ボヘミアの海岸線

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『奥のほそ道』リチャード・フラナガン| 生きながらに死に、死にながら生きる

見るのはつらい、だが見ずにいるのはもっとつらい。

――リチャード・フラナガン『奥のほそ道』

 生きて、死んで、そしてまた

突き詰めていけば私の関心ごとは、生と死とそれら不可避の事象をめぐる感情であるように思う。私の心をえぐり爪痕を残していく文学は、それぞれの作法で生と死を鮮やかに描いている。

文学においてはしばしば、生と死はスイッチのように切り替わるものではなく「同時に存在しうるもの」として描かれる。

生きている、生きているが死んでいる、死んでいるが生きている、いちど死んでまた死ぬ。極限状態であるほど生と死の境界はあいまいになり、どろどろに溶けて判別不能になっていく。

この泥沼の境界、血と涙と脳髄の入り混じる混沌からうまれてくる文学がある。

奥のほそ道

奥のほそ道

 

 

 

第二次世界大戦中、日本軍の捕虜となったオーストラリア人医師ドリゴ・エヴァンスの生涯を描く小説だ。

ドリゴ・エヴァンスは20代のころ日本軍の捕虜となり、Death Railway ( 死の鉄道)として悪名高い泰緬鉄道の建設に動員されて生還した。彼は医者として、ロームシャ(捕虜と強制連行された人たちからなる強制労働者)を治療し、作業できる者とそうでない者を選別する役割を担わされていた。

泰緬鉄道は、タイとビルマを結ぶ鉄道である。その地形の複雑さと過酷な気候から、英国軍は「5年かかっても建設は無理だ」と建設を断念したが、日本軍は陸路確保のため、1942年から1943年にかけて1年あまりで建設した。この狂った日程は、日本軍の狂気、「スピードー(Speedo)」と呼ばれる昼夜ぶっとおしの苛烈な強制労働、何万もの人間をすりつぶして犠牲にして実現した。

 わたしは人間をつくらないが、わたしは鉄道をつくる。進歩は自由を要求しない。進歩は自由を必要としない。…ドクター、あなたはそれを非自由と呼ぶ。われわれはそれを、精神、国家、天皇と呼ぶ。ドクター、あなたはそれを残酷な行為と呼ぶ。われわれはそれを、運命と呼ぶ。

 

ドリゴ・エヴァンスの人生は「鉄道以前」「鉄道」「鉄道以後」に分かれる。彼の人生の中央を、死の鉄道が無慈悲に横断して分断している。

鉄道以後のドリゴは、生還した英雄として名声を得るが、ドリゴは自分を「自己肯定感が低い人間」「すべてがいんちきの人間」と見なし、家族がありながら何人もの女性と不倫している。

いったいなぜ生還した英雄がこんなことになってしまったのか。この謎を追うために、読者は「鉄道以前」「鉄道」「鉄道以後」の時間軸を横断しながら、一本一本、枕木を打ちつけるようにして、死の鉄道が向かうジャングルの奥、ドリゴの心の奥へと入りこんでいく。

それは、死ぬ一日だった。特別な日だったからではなく、特別ではなかったからだ。いまは毎日が死ぬ日で、次はだれの番かという彼らを苦しめているただひとつの問いに答えが出た。そして、それがほかの人間だったという感謝の念が、空腹と恐怖と孤独とお富に彼らの腹を蝕み、やがてまた問いが戻ってきて、よみがえり、新たになり、退けることができなかった。それに対する唯一の答え、それはーーおれたちにはお互いがいる。彼らにとっては永遠に、おれは、おれが、というのはなく、おれたちは、おれたちが、だけだった。

ほとんどすべての時間軸においてドリゴの人生はつらいが、なんといっても「鉄道」のシーンは心をなぎ倒してくる。血、汗、涙、糞、尿、泥、蛆、膿、人から流れ出るあらゆる汁がジャングルの豪雨と混ざり合い、壮絶な臭気を放ち、ひとり、またひとりと、見知った顔を死に追いやっていく。食事も睡眠も休息もなく、鉄道は捕虜の命をすりつぶして食らっていく。

著者は、何層にもわたる暴力を入念に描き出す。殴る蹴るといった物理的な暴力の上には、外国人を人間と見なさない差別の暴力、自分の暴力を正義とみなす心理の暴力、命令を絶対に遂行しなければ死が待つ懲罰の暴力、天皇のために死ぬことは名誉であるとすりこむ思想統治の暴力、上層部の命令で動くことで罪悪感を麻痺させる組織の暴力、これら何層もの暴力が積み重なっている。

個人も、背後にある暴力とともに姿を変える。松尾芭蕉の句や『奥の細道』を愛する将校は、捕虜の斬首によって快感を得る残忍な男、命令を忠実に遂行する勤め人、家族に「虫も殺せない優しい人」と言われる男でもある。

 ドリゴ・エヴァンスにとってナカムラはもう、昨夜トランプ遊びをした風変わりだが人間味のある将校ではなく、今朝命の取引をした無情だが実際的な司令官ではなく、個人、集団、国を支配し、相手のあり方、相手の見解に反して相手を曲げ、ゆがめ、すべてをその眼前で無頓着に宿命論で破壊する恐ろしい力だった。

戦争という異常事態において、いかに人間が多様な姿を持ち、心を変容させていくかについて、本書はすさまじい筆致で暴き出す。

 初めて会った相手の首を見て見積もるーー簡単に切り落とせるか、なかなか切り落とせないか。わたしが人々に求めるのは、その首、あの一撃、この生命、あの色、赤、白、黄色、それだけ。

 

 「鉄道」の前後でも、ドリゴは苦痛の人生を歩む。

捕虜にとっては二種類の人間しか存在しなかった。「線路にいた」人間と、そこにいなかった人間。あるいは一種類だけかもしれないーー「線路を生き延びた」人間。あるいは結局これすらも不適切かもしれない。ドリゴ・エヴァンスは、「線路で命を落とした」人間だけという考えにますます取り憑かれていた。 

 「線路で命を落とした人間だけ」――この考えが全編にわたって響く。

多くの友人たちが鉄道で命を落とした。ドリゴは生還したが、友人たちとは別のやりかたで命を落としてしまった。

体は生きているが心が死んでいる状態で、ドリゴは人から求められるようにふるまい、自罰的に行動する。そのことが、ますます彼の心を殺していく。 戦争だけではなく、叶わなかった愛もドリゴを苦しめる。

とにかくつらい、つらいのだが、わずかではあるがドリゴの人生に「生きている」時間が戻ってくる。その時間は光に満ちている。波が反射する光、真珠の光、魚の入った水槽を割る破片の光、炎の光。つかのまの閃光があまりにもまぶしくて胸を打つ。

 

どこまでも正統派の傑作だ。ひさしぶりに、すべての人に勧めたいと思った小説だった。

光から始まる物語は、長い長い暗闇を経て、ほんのわずかなまばゆい光とともに爆ぜる。長い闇とまばゆい光、このふたつのコントラストが鮮やかで激烈な余韻を残す。

人は生きながら死んでいき、つかのまの一瞬を鮮烈に生きて、そしてまた死んでいく。そういう営みを、人は人生と呼ぶのだろう。

 

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『奥のほそ道』を読んで真っ先に思い出したのがプリモ・レーヴィだった。強制収容所の地獄を生き延びた彼は「どのようにして人間の心が変容するか」を残そうとした。地獄に飲まれる側の希望と絶望、地獄を作り出す側の人間の言動、強制労働の地獄、善悪に二分できない「灰色の領域」を描いている。個人的には人生の必読書だと思っている。

 

ポーランド人作家が残した、強制収容所の証言文学。読んで以来、「このように考えだされ、実行された大宴会は人間の作品だった。人間がその実行者であり、その対象だった。人間が人間にこの運命を用意した」という言葉がずっと頭に残り続けている。

 

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  日本軍将校の言葉「あなたはそれを非自由と呼ぶ。われわれはそれを、精神、国家、天皇と呼ぶ。ドクター、あなたはそれを残酷な行為と呼ぶ。われわれはそれを、運命と呼ぶ」を読んで、エーリッヒ・フロムを読み返したくなった。なぜ人は自由から逃れたくなり、不自由に縛られようとするのか。

 

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 本書のエピグラムに引用されている。「お母さん、彼らは詩を書くのです」。「詩を書くのです、なのに彼らはこんなおぞましいことをするのです」という言葉が隠れているように思える。

 

詩人でありながら大量殺人犯でもあるチリ人将校の生涯を描く。「詩人と殺人」というテーマで通じるものがある。