ボヘミアの海岸線

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『ザ・ロード』コーマック・マッカーシー|命の火を運ぶ

 この物語の結末をおれにいわないでくれ。 ——コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

命の火を運ぶ

 人類絶滅まであと少し。未来は来ない。

 黒こげた死体の薪に命の火をくべて、血と夜の雫でできた宝石を、頭蓋骨の鍋で煮たような小説だ。なぜ、これほど極限まで振り切れた人間のおぞましさと美しさ、腐臭と愛が、ひとつの世界に存在できるのだろう。

ザ・ロード

ザ・ロード

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

ザ・ロード (ハヤカワepi文庫)

 死滅した世界のある冬に、親子ふたりがショッピングカートをひきながら南下する。すでに人類の多くは死に果て、社会機構は壊滅し、暴力と力のみが生きる可能性を切り開く無法地帯となった。

 処分のしかたを遺言されないまま残され冷たくなってなお執拗に公転を続ける地球。情け容赦のない闇。

 灰色の雲におおわれた世界ではもう、野生の動物や植物は見つからない。食料を得るには、強奪か略奪、あるいは人食しかなかった。『ブラッド・メリディアン』では、この作家はアメリカの農村をひとつふたつ襲撃して頭蓋骨の百や二百ほどかち割ったのではないかと思うほどの、臓物と血の腐臭がにおい立つ描写でわたしをぶちのめしたが、今回もまたその筆致が冴えわたっている。浮き出た骨に沿って割けた肉。針金のように硬く固まった靭帯。首を切り落とされ内蔵を抜かれ串に刺されて黒く焦げている人間の赤ん坊。腹の肉が切り取られた新しい死体。そう、人食ではやわらかい腹部の肉から食われていく。

 そのうちいなくなるのか?
 もちろんいなくなるよ。
 誰にとっていいんだ?
 みんなにとって。
 みんなにとって。

 地獄である。だが、こんなことをしてつかのま生きながらえても、遭難と違って救助隊は永遠に来ない。人を食べた人間が別の誰かに食われ、人類が絶滅するまで縮小を続けていくばかりだ。

 一つの広大な塩気のある墓場、無意味、無意味。

 だが、この暗黒の地獄で、少年の声が鈴のように響く。
 「ぼくたちは誰も食べないよね?」
 父親は答える。
 「ああ。やらない。どんなことがあっても」


 少年の純粋な心はもはや神話めいている。ねじくれ黒こげになった死体の山を歩き、串刺しの赤ん坊を見て、父親が襲ってくる人間を目の前で撃ち殺してその脳漿を頭からかぶっても、少年は他者に親切にしようとする。数日も飢えたあとなのに見ず知らずの人間に缶詰を分け与えて命を助けようとする。そして父親は、残りの命をすべて使い切って少年を守り生かすことだけを誓っている。

 これからも大丈夫だよね、パパ?
 ああ。大丈夫だ。
 悪いことはなにも起こらないよね。
 そのとおりだ。
 ぼくたちは火を運んでいるから。
 そう。火を運んでいるから。

 
 人生は、地平線に向かってまっすぐに伸びる一本の道である——アメリカの伝統、ロード・ノベルやロード・ムービーは、長らくこの思想を受け継いできた。これまでは、地平線の先にあるものは希望、繁栄、可能性であったが、『ザ・ロード』においては道の先にあるものは荒涼、死体、終わりの見えない無と夜である。この暗黒の世界で唯一きらめくのは、人間の諦めない意思、先へ進もうとする命の火だけだ。

 だが、じっさいのところ、わたしたちがいま生きているこの世界と、もう終わってしまった世界に、いったいどれほどの違いがあるのか? 

 われわれ人類は銃弾が飛び交う戦場を散歩する盲者であり、死という絶対の終点に向かって不可逆な道を歩いている。ただふしぎなことに、多くの人は地平線の向こうに絶望よりは希望を見いだし、ときおり銃弾が耳元をかすめるのも知らず気楽にのんびりと歩みをすすめるばかりだ。

 親子とわたしたちが向かう終着点に変わりはない。だが、なぜこの物語だけがこれほどまでに切なく、激しく胸を打つのか。サン=テグジュペリは『夜間飛行』で、群青の夜にかすかにまたたく家々の灯りをこのうえもなく美しく描き出したが、マッカーシーもまた、吹き消されつつある命の火を暗黒世界との激烈なコントラストで浮かびあがらせているからではないだろうか。

 誰もここにいたくないし、誰も立ち去りたくないのさ。

 もし人間以外の存在が人間を観察していたら、なんとばかばかしい生物だと思うだろう。絶望したほうがずっと楽なのに、窒息死しそうななかでも、わずかな穴を探してその先をのぞこうとする。その非合理な力はどこからくるのかと、驚きあきれることだろう。

 心をつぶし、希望をつぶし、歩みをとめたほうががずっと楽なのに、それでも絶望しきれないのが人類だとしたら、なんと愚かで切ない生きものであることか。

 ラストについては、わたしは書かれているものとは正反対の結末を読んだ。だから最後の2パラグラフはああなっているのだと。あの記述は、作家としてのマッカーシーというよりは幼い息子を持つ父マッカーシーの切なる思い、愛する人の死がすこしでも遅くなりますようにと願う炎、希望そのものだったからだ。

 彼が泣き濡れた眼をあげて見てみると少年が道に立って想像もつかない未来からこちらを振り返っているその未来はこの荒廃の中にあって聖像が安置された壁龕のように輝いていた。

Cormac McCarthy "The Road", 2006.

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狂っているのはこんなに真っ赤で真っ黒な世界なのか、それともこの世界を哄笑しながら駆け抜ける狂信者なのか? 一瞬たりともこの世界には存在したくないと思わせられる脅威の小説。


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同じく世界の終末ものだが、こちらは他者への思いやりなど欠片も感じさせない、自己中心の愛を極めた小説。『ザ・ロード』が愛の絶叫なら、『氷』は愛の絶対零度である。


世界中で、目が見えなくなる奇病がはやる。無法地帯化する世界のなか、ただひとり目が見える女が、見苦しい人類を見つめ続ける。