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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『イザベルに ある曼荼羅』アントニオ・タブッキ

イタリア文学 ☆☆☆

死とは曲がり道なのです、死ぬことはみえなくなるだけのことなのです。

アントニオ・タブッキ『イザベルに ある曼荼羅

さいなむ悔恨

この世で生きることはあみだくじのようなもので、わたしたちはおびただしい選択をくりかえしながら、人生という不可逆の線上を走っている。

右か左か、寝るか起きるか、魚料理か肉料理か、笑うか怒るか、この手を取るか取らないか、こんばんはかさようならか。ほとんど無意識のうちに、わたしたちは息を吸うごとになにかを選び、なにかを捨てている。

岐路は目の前にあるときは岐路とわからず、通りすぎてしばらくして肩越しに振り返り、それと気づく。
「あの時、分かれ目と知っていれば」「あの時、ああしていれば」
人はこれを悔恨と呼び、アントニオ・タブッキは「帯状疱疹」と書いた。

「わたしはよく、こんな風に思うのです。帯状疱疹というのは、どこか悔恨の気持ちに似ているとね。わたしたちのなかで眠っていたものが、ある日にわかに目をさまし、わたしたちを責めさいなむ。そして、わたしたちがそれを手なずけるすべを身につけることによって、ふたたび眠りにつく。でも、けっしてわたしたちのなかから去ることはない」 アントニオ・タブッキ『レクイエム』

本書は、「なにもかも帯状疱疹のせいだ」と書き残して死んだ男の、病と治癒の物語である。

イザベルに: ある曼荼羅

イザベルに: ある曼荼羅


男の名前はタデウシュという。『レクイエム』の主人公「私」の友人であり、7月最後の日曜日に「私」が絶品料理サラブーリョ(いちどでいいから食べてみたい)をともにした男である。『レクイエム』の「私」と三角関係にあった女性イザベルの死について知るために、おおいぬ座の一等星シリウスのあたりからリスボンへ戻ってきた。

イザベルは政治犯として追われていたという。イザベルは誰の子かわからない子を身籠ったという。イザベルは堕胎したという。イザベルは自殺したという。イザベルはガラスの破片を飲み込んだという。イザベルは睡眠薬で自殺したという。イザベルの葬儀が執り行われたという。でも誰もイザベルの最期を知らず、亡骸も見ていない。

で、思うのです。ひとりの生涯をおさめた一連の写真とは、複数の人に分割された一個の時間なのか、それとも複数の時間に分割されたひとりの人間なのか、とね。

イザベルはどこへ行ったのか? イザベルは誰といたのか? イザベルは死んだのか? イザベルはなぜ死んだのか? おなかの子は自分の子なのか? タデウシュはリスボン、マカオ、スイスをさまよい、イザベルが消えた謎の中心点へと向かっていく。

イザベルは過去の住人です、と男は答えた。そうかもしれません、と私は言った。ですが、私がここに来たのは、その過去をもう一度組み立て直すためです。曼荼羅をつくっている最中なのです。……その円を、私は中心にむかって狭めているところなのです。


タデウシュはじつに模範的な文学おじさんで、衒学的で格好つけ(その描写はとくに『レクイエム』で現れている)、そしてナイーブで、自分が女の死を引き起こしたのではないかと考えている。まさに男の感傷を体現しており、そのためかハードボイルド探偵小説の気配がある(やれやれタデウシュ)。

男がかつて愛した死んだ女のことを物語るときの作法は、ダンテ『神曲』やゲーテファウスト』の時代からあまり変わらない。自分が女の死を引き起こしたかもしれないことに怯え、自分にそんな責任はなかったと思いたがるのと同時に、そこまで女に愛された自分を幻視してひそやかに満足もする。こうした女の深い愛とゆるしを求める物語ではおうおうにして、女は最終的にすべてを受け入れる女神として描かれる。幻視しながらでしか町を歩けない作家タブッキもまた、みずからの幻想の中にこの幻想を組み込んでいる。

私的な妄想、個人的な悔恨、それは時の侵食をうけたとしても、川の水が小石の角を丸くするように、かたちを変えることはない。

タブッキの著作を読んでいると思う、彼自身がずっと重い帯状疱疹にかかり続けていたのではないかと。

わたしたち人間は、縦横無尽に走るあみだくじにからめとられた任意の点Pだ。知らずのうちに何かを選び、何かを捨て、後になって捨てたものの大きさ、喪失と空白に気がついておののく。だが、任意の点は足を縫いとめられて後戻りができない。痛みを抱え、呼吸がとまるその瞬間まで、地平線の向こうの消失点へひた前進するばかりだ。

だから、悔恨は消えずかたちを変えることもないと嘆いた作家は、小説を書いたのではないだろうか。

わたしたちがけっして戻ることができないあの岐路に、小説家は想像力でもって飛翔して舞い戻り、あったかもしれない別の道、あってほしかった別の結末をみずからの魔法で構築する。これは幻なのだという徴をいくつも残して夢にひたりきることを制しながら、自分が見たかった夢、会いたかった人に会い、聞きたかった言葉を聞きにいく。

悔恨を癒すことなどできないと思いつつも諦めていないから、不可能な事柄について書き続けたのではないか。

タブッキの作品はときに感傷的にすぎるが、それでも彼の小説を読み続けるのは、この切実さ、諦めの悪さと愚かさが、いかにも人間らしくてどうにも嫌いになれないからかもしれない。

わたしたちは過去には戻れない。あの日の選択を取り替えられない。わかっているが、願わずにもいられないのだ。

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帯状疱疹本。

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本書に登場するタデウシュとイザベルが登場する。ポルトガル料理がとにかくおいしそうで垂涎する。すばらしいリスボン案内にもなっている。

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W.G.ゼーバルトもまた重篤な帯状疱疹の患者である。タブッキとゼーバルトはともに過去を振り返り続けた。両者とも写真についての文章が多いことは興味深い。