ボヘミアの海岸線

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『JR』ウィリアム・ギャディス|僕はアメリカ!

−−できることでもやったら駄目なんだ……

−−何で?

−−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ!

――ウィリアム・ギャディス『JR』

僕はアメリカ

全940ページに1.2kgというその異形ぶりから、2018年末の読書界隈を震撼させた怪物、ウィリアム・ギャディス『JR』は、これまで読んだことがない種類の小説だった。

『JR』を構成する一部を読んだことなら何度もある。トマス・ピンチョンやドン・デリーロが描くポストモダン小説、マヌエル・プイグ『蜘蛛女のキス』のようなほぼ会話のみで構成された小説、金で狂う人間たちの物語、金融市場の闇を暴くノンフィクション、コングロマリット企業とアメリカ政府の癒着を描いたノンフィクション(あるいはマイケル・ムーア)、少年が大人顔負けのやり口で活躍する漫画やドラマ。しかし、これらすべてを詰めこんだ小説は見たことがない。

じつに奇妙で、最後まで読み切った後でも「なぜこれとこれを混ぜた」というとまどいが抜けないが、大規模な魔術になるほど多様で混沌とした材料が必要となるように、「欲望と利益主義を突き詰めていく巨大で混沌とした構造物アメリカ」を文学として召喚するにはこれぐらいの供物が必要なのかもしれない。ギャディスは金融と小説とアメリカの悪魔融合をやってのけた。

JR

JR

 

 

舞台はニューヨーク、サブプライムローンの爆心地。アメリカを擬人化した11歳の少年JRが、正体を隠しながら、弁護士と政府のパイプと法の抜け穴を駆使して、欲望と利益主義を突き進める、新自由主義と巨大コングロマリットの到来を描く、真顔のブラックユーモア小説である。

「お金」という言葉から始まるこの小説には2種類の人間が登場する。「金がある人たち」と「金がない人たち」だ。

「金がある人たち」は、泣く子も黙るニューヨーク金融街の株式仲買人たち、貪欲な企業経営者と富裕層、富裕層と手を組む政治家と弁護士、企業や政府と取引する学校経営者といった魑魅魍魎たち。

「金がない人たち」は、小説家や音楽家や画家といった芸術家たちだ。

この2つのグループを、金に異様な執着を見せる少年JR、JRに目をつけられて「代理人の大人」としてこき使われる音楽家(兼JRが通う学校の教師)エドワード・バストが行き来しながら物語は進む。

−−問題はな、バスト、気味は思いやりがありすぎるってこと、くそみたいなやつらにいいように利用されるだけなのに……

基本的に金がない人は、金がある人からいいように利用され、巻き上げられ、安い賃金でこき使われる。(現代と同じだって? そのとおり!)

JRは「金がない人」から「金がある人」にのし上がるため、グレーな手法や真っ黒な手法を駆使しながら、金と企業規模をどんどん増やしていこうとする。この点では王道アメリカン・ドリーム小説と言えるが、その表現手法がすさまじい。 

 

本書にはいろいろやばい点がある。まず、この物理的側面から察せるとおり、登場人物と場面の数がとんでもない。私は今回、scrapboxを使いウィリアム・ギャディス『JR』読書Wikiを作りながら読んだ。登場する人物、企業、土地、場面をすべて数えて334で、登場人物は100人を超える。

さらに、本文の9割以上が「話し手がわからない会話文」のみで構成されている。戯曲や漫画も「会話のみ」だが、これらは話者を判別できるメタ情報が提示されている。一方、『JR』は話者のメタ情報がなにもない。話者の判別は、相手からの呼びかけ、持っている知識、仕事内容、人間関係、利害関係、話し方の癖で、読者が判断するしかない。

「声ですべてを語り尽くす」狂気のルールを読者は第一文から突きつけられ、満面の笑みを浮かべるギャディスによって文字の混沌へ容赦なく叩き落とされる。

唯一、「場面転換」では地の文が数行ほど登場するが、場面転換でも「声ですべてを語り尽くす」ルールの縛りが炸裂する。声で人とシーンをつなげる必要があるため、本書では場面転換を「話者の物理的な移動(声そのものが移動する)」「話者の物理的なすれ違い(声と声が物理的に近づきスイッチする)」「話者同士の電話(音声テレビ)(声と声がつながる)」によってさばいている。(読書Wikiの場面リストで場面転換の方法を書いているので、リンクをたどってほしい)

さらにギャディスは、語られる「声」のノイズを積極的に拾う。言い間違い、言いどもり、突然の話題転換、突然の専門用語(本書は幸いにも訳者による親切な解説がついている)、言葉遊びが乱立し、さらに話者どうしが互いに自分の言いたいことを言うばかりで会話が成立しないことも多々ある。

 

以上のように「声ですべてを語り尽くす」ルールがあるため、とにかく全体像が恐ろしく把握しづらい。

だが、悪いことばかりではない。「声ですべてを語り尽くす」ルールであるがゆえ、本書は読者に必要な情報も語ってくれる。一般的には地の文で解説する内容でも、『JR』ではすべて会話に盛りこんでいる。たとえば現実では、「優先株式」を知っている人は「優先株式とはなにか」を説明しないが、『JR』では読者のために、誰かの質問に答えたり電話で経緯を説明する形で、解説が入る。そのため本書には説明役が何人か登場する(口の悪いジョン・ケイツ知事がいちばんだと個人的には思っている)。

よって、本書の語りは「ノイズを入れることで本物らしく見せてはいるが、説明口調や、念入りに考え抜かれた情報配置」がある点で、現実世界に似せて精巧につくられた「人工物」でできている。 

もっともギャディスは場面や話者を入れ替えて、10000ピースのパズルをぶちまけるように情報を紙面上にまんべんなくぶちまけるから、やはりわかりづらいことに変わりはない。とはいえ、途方もない労力をともなうにせよ、読者はピースを集めていけば全体像が見えるようになっている。

とにかく、すべては声、声、声である。ギャディスの「声ですべてを描ききる」執着はなみなみならぬものがあり、声に故郷の村を焼かれたのかと心配になるほどだ。

 

「声だけでできた小説」ーー確かにこれだけでも驚異的ではあるが、表現形式がぶっ飛んでいる小説は世の中にたくさんあり、表現形式だけなら「変わったことをしている、やたら読みづらい小説」と思うだけだったかもしれない。

それに「子供が大人の世界をあっと言わせる」物語も、漫画やなろう小説にあふれているし、インターネットが普及した21世紀では「小学生がビジネスを立ち上げる」「中学生が1000万円稼ぐ」といったニュースもよくあるから、「少年JRが金融業界をあっと言わせる物語」は刊行当時の1970年代ほど珍しいものではなくなっている。「金融業界」の暴走については、私たちはすでにリーマンショックを経験してしまっている。

 

では21世紀の私たちが今『JR』を読む楽しみはあるのだろうか? もちろんある。

『JR』は、「アメリカの擬人化」「アメリカの戯画化」としてすばらしい。

『JR』は、新自由主義によって一部の富裕層に富が集中するアメリカ、政治と企業が密接に関係して互いに便宜を図り利益を享受するアメリカ、訴訟大国アメリカ、軍部の影響が強いアメリカを、悪い冗談としか思えない戯画化した人物たちによって、真顔のブラックユーモアを炸裂させて描く。

JRは、社員の給料を最低限に抑え、PRに1000倍の金をかける。政府や軍部とのパイプを作るために大金を払って退役軍人を雇う一方、製造原価と品質は最低にまで落とす。結果としてさまざまな犠牲者が出るが、そこは弁護士と契約で自分を守りとおす。現実にありすぎて、乾いた笑いしか出ない。

さらに驚くべきは、本書が1970年代に書かれたことだ。今でこそ「自由な競争(という名の、強い者が勝ち抜くタコ殴り)により経済成長し、経済の恩恵はトリクルダウンされて庶民にも行き渡る」という新自由主義の主張はいたるところで目にするが、アメリカが本格的に新自由主義を推し進めたのは1981年レーガン政権になってからだ。

つまり、ギャディスは過渡期だった1970年代に、数十年先まで続ていく「企業が利益を追求して膨れ上がって暴走するアメリカ」を書いたことになる。だから『JR』はまったく古びていないどころか、むしろ「1970年代にこれを書くなんてどうかしてる」という驚嘆と、「1970年代から変っていないどころか悪化している」という落胆を同時にもたらしてくれる。

−−……ものはたくさん手に入れれば入れるほど、さらにもっと欲しくなるんだ、今となっては自分がどれだけのものを持っているかも分からないだろ、ていうか、誰も信じないだろう、君みたいな、とても誰も信じないだろうな。

−−いや、でも、そういうものなんだもん! ていうか、どうせプレーするなら勝つためにプレーしろってこと、勝ったら勝ったで、今度は勝ち続けろってこと! 株式仲買人も、証券引受業者も、銀行も、やることはみんな一緒、何パーセントかの手数料を取るんだ、利子もそう、みんな専門家みたいな顔して互いに助言しながら取引をまとめる、それを全部やめさせるなんて僕にできるわけがないだろ! 

 

JRがいる世界はアメリカの縮図であるうえ、JRという少年は「アメリカ」そのもの、「アメリカの擬人化」でもある。

JRは協力者(という名の都合のいい小間使い)エドワード・バストに「僕はこれだけ先生のことを考えて、先生のためにやってあげてるのに!」「先生がお金に困ってるっていうから貸してあげてるのに!」「先生はいつも文句ばっかり言って、ぜんぜん言うことを聞いてくれない!」と非難する。

しかし実態は、なんども協力はいやだと拒否するエドワードを「今回だけだから」と言うことを聞かせ、頼んでもいない恩を売りつけ、金を制限することでコントロールしようとしているだけだ。JRはエドワードの他、先住民族にも「彼らのためにやってあげてる」と言いながら、彼らが望まない安い贈り物で何万倍もの価値を持つ権利をもらおうとする。

「あなたのためだから」「やってあげるから」と建前を言いつつ、利益のために他者を利用する姿は、アメリカそのものではないだろうか? 

本書には、「やってあげる」と言われる側として、アメリカの先住民、アフリカの発展途上国(天然資源が山のようにある)が登場する。これも明らかに、現実世界の皮肉である。

 

そんな利己的で修羅のアメリカ話だけだったら、心が折れるかもしれないが、本書は利己的な人たちのカウンターとして、「金のない人たち」「金よりも他に価値があるものがあると信じている人たち」を配置している。

彼らは金も権力もないが、言葉を放つ。その言葉は矢となって、金の亡者たち、そして読者に放たれる。「金がある人たち」と「金がない人たち」の対話は、本書の最大の見所のひとつだと私は思う。振り回されっぱなしのエドワード・バストが最後間近で叫んだ言葉、飲んだくれの教師であり小説家でもあるジャック・ギブズの言葉、富裕層の娘でありながら親族にうんざりしている教師エイミー・ジュベールの言葉は特にいい。

−−ねえ、ジューバート先生は考えたことある、どんなものにもそれを作って売ってる大金持ちがどこかにいるってことを?

−−そんなことしかあなたの頭にはないの?

−−うん、例えばあそこ……

−−……ええ、ほら、顔をあげて、ちゃんと空を見て! あの空で大金を稼いでいる人がいると思う? ……どんなものでも、必ずそれでお金儲けしているおお金持ちがいるのかしら?

−−ああ、うん、いや、ていうか……

−−それにほら、あそこを見て。月が昇ってくるわ、 見えない? あれを見ていると……

−−え、あそこ? ……いや、でも、あれは、ジューバート先生、あの光ってるのはただの、ちょっと待って……

現実では「金がある人たち」「金がない人たち」は分断されて心をかよわせることは難しいだろうが、本書では、最後の最後ですばらしくエモーショナルな対話がある。そして金の亡者たちはそれなりのしっぺ返しを食らう。

ギャディスは、しんどいアメリカの現実だけではなく、夢もちゃんと見せてくれる。ここが、本書が「よいフィクション」であるところだと私は思う。

−−できることでもやったら駄目なんだ……

−−何で?

−−向こうにいるのは生きた人間だからだ、それが理由さ! 

 

私は半分まで読んだところでWikiを作ることに決めて最初に戻り、読書Wikiを作りながら1回読んで、 その後にWikiを改修しながらもういちど読んだ。まだまだ読み落としているところがたくさんあるだろうが、それでも「金の国アメリカ」という巨大な構築物を堪能できた。

私が『JR』に思い入れがあるのは、著者ギャディス(登場人物ではジャック・ギブズ)に親近感を覚えるからかもしれない。ギャディスとギブズは、ともに芸術家として金以外に価値を感じる世界に心を寄せながらも、企業で働いて金至上主義の世界にも足を踏み入れている。両方の世界に足を踏み入れているがゆえに、本書はうまれたのだろう。

私もまた、かつては編集者として文字の話をして、現在は本書で描かれているようなコングロマリット外資企業で金の話にまみれて仕事をしている。だから登場人物たちの戯画ぶりはどちら側も本当に笑えるし、両方の世界に足を踏み入れているがゆえの「自我の引き裂かれ感」が沁みた。

ここまで読みづらい表現にして、ここまで読者を混乱に突き落とす仕掛けをほどこす必要があるのかは、2.5周した今でもわからないままだ。とはいえ、読了後にこれだけ書きたいことがあり、考えることがあるのなら、『JR』は私にとって特別でホーリーシット(まじやば)な小説なのだろう。 

全940ページ、1.2kgのアメリカに、心ゆくまで殴られた。JR少年、君こそがアメリカだ。

−−大きな子どもみたいなものさ、いつまで経っても四年生レベル、社長は六年生の教育課程を終えてないってバストから聞いたことがあるが、正直言うと、それが本当に思えるときもある……

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読書中に参照できるよう、要約やネタバレはなるべくしないように書いたので、これから読む人に使ってもらえるとうれしい。  

2019年2月、『JR』を読む13人が一堂に会する狂気の読書会に参加した。Wiki作成と2.5周読んだことについて、読書会に参加した友人のひとりから「なにがふくろうにここまでさせるのかわからない」と言われて笑った。パラノイアだから自分でもなぜかはわからない。

 読書会の成果。

 

『JR』が翻訳大賞を受賞した。木原氏の成果はすばらしいので、本当にめでたい。

お気に入りのシーンは、ニューヨーク名物の給水タンクが、トイレットペーパーの広告のため、トイレットペーパーに姿を変えられるところ。本書は「うんこ!ぱくぱく!」のような小学生レベルのおバカ発言が多いが、名物を広告のためにトイレやうんこの一族にしてしまうあたりが、ギャディスの真顔ブラックユーモア精神がよく出ている。

 

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