キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『侍女の物語』マーガレット・アトウッド

わたしたちは二本の脚を持った子宮にすぎない。聖なる器。歩く聖杯。
−−マーガレット・アトウッド『侍女の物語』

女は男の所有物

2017年、Huluがディストピア小説『侍女の物語』をドラマ化して人気を博しているという。トランプ政権になって『1984年』とともに『侍女の物語』が平積み現象が起きてからすぐドラマ化されたことになる。Hulu先生、仕事がはやい。


The Handmaid's Tale 2017 Official Trailer

 「映像化したら迫力があるだろう」と思っていたから、さっそくトレーラーを見てみた。壁に揺れる絞首の縄、義務をひたすら説く監視役の老女、胃がぎりぎりするような不安と閉塞感、なにより侍女たちが着る服の一面の「赤」が、想像以上にえぐさをかもし出している。 彼女たちがまとう赤は女の色、血の色、妊娠の徴の色、怒りの色、警告の色であり、彼女たちの姿を見るごとに心が落ち着かなくなる。

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

侍女の物語 (ハヤカワepi文庫)

 

 

もうわたしたちはお互いのものではない。わたしは彼の所有物になってしまったんだわ、と。

1984年』は災厄が男女平等にやってくるディストピアだが、『侍女の物語』は女性にとってのディストピアである。

アメリカがキリスト教原理主義国家「ギレアデ共和国」となり、女性は「男性の所有物」となった。女性たちは仕事を奪われ、財産を奪われ、男性に依存しなくては生きていけないように無力化されている。

この世界において、女性の価値は「妊娠できること」のみだ。妊娠できる女性(公害のためにとてつもなく数が少なくなっている)は権力者の子供を産む奴隷「侍女」となり、大多数の「不完全女性」は奴隷収容所に送られる。

主人公オブフレッド(Of-Fred 「フレッドの」という意味の名前)は貴重な「侍女」として高官の男のもとで生きている。

このような非人間的な抑圧下では、心を殺したほうがずっと楽に生きられるが、彼女は「正気」を保とうとしている。そのためにかつて自分が自由だったころの記憶、夫の記憶、娘の記憶を思い出しては、事実と希望を織り交ぜて語り続ける。

わたしは自分がどこにいるか、自分が誰で、今日がいつかを知っている。これらのテストによって自分が正気なのかがわかる。正気でいることは、貴重な財産だ。わたしはかつて人々がお金を蓄えたように、正気を蓄えておく。いざというときに困らないように。 

彼女が狂気の現実から逃れられるのが、自分の部屋で過ごす「夜」だ。なんども挟まれる「夜」という章では、オブフレッドが記憶や夢、感情に激しく心を揺さぶられる描写が出てきて、読んでいるこちらも揺るがされる。

 

マーガレット・アトウッドは「抑圧される人間」が恐怖によって行動力を失ったり、希望を抱いては現実との差異に絶望したり、自暴自棄になったり、暴力を振るいたくてたまらなくなったり、反抗してくれそうな他人に都合のいい期待を抱いたり、本当にささいなことに執着したりする心理を、えぐいほどに描き出している。

本書がつらいのは、こうした心理描写が、ナチス収容所の記録、独裁政権下に生きた人々の記録、心理学の研究による報告とほぼ同じ、ということだ。『侍女の物語』はかなり現実に似せて書かれており(実際アトウッドは「『侍女の物語』で私が想像したものはない」と言っている)、読む者は「徹底的な抑圧」による不安と恐怖と閉塞感を疑似体験することになる。

かつ、侍女たちが置かれている悲惨な状態は、だいたいどこかの書物かニュースで見たことばかりだ。ディストピアというよりは「ああ、これはあそこで見た」「ここで見た」と思い出されることばかりであり、この既視感がまたいっそう心を折ってくる。

 

つらさ濃縮率100%のまま、物語は「希望」と「なぜこうなってしまったのか」という問いにひっぱられて進む。

アトウッドは、読者を重いストレス下に置いたまま「希望」というエサを与えつつ、飽きさせずにひっぱっていく手腕がとてもうまく、よい調教者だと感心する。ラストも「これぞ抑圧胃痛フィクションのラスト!」と拍手喝采したくなる隙のない幕引きであり、多くの人が失望することなく胃痛を楽しめる仕様になっている。

やるせないのは、1980年代に書かれた本書を「かつての物語」としてではなく「現実の物語」として読んでしまう世界になっていることだ。Huluドラマは今年アメリカで大人気となり、シーズン2が2018年に決定している。現実はこうやってフィクションを追いかけてくることがある。

 

Recommend:笑えるディストピア、笑えないディストピア

『侍女の物語』と同じく2017年アメリカで大人気の元祖ディストピア。『1984年』はスローガンがすがすがしいほど馬鹿馬鹿しいのでまだ笑いがあるが、『侍女の物語』はシリアスすぎて鬱度が増す。

女性作家が現実世界の闇。なぜ差別はなくならないのか、なぜ戦争は起こるのか、なぜ理想郷は永遠に実現しないかを描く。トニ・モリスンとマーガレット・アトウッドはどちらも「女性の抑圧」を描くが、どちらもユーモア要素がまるでないので読むのが本当にしんどい。

1984年』に並ぶ、元祖ディストピア小説。『侍女の物語』には抑圧から自由な「女」が出て来るが、『華氏451度』にも似た「希望の象徴」が出てくる。こちらはディストピア小説の中ではマイルド。

笑えるディストピア小説。知性も権威もある知的おじさんが紛争地帯でまったくの無力となり、ぶちきれながらもサバイバルする。世界観としてはディストピアなのだが、ブラックユーモアが満ちあふれている。

笑えるディストピア小説。言論統制のためひたすら書物を廃棄する愛書家が、書物を愛しては殺し、愛しては殺し、狂っていく。東欧は長く抑圧下にあったためか息を吸うようにディストピアを描くが、ユーモアをふんだんに盛り込んでくるので好き。

殺伐サバイバル系ディストピア。この世の終わりの無法地帯なので、上述したような「権力の監視下にある系ディストピア」とはまったく異なり、キル・オア・デッドの物騒な価値観に支配されている。『ザ・ロード』は、きれいごとと現実の狭間でどこまで命をつなげられるか、天秤の揺れを胃痛を感じながら楽しむ小説。

殺伐サバイバル系ディストピア。殺戮どんとこい!と主人公がぶち切れてしまう環境とはなにか、戦争は人の心をどう破壊するかを描く。笑い要素はないよ。