キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『パラダイス』トニ・モリスン

彼を怒らせたのは、この街、これらの住民たちの何だろう? 彼らが他の共同体とちがうのは、二つの点だけだ。美しさと孤立。
−−トニ・モリスン『パラダイス』

楽園で育つ殺意

自分がいる共同体に不満を抱く人間、なじめない人間がとりうる選択肢は3つある。

共同体の中で、自分が生きやすいように変化をうながす。共同体を出て、別の共同体に所属する。共同体を出て、新しく自分たちのための共同体を作る。

個人の場合は「共同体を出て別の共同体に所属する」がいちばん楽だが(転職などはまさにそうだ)、ある規模の集団になると、最初か最後の選択肢を選ぶことが多いように思える。

『パラダイス』の登場人物たちは、最後の選択肢を選んだ人たちだ。彼らは黒人で、白人が優位に立つアメリカの町を離れて、自分たちだけの楽園を作ろうとした。

黒人による黒人のための町。皆が幸せで争いがなく、平等で平和なパラダイス。

パラダイスはパラダイスでなければならない。だから異端者は排除しなくてはならない。

パラダイス (ハヤカワepi文庫) (トニ・モリスン・セレクション)

パラダイス (ハヤカワepi文庫) (トニ・モリスン・セレクション)

 

 

舞台は黒人たちが作り上げた架空の町「ルビー」。『パラダイス』というタイトルから想像しうる平穏さとは無縁な、暴力と不信と殺意に満ちた男たちの登場によって物語は幕を開ける。

 彼らが襲撃しようとしているのは、町の外れにある「修道院」である。男たちいわく、修道院には堕落した女たち−−魔女が住んでいる。この襲撃は正当であり、歪みつつある町を立て直すために必要なことだ。楽園はきちんとした男たちによって治められていなくてはならない。これが男たちの論理である。

次は、修道院に住む女たちの暮らしと、これまでの人生にスポットライトが当てられる。彼女たちはそれぞれが、彼女たちを苦しめるものから逃れて修道院に流れ着いた「はぐれ者」だ。修道院の女たちは自分たちで畑を耕しているため、ほぼ自給自足の生活をしている。だから、流れ者でも住み着ける。誰も彼女たちがそこにいることを拒まない。かといって滞在を強要もしない。つかず離れずの、ゆるい原始的共同体を営んでいる。

「ここじゃ、毎日がこんなふうなの?」パラスは彼女に訊いた。

「いいえ、とんでもない」メイヴィスは傷ついた肌を撫でてやった。「ここは、地球上でいちばん平和なところよ」

彼女たちが営む生活はまさに平穏そのものだ。確かに、女たちならではのとんでもない罵り合いも、めんどうくさいどろどろした感情もある。だが、彼女たちは誰かを攻撃しようとも、傷つけようともしていない。傷ついた人間を受け入れ、適度に癒やし、適度に放置しているだけだ。牧歌的なパラダイス。

一方、男たちのパラダイスは「楽園! 楽園! 楽園を維持しなければ!」と叫んでいて、よほど生きづらそうに思える。実際に、男たちのほうが生きづらかったのだろう。だから彼らは、平穏な修道院を襲撃した。

 彼はいま、彼らの無益な死にのどを詰まらせているのだろうか。それが、この暴力をふるいたい切望の発端なのか。

あるいは、ルビーが原因か。

 彼らを悩ますものはみんな、女から来るにちがいない。

 

本書は「共同体がうまれて自壊するまで」というライフサイクルのえげつなさを描き出している。問題は襲撃そのものではない。男たちを暴力にはしらせた「種」はなにか、どうやってその種が楽園だったはずの町で育ってきたのか、ということだ。

読み進めれば進めるほど、男たちの襲撃はただの八つ当たりでしかない。ルビーの象徴とも言える、始祖が作った巨大なオーブンに刻まれた文字の解釈が世代によって異なり、町が変わりつつあることは、修道院のせいではなく、ルビーの内奥からうまれた変化だ。だが、変化を恐れる人たちは抵抗する。そして、わかりやすく「自分たちとは異なる者」を血祭りに上げる。

 

古今東西ではこれまでに、腐るほど「楽園」「桃源郷」が作られ、そのほとんどが腐り落ちてきた。作った当時は斬新で完璧で理想的なはずなのに、やがて不信と敵意がうまれ、彼らが忌み嫌っていた「自分たちを阻害してきた加害者」と同じことをするようになる。

十世代というもの、彼らは、これまで無くそうと戦ってきた差別は自由対奴隷、金持ち対貧乏人の差別だと信じていた。つねに、ではないが、ふつう、白人対黒人の差別。ところが、いま、彼らは新しい差別を見た。肌の色の薄い黒人対黒い肌の黒人。おお、白人の頭のなかでは違いがあると知ってはいたものの、これまで、黒人自身にとってそれが重要であり、重大な結果を招くとは考えたことさえなかった。

 

『パラダイス』は、たとえどんなに理想を共有する共同体であっても、分裂がうまれ、分断し、差別がうまれる、ということを語っている。

不信と不満を栄養にして敵意は育ち、大義名分という隠れ蓑を経て、暴力として花開いて墜落する。

もう何百回、何千回、何万回と人類がくりかえしてきていることを、ルビーの住民も、現実世界の私たちもまだ繰り返している。『パラダイス』を読むと「人類……」と頭を抱えてげんなりしてくる。

 

なじめない者どうしが集まって、最高にクールな仲間たちだけの楽園を作ろうとしても、それは規模が小さい場合の話であり、あるていど規模がスケールすれば、なじめない者は出てくるし、時が経てば環境もルールも変化していく。人間はちょっとの差異を見つけて、区別し、差別する。区別と差別が、もはや人類が避けられない業なのだとしたら、戦争などなくなるわけがない。

こう書くと、とにかく悲惨な物語のようだが(実際に悲惨ではある)、モリスンはところどころに幻想を織り交ぜてきており、それほどいやな後味は残さない。これだけタイトル詐欺な鬱話を展開しておいて、最後はなんだかんだパラダイスっぽく終わっているのもいい。「男のルビー」と「女の修道院」、「男が夢想する楽園」と「女が夢想する楽園」という二項対立が明確すぎるきらいはあるが、人類はすでに「魔女狩り」という燦然たる黒歴史を持っているので、やむなしという気もする。

永遠のパラダイスは実現しない。だからこそ、人類が何度も夢を見ては、自分たちはこれまでの人たちとは違う、と言いながら、挑戦し続けるのかもしれない。

 

Recommend:アメリカ、生きづらい修羅の国

8月だからといって安直に『八月の光』を読むと文学熱中症になって頓死するから気をつけよう。黒人の血が入っているらしい徹底的に生きづらい男と、未婚なのに妊婦という同じぐらい生きづらいはずなのに超然としている女の、えげつない差。

生きづらいアメリカ ベスト不動の1位「南部」の中でも、えげつないベスト3に入る本作は、読了後の衝撃をいまだに忘れられない。これはすごいよ。

あまりにクラシックすぎて皆さん忘れているかもしれないが、『緋文字』もまた、生きづらいアメリカ小説である。「プロテスタント怖い」と心の底から思った。

上述した修羅の国に比べるとだいぶマイルドな、ちょっとだけ生きづらい町、ワインズバーグ。田舎らしい閉塞感を味わいたい人に。

 

アメリカはアメリカでも、北米ではなく南米。「俺はあの男を殺す」と予告されているにもかかわらず、殺人は行われた。皆が、加害者と被害者を知っていた。にもかかわらず、なぜ誰もとめなかったのか。共同体の恐ろしさを驚異的に描いている。

 Toni Morrison "Paradise", 1997.