏れ、絶望といった、西洋社会を席巻している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。
本書は、言語学の記録からはよくも悪くも大幅に逸脱して、やがて「幸福に生きるとはなにか」という問いにたどりつく。幸せに生きる! 誰もが望むことでありながら、気恥ずかしさからか正直に語られにくい話題について、著者は正面から切り結ぶ。
彼の問いと答えはいかにも宗教者らしいものだが、私たちと無関係ではない。私たちは「自国語」という部屋にいて、さまざまな形の窓から外を見ている。同じ部屋にいることに慣れきると、「この窓はなぜこの形なのか?」「なぜここについているのか?」と考える機会は失われていく。
慣れることにより、人は生きやすくもなり、生きにくくもなる。私が違う窓を持つ人の言葉が欲しくなるのは、世界の見方を固定しきらず、揺れたままにしておきたい、世界と人間にたいして興味を失わずにいたいからかもしれない。
どうか考えてみてほしい――畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求するむなしさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。
Recommend
ベルクソン、ソシュール、ハイデガー、そして本書でも言及があったチョムスキーについて、概要がまとまっている。
NHKの放送で知られるようになった、アマゾンの先住民族ヤノマミ。ピダハンもNHKで紹介されている。
ヤノマミと同じ著者による、ペルー奥地に住むイゾラドの記録。ピダハンは300人ほどいるが、ノモレは「最後のひとり」である。
ピダハンの「今を生きる」「ないものを不満に思わない」世界観は、仏教に似ているのかもしれないと感じた。
"Don't sleep, there are snakes Life and Language in the Amazonian Jungle"Daniel L. Everertt,2008.
『ピラネージの黒い脳髄』マルグリット・ユルスナール|世界、この開かれた牢獄
「デンマークは牢屋だ」とハムレットがいう。「しからば世界も牢屋ですな」と気の利かぬローゼンクランツが言い返し、黒衣の王子をこの一度だけやりこめる。ピラネージがこの種の概念、囚人たちの宇宙という明確なヴィジョンをもっていたと想定すべきだろうか?
――マルグリット・ユルスナール『ピラネージの黒い脳髄』
世界という名の、開かれた牢獄
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージは18世紀のイタリア人版画家だ。ボルヘス村の住民であれば、『続審問』の表紙を書いた画家だと言えば伝わるだろう。
ピラネージの最も有名な作品が『牢獄』である。この異様な空間を描いたことにより、ピラネージはその後の画家や建築家、小説家、詩人に多大な影響を与えた。本書は、ピラネージの最も著名な作品『牢獄』の復刻版によせて書いたエッセイだ。
ピラネージの「牢獄」は全部で16枚あり、本書は全16枚の1版、2版をそれぞれ納めている。私は2012年に国立西洋美術館で開催された「ピラネージの牢獄展」で鑑賞して以来、この黒い脳髄のことを忘れられなくなった。
見ればすぐに「ピラネージだ」とわかるこの異様さはどこからきているのか。心をふさがれる陰鬱な牢獄だと見てわかる一方、この牢獄はまったくもって牢獄らしくないからだ、とユルスナールは述べる。
古今東西、牢獄は暗くて狭い場所であった。囚人にたいして使える場所は限られているし、余裕を持たせる意味がない。しかし、ピラネージの牢獄は、空間が広く開かれている。窓があちこちにあり、階段や通路は何人も寝転がれるほど広い。そして、驚くほどに清潔だ。牢獄につきものの腐った水、ねずみ、虫、汚れといった牢獄につきものの汚れがない。この広さと清潔さは牢獄よりはむしろ宮殿を思わせる。
とはいえ、ここが牢獄であることはわかる。牢獄には、鎖やとげ、うつむいて力のない匿名の影たちが配置されており、出口はどこにも見当たらない。開かれた窓の向こうには牢獄が続いている。この牢獄がえんえんと続くであろうことが予想できる。
ピラネージの牢獄は異様であるだけでなく幻想的であり、その源泉は遠近感の異様さにある。人物にたいして、空間と柱、鎖、窓があまりにも巨大だ。遠近法を理解していない素人はこうしたいびつな空間を描きがちだが、ピラネージはもともと卓越した風景画家であり、「牢獄」の遠近法は完璧である。「牢獄」はきわめて正確な遠近法に基づいて描かれているがゆえに途方もなく巨大で倒錯した空間であることになる。
「開かれている陰鬱」、これがピラネージの牢獄であり、「ダンテの恐ろしい漏斗に匹敵する」とユルスナールは書いている。
《牢獄》の背景には宗教観念がまったく欠落しているが、それにもかかわらずこれらの黒い奈落、これらの陰惨な落書きが、ダンテの「すべての希望を棄てよ」とあの恐ろしい漏斗に対応しうるイタリア・バロック美術唯一の壮大な作品であるという事実はゆるがないのである。
そして、これは人間が作り出した世界そのものではないか?
シェイクスピアがハムレットに「世界は牢獄だ」と言わしめたように、カフカが引き延ばされた不条理の城を描いたように、ピラネージは牢獄として私たちの世界を描いたのではないか。
ピラネージの牢獄は、突き詰めていけば、「人間は主体性を持って世界を変えうるか」、それとも「世界に精神を規定され、流され飲み込まれるか」という、文学、芸術、人文学が考える究極の問いのひとつに流れ着く。私はどこかで黒い脳髄に罹患してからずっと、この問いを考え続けながら本を読んでいる。
時間も生物の姿かたちもとり除かれているこの禁錮の場、すぐさま拷問室となるこれらの閉ざされた広間、そのくせ住人の大多数が、危ういことに安閑とくつろいでいるかのような場所、底なしでありながら出口のない深遠、これはありきたりの牢獄ではない。それはわれわれの「地獄」なのだ。
マルグリット・ユルスナール作品の感想
Recommend:黒い脳髄を持つ人びと
カフカ、ボルヘス、あるいはそれらの後継者たちが好きな人たちは、きっと黒い脳髄に罹患している。
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ピラネージの牢獄が表紙として使われている。「無限の空間」を描いたボルヘスと、ピラネージの無限の牢獄は、ともに同じ脳髄を継承しているように思える。
- 作者: フランツカフカ,Franz Kafka,池内紀
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終わらない永遠の引き延ばし、このうえなく世界でありながらありえない引き延ばしによって描かれたカフカもまた、ピラネージ的脳髄を持っていたと思われる。
世界という牢獄にとらわれていると叫んだデンマーク王子。「世界は劇場である」「世界は牢獄である」とシェイクスピアはいくつもの作品で語る。
ダンテは地獄・煉獄・天国を漏斗のように描き、その後の画家および作家たちの世界観に決定的な影響を与えた。
- 作者: ド・クインシー,Thomas De Quincey,野島秀勝
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アヘン幻視文学と言えば外せない本書において、ド・クインシーはコールリッジからピラネージの牢獄について教えられたと書いている。そのとおり、『阿片常用者の告白』はまさにピラネージの牢獄から始まる。
ボルヘスのエッセイで鉄板の「コールリッジの夢」は、上記『阿片常用者の告白』にも登場した。コールリッジはつねに夢を見ていたのではないかと思わせられる。
- 作者: ミシェル・フーコー,Michel Foucault,田村俶
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『監獄の誕生』は、「力の非対称性」という切り口で、かつて授業で読んだ。「身体の束縛」から「精神の束縛」に代わり、パプティノコンでは「視点の非対称性(監獄の刑吏は受刑者を見ることができるが、受刑者は刑吏を見ることができない)」が権力の原動力となる。ピラネージの牢獄は、身体を束縛はしていない。では精神は、視点はどうだろうか?
建築には「アンビルト(未完の建築)」という分野がある。「不可能な建築」という字面がたまらなく好きだった。また展覧会をやるか、本をもっと出してほしい。
第五回 日本翻訳大賞の最終選考5作品を読んだ
第五回 日本翻訳大賞に、ウィリアム・ギャディス『JR』(木原義彦訳)とジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』(木下眞穂訳)が選ばれた。2作品の受賞、おめでとうございます。
- 作者: ジョゼ・ルイスペイショット,Jos´e Lu´is Peixoto,木下眞穂
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- 日本翻訳大賞とはなにか
- なぜ最終候補5作品を読もうと思ったのか
- 日本翻訳大賞の最終選考5作品のレビュー
- 大賞受賞作品:ウィリアム・ギャディス『JR』
- 大賞受賞作品:ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』
- リチャード・フラナガン『奥のほそ道』
- 呉明益『自転車泥棒』
- ハン・ガン『すべての白いものたちの』
- まとめ
日本翻訳大賞とはなにか
日本翻訳大賞とは、「直近の年に翻訳された作品のうち最も称賛したい作品に贈られる賞」である。第5回は2017年12月~2018年12月に翻訳された作品たちから選ばれた。(参考:日本翻訳大賞とは | 日本翻訳大賞公式HP)
なぜ最終候補5作品を読もうと思ったのか
なぜ最終候補5作品をすべて読もうと思ったのか。きっかけはウィリアム・ギャディス『JR』読書会だ。
今年の2月末、狂乱のウィリアム・ギャディス『JR』読書会に参加した。最終選考5作品のうち最難関と思われる『JR』を読み終わったので、がんばれば最終選考5作品すべてを読めるのではないか? と啓示が降りてきた。
5月にトマス・ピンチョン『重力の虹』読書会が控えているので、ちょっと厳しいかもしれないと思ったけれど、狂気の読書会と狂気の読書会の間だからいける、との根拠皆無の確信が私を後押しした。
私:日本翻訳大賞の最終選考作品5作品、もしや授賞式までに全部レビューを書けるのでは?
— ふくろう (@0wl_man) April 14, 2019
神の声:『重力の虹』読書会の準備は?
日本翻訳大賞の最終選考5作品のレビュー
結果として、すべて異なる国、異なる雰囲気の違う作品を読めてたいへんに楽しかった。どれから読んだらいいかいっぱいあって迷う人のためにさっくりレビューを書いてみた。
続きを読む『奥のほそ道』リチャード・フラナガン| 生きながらに死に、死にながら生きる
見るのはつらい、だが見ずにいるのはもっとつらい。
――リチャード・フラナガン『奥のほそ道』
生きて、死んで、そしてまた
突き詰めていけば私の関心ごとは、生と死とそれら不可避の事象をめぐる感情であるように思う。私の心をえぐり爪痕を残していく文学は、それぞれの作法で生と死を鮮やかに描いている。
文学においてはしばしば、生と死はスイッチのように切り替わるものではなく「同時に存在しうるもの」として描かれる。
生きている、生きているが死んでいる、死んでいるが生きている、いちど死んでまた死ぬ。極限状態であるほど生と死の境界はあいまいになり、どろどろに溶けて判別不能になっていく。
この泥沼の境界、血と涙と脳髄の入り混じる混沌からうまれてくる文学がある。
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『ガルヴェイアスの犬』ジョゼ・ルイス・ペイショット|宇宙につながる小さな村
誰にだって、運命の場所ってもんがあるのさ。誰の世界にも中心がある。あたしの場所はあんたのよりましだとか、そんなことは関係ないの。自分の場所ってのは、他人のそれと比べるようなものじゃない。自分だけの大事なもんだからね。
――ジョゼ・ルイス・ペイショット『ガルヴェイアスの犬』
名のない人たちに名を
どんな人でも、多かれ少なかれ、秘密と物語を持っている。
包丁が飛び交うアチャス族にうまれたため、一族にはたくさんの物語があった。いろいろな人に一族の話をしていると、「じつはうちも」と声が上がり、他の人たちもじつに多様な物語や伝説を持っていることに気がついた。平和な一族は平和なりに、破天荒な一族は破天荒なりに、それぞれが秘密と物語と感情を抱えている。
「つまらない」「平凡」「退屈」、こうした言葉で語られる土地や人は、秘密や物語がないのではない。彼らの秘密や物語が、ごく一部あるいは個人の中にしまわれていて表に出てこないだけだ。ポルトガルの小さな村ガルヴェイアスうまれの小説家は、1冊の長編でもって「表に出てこない物語」を描いてみせた。
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『JR』ウィリアム・ギャディス|僕はアメリカ!
−−できることでもやったら駄目なんだ……
−−何で?
−−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ!
――ウィリアム・ギャディス『JR』
僕はアメリカ
全940ページに1.2kgというその異形ぶりから、2018年末の読書界隈を震撼させた怪物、ウィリアム・ギャディス『JR』は、これまで読んだことがない種類の小説だった。
『JR』を構成する一部を読んだことなら何度もある。トマス・ピンチョンやドン・デリーロが描くポストモダン小説、マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』のようなほぼ会話のみで構成された小説、金で狂う人間たちの物語、金融市場の闇を暴くノンフィクション、コングロマリット企業とアメリカ政府の癒着を描いたノンフィクション(あるいはマイケル・ムーア)、少年が大人顔負けのやり口で活躍する漫画やドラマ。しかし、これらすべてを詰めこんだ小説は見たことがない。
じつに奇妙で、最後まで読み切った後でも「なぜこれとこれを混ぜた」というとまどいが抜けないが、大規模な魔術になるほど多様で混沌とした材料が必要となるように、「欲望と利益主義を突き詰めていく巨大で混沌とした構造物アメリカ」を文学として召喚するにはこれぐらいの供物が必要なのかもしれない。ギャディスは金融と小説とアメリカの悪魔融合をやってのけた。
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『蜂工場』イアン・バンクス|荒野と呪術の子供たち
どの人生も象徴をかかえこんでいる。人の行為はどれをとってもひとつの宿命の波紋に属していると、ある程度は言えるだろう。…<蜂工場>はそうした宿命の波紋の一環だ。なぜなら、それは生の一断面であり――むしろそれ以上に――死の一断面だからだ。
――イアン・バンクス『蜂工場』
緻密な呪術世界
子供の頃は、魔法や呪術とともに生きていた。外れたら悪いことが起きるから、白線の上を注意深い綱渡り師のように歩いた。赤信号にとめられずに学校までたどりつくことで命運を占った。行きかう車の黒いナンバープレートは不運の兆しだが、黄色プレート2枚で帳消しにできた。天気は願う力で変わると思っていたし、嫌いな行事で晴れになると、力の弱りを反省して木に登った。
私の幼少期は、人類のプリミティブな時代に重なっていたのだろう。世界は啓示に満ちていたし、互いに秘密の言葉でルールを共有して、世界と自分の臓腑がつながっている感覚があった。『蜂工場』は、こうした「僕が考えた最強の呪術」の極北かもしれない。
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『自転車泥棒』呉明益|誰にも話せなかった傷と痛み
「まあ、ふたりとも、自分の人生のねじをどこかで落としてしまったんだろう。自分のことが、自分でもわからない」
「会話のスイッチが壊れているんだ」
「そう、壊れている」
――呉明益『自転車泥棒』
話せなかった傷と痛み
痛ましい出来事によってうまれた傷との付き合い方は、人によって異なる。ある人は、自分が受けた痛みや傷の物語を語ろうとする。ある人は、物語を語ろうとせず、自分の心の中に痛みと傷を抱えこむ。
語らないからといって、傷や痛みがなかったことになるわけではない。時が痛みを風化させる場合もあるが、傷が膿んで致命傷になる場合だってある。
『自転車泥棒』の父親もそのひとりだ。父親は、家族に自分の物語を語らず、失踪した。これは、傷と痛みを抱え続ける人の物語、語られなかったことによって傷ついた家族の物語である。
ブログの名前を変えた
ブログの名前を「キリキリソテーにうってつけの日」から「ボヘミアの海岸線」に変えた。
キリキリソテーという名前に愛着はあるが、この名前でブログを書いて11年になるし、長いし(Twitterでつぶやくと長いなといつも思う)、そろそろ変えてみてもよいかなと思った。書く内容はたぶんあまり変わらない。海外文学だけではなく、日本文学やノンフィクション、海外ごはんについても書こうかと思っている。
ボヘミアの海岸は、私が住みたいところだ。灯台と海岸と孤島の小説を10年前からこつこつと偏愛していて、 ボヘミアの海岸にある灯台、沖に係留した船上で暮らしたい気持ちは高まるばかりだ。
- 作者: ヴァージニアウルフ,Virginia Woolf,御輿哲也
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- 作者: W.シェイクスピア,William Shakespeare,松岡和子
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