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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『カンポ・サント』W.G.ゼーバルト

写真が人の胸をあれほど衝くのは、そこからときおり不思議な、なにか彼岸的なものが吹き寄せてくるからである。——W.G.ゼーバルト『カンポ・サント』

傍らにいるのだ、死者は

ゼーバルトは、どの町を歩いていてもいずれはの第二次世界大戦瓦礫に漂着するという、希有な難破の才能をもっている。彼は旅にまつわる散文をいくつか残しているが、彼が訪れた土地すべてが地続きのひとつの荒野であるような気がしてならない。

陰鬱な英国の海岸も、陽光ふりそそぐ南のコルシカ島も、第二次世界大戦瓦礫の山も、彼の筆にかかればすべてが「死者がざわめくモノクロームの追憶」となる。ゼーバルトは端から見れば観光客だろうけれど、彼は観光客が見ているものを見ていない。アウステルリッツとは彼だったのだと思い知る。

カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション)

カンポ・サント (ゼーバルト・コレクション)

本書には、コルシカ島をめぐる4つの散文と、文学者をめぐるエッセイがおさめられている。
ゼーバルトは観光客にはまったく向いていないようで、彼の目はコルシカの景色からすぐに離れ、過去の追憶と記録ーーコルシカ島でうまれたナポレオンの歴史、マフィアの血讐、村の死生観——へ地滑りしていく。

彼の描くコルシカ島には観光客はひとりもおらず、地元の人の半分ぐらいは死者であるのではないかと思わせられる。そもそもコルシカ島は実在しているのだろうか。白黒の観光写真だけでしかもう見ることのできない、失われた島ではないのか。そんな錯覚さえおぼえる。

コルシカには、いわば死にお仕えをする特別な人間がいる……見た目は共同体のほかの成員とまったく変らないが、夜に鳴ると肉体を離れて、外へ狩りに出かける能力を持つとされていた。

旅行先でゼーバルトが目にとめるのは、やはり彼らしいエピソードだ。冗談のような逸話と思いがけない過去とのつながり、そして死者の話。

コルシカ島はナポレオンが生まれた土地として有名で、散文の中にも数奇なナポレオン伝説がいくつか登場する。あまりにも生涯が破天荒だったナポレオンはあらゆる伝説をうみだす格好の装置であるらしく、ゼーバルトが出会った素人ナポレオン研究家によれば、ヨーロッパ全土を巻き込んだあの戦いは、ナポレオンの色盲が原因だったという。赤と緑の区別がつかないナポレオンの目には、血が戦場に流れれば流れるほど、緑がいきいきと芽吹くように見えたのだと。

コルシカ島の死生観はとくにゼーバルトの心をとらえたようで、表題の「聖苑(カンポ・サント)」は本書のなかで最も筆が冴えわたっている。コルシカの人々は「死者とともに」という死生観を持っていて、日本のお彼岸や祖先信仰に近いものを感じる。死者たちは「とこしえに彼岸の安全な距離にいるのではなく、かわらず存在する親族のひとりであって、ありようだけが特別だった」のであり、年寄りの女たちはなにかにつけて死者たちに相談ごとを持ち込んだ。この死者信仰はキリスト教とはかけ離れており、いくども独立を試みてきたコルシカ島の独自性、本土との物理的かつ精神的な距離を思わせる。


エッセイはコルシカ島の散文とは異なる時期に書かれたが、「死」という共通言語があるため、散文とエッセイはとぎれを感じずに地続きで読むことができる。

私は幼いころ、蓋の開いた柩のかたわらにはじめて佇んだときのことをありありと憶えている。かんなくずを敷きつめた上に横たわった祖父の身に、なにか破廉恥な、生き延びた自分たちにはなすすべもない不正がおこなわれたのだ、という漠とした感じが胸にわだかまっていた。

ゼーバルトはときどき、こちらがいたたまれくなるほど鮮烈に「死者への負い目」を開陳する。「歴史と博物誌のあいだ——壊滅の文学的描写について」というエッセイでは、戦後ドイツ文学が自国の破壊を描かずに沈黙したことを批判するとともに、「生きのびた者が感じる咎めの意識」「犠牲者にならなかったことの羞恥」と書いている。4年と3日前、わたしも似たような感覚を覚えた。負い目と、その負い目を感じることへの羞恥。西や外国に住んでいた友人たちも、物理的な距離が遠ければ遠いほど、同じような心情を口にした。
 

このエッセイでは、壊滅した自分の町を目にしたときの「圧倒的な幸福感」という、およそ想像を絶する心情(だから多くの人は沈黙した)を描いており、琴線をたたき切られるような心地がする。

つまるところ私たちの誰ひとり知ってはいないのだ——自分がどのようにして他人の皿に載ることになるのか、あるいはむかいの人間の固めた拳にいかなる秘密が隠されているのか。

ゼーバルトは戦時中、都市におらず壊滅を目にしなかった。災禍に飲まれなかったことの負い目が、死者への親近感と過去の想起、という彼の作風をかたちづくっているのだとしたら、なんと悲しいことだろう。第二次世界大戦を生き延びたドイツ人文学者は、忘れるか、沈黙するか、記憶と歴史と心を書きかえるか、誠実と自責の狭間で狂いそうになりながら筆をとるかしかなかったのか。

戦後ドイツを代表する作家ギュンター・グラスゼーバルトはあまり好きそうではないなと思っていたらやっぱり辛口だった)は、おぞましいナチスを描いた作家として国民的名誉とノーベル文学賞をうけたが、彼こそがかつての武装親衛隊だった。ノーベル賞の作家でさえ——だからこそだろうか——60年以上も過去の告白を拒みつづけた。だが、そうでもしなければ彼はまっとうに生きのびられなかっただろう。


人間は、あまりにもつらい現実を目の当たりにしたら正気を保てない生き物である。だから、生きるために「忘却」という鎮痛剤を打つ。

おそらくゼーバルトにとって小説家とは、鎮痛剤なしに外科手術にのぞむ狂気の患者のようなものなのかもしれない。だから彼は、想起の代償としての死をほのめかしながらも、過去を想起しつづけ、忘却に抗おうとするかのように書きつづけた。

想起し続けるものは、忘却によってのみ生きのび得るほかの者の怒りを買うからである。

ゼーバルトの死のことを、まだ生きのびているわたしは考える。死者に心を寄せていた彼は、運転中に心筋梗塞を発症してこの世を去った。意識を手離す直前の白い加速のなかで、彼はなにを思ったのか。

白黒写真はなにも答えてはくれないが、遺稿となった散文にゼーバルトはこう書き残しているーー「まだ私たちの傍らにいるのだ、死者は」。


収録作品

気に入った作品には、*印。

散文

エッセイ

  • 異質・統合・危機―ペーター・ハントケの戯曲『カスパー』*
  • 歴史と博物誌のあいだ―壊滅の文学的描写について*
  • 哀悼の構築―ギュンター・グラスとヴォルフガング・ヒルデスハイマー
  • 小兎の子、ちい兎―詩人エルンスト・ヘルベックのトーテム動物
  • スイス経由、女郎屋へ―カフカの旅日記によせて
  • 夢のテクスチュア
  • 映画館の中のカフカ
  • Scomber scombrus または大西洋鯖―ヤン・ペーター・トリップの絵画によせて
  • 赤茶色の毛皮のなぞ―ブルース・チャトウィンへの接近
  • 楽興の時
  • 復元のこころみ
  • ドイツ・アカデミー入会の辞

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ノーベル賞を受賞したドイツ人作家がじつはナチスの武装親衛隊に所属していたことをあきらかにした告白の書。告白といいながらグラスは「もう昔のことなので忘れてしまった」と書いている。生存するためにグラスがやったことはおそらく当たり前の判断なのだろうが、小説家としての矜持はどうだったのだろうか?第二次世界大戦をしたたかに生きのびたアダルト・チルドレンの独白。彼は記憶を改竄し、わざと露悪的にした。「玉ねぎ酒場」のエピソードが秀逸。

ゼーバルトが本書のエッセイと『空襲と文学』で「ドイツの壊滅を描こうといたきわめて希有な作家」と誉めた作家。破壊の描写と、その破壊を目の当たりにした人々の心理に凍りつく。


W.G.Sebald "Campo Santo", 2003.