キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ギリシア神話を知っていますか』阿刀田高

この世界という不思議

 ギリシア神話はどこかファム・ファタルめいている。いちど読み始めるとその深さにはまり、砂時計に入ったように抜け出せない。次から次へと知りたい物語が増え、この神はどの神と浮気をしたのか、親子関係はどうなっているのかが気になって家系図をたどり、神々の理不尽さと激情にうめき翻弄されながらも目を離せない。2009年以来、ぱったりと途絶えていたギリシア熱がこの春みごとにルネサンスして、つくづくとその底知れぬ引力に驚嘆する。

 ギリシア神話のうちで著名な、かつ理不尽な、情念と欲望が渦巻く物語を12編おさめる。おもしろいことに、各エッセイのタイトルとなった登場人物は、エロスとオイディプスを除いてはすべて女性である。ギリシア神話では、女性たちは神々の情念の的となり、望む望まないにかかわらず、嫉妬と性欲、恨みと殺意のるつぼの中に放り込まれる。だからその人生はより悲劇性を帯び、作家の心をつかむのかもしれない。とまれ、女性たちの話ばかりではなく、恋人となる神々や英雄の話もきちんと出てくるので、ギリシア神話の著名なエピソードをひととおり網羅している。作家らしく、ギリシア神話の影響を受けた小説や劇、映画などをまじえて紹介されているのもよい。

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)

ギリシア神話を知っていますか (新潮文庫)

ギリシア神話を知っていますか

ギリシア神話を知っていますか

目次

  • トロイアカッサンドラ
  • 嘆きのアンドロマケ
  • 貞淑なアルクメネ
  • 恋はエロスの戯れ
  • オイディプスの血
  • 闇のエウリュディケ
  • アリアドネの糸
  • パンドラの壺
  • 狂恋のメディア
  • 幽愁のペネロペイア
  • 星空とアンドロメダ
  • 古代へのぬくもり

 
 カオス(混沌)からの世界創造からではなく、カッサンドラから始まることにはすこし驚くが、納得する。予言の力を与えられながら、誰もその予言を信じないという呪いに見舞われたトロイアの王女カッサンドラは、その劇的な矛盾から、クリスタ・ヴォルフ『カッサンドラ』をはじめ、多くの画家たちや作家たちの心を惹きつけてきた。家族の死や祖国の滅亡、みずからの死をも知りながら、声を上げても泣いても誰にも届かない。どのような心で彼女は生きたのかと、想像力をかきたてる(岩波文庫版のアイスキュロス『アガメムノーン』では「ぺぅー、ぺぅー」という衝撃的な泣き声をあげていたカッサンドラが記憶に残っている)。

 男も女も神々もそろいもそろって、欲望と情念のるつぼの中で踊り狂っている。踊り狂って煮詰められた結果、ありえない驚異的な幻想の数々が紡ぎ出される。夜這いをするために黄金の雨となって降り注ぐゼウス、絶えずぶつかって船を大破させる海中の大岩、美しさゆえに化け鯨のいけにえとなりかけた王女アンドロメダー、恋のために毒薬を駆使する毒薬系ヤンデレ王女メディア、人間のために火を盗んだゆえ生きながらに内蔵を鷲に食われ続けるプロメテウス。想像をやすやすと超えてくるこの原始の想像力に、わたしはいつも、いまだに驚かされ続けている。


 ギリシア神話の女性はおもに、浮気者の最高神ゼウスに言いよられ子供を生むか、嫉妬する神々(多くはゼウスの妻である女神ヘーラーによるものだが)のせいで大変な目にあうか、貞淑を守るか、みずからの嫉妬に狂うか、殺されるかのいずれかで、だいたいろくな目にあわない。男性も同様だ。オイディプスは「父を殺し母と交わる」という災厄の予言を授けられ、美少年アドニスは男神の嫉妬により突き殺され、トロイア戦争によって多くの英雄が死を遂げた。

 なんという不合理、なんという悲劇。なぜ、自分やあの人がこんな目にあわなければならないのか? なぜ、世界はこうも残酷なのか? なぜ、悲しみや憎しみなど、世界にはつらいことが満ちているのか? 

 神話は、人間が持つこれらの疑問に説明を与えようとする。人々が戦争し続けるのはゼウスが人間の数を減らそうとしているからであり、冬に作物が収穫できないのは農耕の女神が怒っているからであり、嫉妬や悪意が渦巻くのはゼウスの策略によってパンドラが壺の封印を開けたからだと。トロイア戦争は実際のところ、ふたつの都市国家間による10年戦争にすぎないのだが、そこにゼウスの人口減らし作戦、神々の嫉妬と愛による手助けと邪魔など、人間というチェス駒を動かすプレイヤーとしての神々を幻視して、宇宙スケールにまで拡大させた。


 心理学や医学、自然科学の答えを持ち合わせていなかった古代の人々にとって、自然現象のしくみ、人生のつらさや不条理、愛という病、戦争など、人間にとって不思議なことはすべて神話に結びつけられた。むしろ、人間にとって不思議でならないもの、ブラックボックスの中身が、神話として語られるのではないだろうか。戦争をやっている本人たちが、なぜ自分たちはこんなことをしているのかと、不思議でならなかったのかもしれない。

 近代以降、自然現象や宇宙のしくみは科学の手にわたったが、愛や嫉妬などの感情は21世紀になってもなお、神話の領域のままだ。だから、いまでも人間は物語と宗教を必要とする。謎と畏怖、そして好奇心、物語の源泉はここにあるのだと、神話や宗教の逸話を読んでいるとつくづく思い知る。わたしが本を読むのも同じ動機で、世界と人間が不思議でならないのだ。だから物語を知りたいし、人の話を聞いてその心をのぞいてみたいし、よくわからない世界へ足をつっこみ、そこで生まれる感情を記録しようとする。だからわたしは何度でも、原初の物語に立ち返るのかもしれない。


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