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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ワインズバーグ・オハイオ』シャーウッド・アンダソン

自分以外のものの声が、人生には限界がある、とささやきかけてくる。自分自身と自分の将来について自信に溢れていたのが、あまり自信のない状態に変る。もしそれが想像力ゆたかな青年ならば、一つの扉が無理矢理こじあけられ、生まれてはじめて眼にする世界の姿が見えてくる。  シャーウッド・アンダソン『ワインズバーグ・オハイオ

自意識の箱庭

人間は、見たい自分像を見る。有能な自分、愛され尊敬される自分、社会的名誉を得る自分、異性を惹きつける魅力を持つ自分、凡庸な人たちとは異なる“変わっている自分”を切望する。

だけど現実はだいたいその理想とは違っていて、わたしたちは英雄でも姫君でもないという現実が目の前に立ちはだかる。諦めて現実を受け入れる人たちもいれば、理想のために邁進する人もいるし、目の中に丸太を入れて自分の見たい幻想をこそ「真実」と呼ぶ人たちもいる。シャーウッド・アンダソンは、彼らにとって真実を求める「グロテスクな人たち」の自意識と生態を、架空の田舎町ワインズバーグに書きこんだ。

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)

ワインズバーグ・オハイオ (講談社文芸文庫)


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ワインズバーグ*1は、オハイオ州にある架空の田舎町だ。町を横切る列車の駅、小さな食堂と食料品店、金物屋、うらぶれた旅館、知性の本拠地と見なされている新聞社、そのほかには畑と地平線があるばかりの、小さな小さな箱庭である。この箱庭には、じつに凡庸だが本人はそう思っていない人々 つまりはわれわれと同じ人々 たちが生活している。

自分は神に試されていると信じる老人、自分の“特別”な半生を若者に語りたい衝動を持つ中年の医者、自分を「変人」扱いする世間が悪いんだと憎む青年、あの女が自分のもとから去ったのは結局は他の女と大差ないからだと自分に言い聞かせる男、恋人は自分のために帰ってくると信じ続けた女、身を焦がす情欲は神の啓示だと思いこむ聖職者、若い男を求める女教師、こんな田舎町から出ていきたいと静かな野望を燃やす新聞記者 。

22本の短編にはそれぞれ主人公となる語り手がいるが、新聞記者の若者ジョージ・ウィラードはいろいろな物語に登場して彼らをつなぎ、やがて物語全体がウィラード青年の物語に収束していく。新聞記者という職業柄か、ウィラード青年はしょっちゅう呼び出されたり、訪問を受けたり、自分語りを聞かせられたりと、ワインズバーグの自意識を放りこむ井戸のような役割になっており、大変だろうなあと少し同情したりもする。

彼はベル・カーペンターに、自分は以前の弱さに気がつき、今は変ったのだ、ということをわからせたかった。「ぼくは以前のぼくじゃないよ」そういって、彼は両手をポケットに突っ込み、女の眼を大胆にみつめた。「自分でもわけがわからないんだが、本当なんだ。今後はぼくを一人前の男として扱ってくれなきゃいかんよ。それがいやなら、つきあいは断る。これは本気だよ」


人が表に出そうとしない、しかし自分の内にあることは知っている自我という化け物を、アンダソンは容赦なくさらけ出す。

誰もかれもが飢えている。認めてください、愛してください、すごいと言ってください、この苦しみから救ってください、理想の自分を実現する魔法をください。だが、いつでもどこでも愛と慈しみは不足していて奪い合いだ。

「おやじはものがわからない人間だが、おれは違う」

……「おれはわかりすぎるぐらい、もののわかる人間だ。だから、がまんできんのだ。……町では、夕方になって、おれが郵便局へ言ったり、汽車がつくのを見に駅に行っても、誰一人話しかけてくるやつもいない。みんな、まわりにいて笑ったり話したりしているのに、おれには一言も声をかけないんだ。そのうちにこっちも妙な気がしてきて、口がきけなくなる。帰ってきてしまう。何もいえない。何もいえないんだぜ」
若者の怒りは手が付けられなくなった。「こんなことはがまんできないぞ」……彼は叫んだ。「こんなことががまんできるようにできていないんだ、おれは」

妻のことが頭にうかぶと、瞬間、彼女を憎んだ。「あいつはいつも愛欲をもやすことを恥しがっている。おれはあいつに欺されてきたんだ」と、彼は思った。「男が生きいきした情熱や美を女に求めたって当然なんだ。男は自分が動物であることを忘れてよいわけはないし、このおれのなかには、ギリシャ的なものが何かひそんでいるんだ。おれは妻をすてても、ほかの女たちを求めてやるぞ。あの女教師をものにしてやる。男を全部的にまわしてもいい。肉欲の動物なら、肉欲のために生きるんだ」

本書には「飢餓感」という言葉がよく出てくるが、飢餓感を強く訴える人たちが「神」を熱烈に求めるのは興味深い。望みが深ければ深いほど、人は超自然な力を求めるものなのだろうか。

この飢餓感を埋めるのに都合のいいものを、アンダソンは「それぞれの真実」と呼んだ。冒頭「グロテスクなものについての書」で、著者は「それぞれ信じたい真実を信じる人々」を「グロテスクな人々」と呼び、このように説明している。

世界がまだ若かったはじめのころ、おびただしい数の思想があったが、真実などというものはまだなかった。ところが人間がいろいろな真実を自分でつくりだし、一つ一つの真実はおびただしい数のあいまいな思想の寄せ集めだった。こうして世界じゅういたるところ真実だらけになり、それらはみな美しかった。……たとえば、処女性を真実とするものがあれば情欲の真実もあり、富の真実があれば貧苦の真実もある。……何百、何千という真実があり、それらはみな美しかった。

人々をグロテスクにしたのは、そういう真実だった。……一人の人間が一つの真実を自分のものにして、これこそわが真実といって、それにもとづいて自分の人生を生きようとするとするとたんに、彼はグロテスクな人間に化してしまい、彼が抱きしめている真実も虚偽になってしまう、というのである。


実際のところ、自分のことを優秀だと信じたい私たちのほとんどが、とりたてて突出した能力も特性も持っていない。名を歴史に刻むこともできず、死をむかえれば忘れられ、容赦ない時の洗礼に押し流されて無に還る。

だが、自分がちっぽけな存在だと認めることはつらい。そして、箱庭から出ることは恐ろしい。外の地平線は広すぎるし、消失点は遠すぎる。こののっぴきならない事態はどうにもならないが、目をそらし続けることはできる。「やればできる」「いつか叶う」という最強の呪文をとなえて、未来へ希望を投げ続け、恐ろしい真実を知る時期を遅らせ続ければいい。

ワインズバーグの人々は2つの選択肢をとった。鎮痛剤を打って逃げつづけるか、自分が自分から逃れられないことを前向きに諦めるか。

自分以外のものの声が、人生には限界がある、とささやきかけてくる。自分自身と自分の将来について自信に溢れていたのが、あまり自信のない状態に変る。


ああ、えぐい。なんというえぐいものを書くのだ、アンダソンは。自分の半径数メートルをかこう壁に守られて、自意識の箱庭で「真実」を自家栽培する住民たちの醜さと哀愁をさらけだしながら、「でもこういう人たちはごくありふれている、わたしたちと同じ人たちですよね」と丁寧に刺してくるあたりは、もはや泣き笑いを誘う。

まるで行進しているかのように、次々と無数の人間が――それは、彼よりも先に、無のなかからこの世界に生まれ出てきたものたちだが――それぞれの人生を生きては、ふたたび無のなかへと消えてゆくのが見えるのだ。これは、ものがわかってくることの悲しみを、その青年が知った、ということだ。

わたしはどうか? どうせなら、箱庭の狭さに嘆いて死ぬよりは、世界の広さに恐れおののきながらも、絶景に見とれながら歩いて死にたい。

古典アメリカ文学のいいところは、閉塞感を描きながらもどこかに小さい風穴を見つけやすいことだと思う。えぐいアンダソンは、やっぱり最後はほんの少しだけ優しかった。

やがて壁のほうに顔を向けて、やはりワインズバーグにも、孤独に生きて孤独に死ななければならぬ人間はたくさんいるんだという事実に、無理矢理自分を勇敢に立ち向かわせようとし始めた。

 

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世界が誇る、酔生夢死の王様。いくら世界にたこ殴りにされても、強烈な妄想力に支えられた「おれはヒーロー」という信念を捨てない。たこ殴りにされながら、世界をたこ殴りにする夢を見る。



架空の町の群像劇を描く「ワインズバーグ・スタイル」に影響を受け、血と欲望がうずまくヨクナパトーファ郡を作り上げた。臓腑のような独白がすさまじい。



Sherwood Anderson "Winesburg, Ohio: A Group of Tales of Ohio Small-Town Life", 1919.