『菜食主義者』ハン・ガン|境界の向こうに行った人
ふとこの世で生きたことがない、という気がして、彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。
――ハン・ガン『菜食主義者』
境界の向こうに行った人
人間という業の深い生物にうまれ、不幸にも鈍感さを持ち合わせていない場合、生きる方法はいくつかに限られる。目の中に丸太を入れて見たくないものを見ないふりをするか、目を見開いて悪態とユーモアで世界と距離を保ちつつ生き延びるか、目を見開き続けて折れるまで傷つき続けるか、人間であることを放棄するか。
心に麻酔をかければ生きやすくはなるが、あるがままの心からは遠のいていく。麻痺することを拒み、恐ろしいものを見続ける人たちがいる。『菜食主義者』は、そういう人たちの物語である。
- 作者: ハン・ガン,川口恵子,きむふな
- 出版社/メーカー: cuon
- 発売日: 2011/06/15
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本書は「菜食主義者」「蒙古斑」「木の花火」の3編から成る小説だ。物語は、韓国人女性のヨンヘがある日「菜食主義者」となるところから始まる。
ヨンヘは、ある日、冷蔵庫にあった肉をすべて捨て、ヴィーガン(肉や卵、乳などの動物性の食物を口にせず、野菜だけ食べる)になる。妻のことを「個性がなくつまらない女」と評していたヨンヘの夫は、妻の豹変を受け入れず、夫の圧力、家族の圧力、常識の圧力を使ってヨンヘに肉を食べさせようとする。対するヨンヘは「私はお肉を食べません」と拒否し続ける。やがてヨンヘは家族や夫、社会にとって「異質な者」となり、彼女は暴力と圧力と無理解にさらされていく。
ヨンヘはごはん版「バートルビー」とも言える、徹底的な拒否を示す。バートルビーは理由をいっさい明かさないが、ヨンヘは菜食主義者となった理由を断片的に語る。
ヨンヘはずっと黙りながら生きてきた。黙ってはいたが、従順だったわけではなかった。彼女は自分と周囲の違いを知りながら黙っていただけだ。自分と世界の裂け目がどんどん広がっていくのを見つめ続けた彼女は、ついに落下した。
周囲から見れば彼女の変化は突然の天変地異のようなものに見えただろう。しかし彼女にとっては、すこしずつ水位が上がっていた水がついにあふれ出るような変化だった。
一族のほとんどはヨンヘを理解しないが、生きづらい2人がそれぞれのやり方で菜食主義者の心に近づいていく。「野菜を食べない人」という意味での菜食主義者はヨンヘだけだが、「境界を越えていく人」という意味での菜食主義者は3人いる。3人の独白を経て、本書は「菜食主義者とは何者か」をあぶり出す。
彼は涙が出そうだった。それが思い出のためなのか、友情のためなのか、それとももうすぐ彼が越えようとする境界に対する恐怖のためなのか、よくわからなかった。
疲れてるの。
本当に疲れてるの。
彼は低く言った。
ちょっとだけ我慢して。
そのとき、彼女は思い出した。その言葉を、彼女は夢うつつに数えきれないほど聞いたことを。夢うつつに、この瞬間だけ乗り越えれば大丈夫だろうと思って耐えてきたことを。こんこんと眠ることで苦痛を、恥辱さえも消したりしたことを。そうした朝の食卓では、思わず箸で自分の目を刺したくなったり、湧いているヤカンのお湯を頭にかけたくなったりしたことを。
人間は「自分の存在や正しさを疑わせる他者」を恐れ、攻撃したくなるのだと、あらためて思い知らされる。
ヨンヘは人間を恐れ、人間である自分を恐れ、人間であることを拒否しようとする。周囲の人々は、そんなヨンヘを恐れて排除しようとする。人間であることを拒否されると、まるで自分が拒否されるような、アイデンティティの根っこが揺らぐような、不安な気分になるからだろう。
周囲の人々は「異常な人間」であるヨンヘを「健康な状態」に戻そうとする。だが、そもそも人間は健康な生き物なのだろうか? 麻痺して現実を見ないことを、健康と呼んでいるだけではないだろうか?
ふとこの世で生きたことがない、という気がして、彼女は面食らった。事実だった。彼女は生きたことがなかった。記憶できる幼い頃から、ただ耐えてきただけだった。
菜食主義者も、菜食主義者を拒む者たちも、どちらもそれぞれの作法で狂っている。狂わざるをえない世界を、本書は暗示している。
菜食主義者は拒否する。肉を拒否する。肉を食え、さあ食え、違うことをするな、不快にさせるな、ずっと黙って従ってきただろう、前と同じようにすればいいんだ、誤った考えを矯正してやろう、治療が必要だ、おまえのためだから、と血に濡れた肉を口元に運んでくる手、かわいそうだから麻酔を打ってあげる、おまえのためだから、と拘束する手、他者を搾取して犠牲にすることで「うまくやっている」つもりの手、そういう無数の手を拒否する。
……思ったより簡単なことかもしれない。
彼女は迷いながら、しばらく口を閉じる。
狂うというのは、だから……。
ハン・ガン作品の感想
内に向かうしんどさ。
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元祖「拒否し続ける人間」文学。ヨンヘは自分の心を語るが、バートルビーはまったく語らない。だからこそ、より恐ろしく、強烈な印象を残す。
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