ボヘミアの海岸線

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『河岸忘日抄』堀江敏幸

遭難の作法

 ふと、彼は思う。自分は、まだ待機していたい。待っていたい。だが、なにを待つのか?——堀江敏幸『河岸忘日抄』


 霧の深い夜には、たいそう派手な失恋をしてなんの知らせもよこさずに遠い異国へふつりと消えた、気狂いの友人を思い出す。失踪した理由をのちに尋ねてみれば、「誰にも知られずに、ひとりで本を読みたかった」。なんだあの阿呆はと思いつつ、似たりよったりのことをしているのはわたしだった。

 知人と記憶を持たぬ土地でもう数か月、呆然とし続けている。この数年ずっと「これは本物だ」と思っていたものを失い、積み上げてきたトランプの塔は崩れ落ち、真っ白な原稿の瓦礫となった。こうなる予感はすでにあったのか、すでに手に入れていた切符を手に、背負えるだけの手荷物を持ってここへ来た。どうして僕はこんなところに。あらゆる面倒な手続きをこなし、万難を排してこの地に臨みながら、いまなおこの問いへの答えが見つからない。

 おそらく世の中には、SOSも発さずに、異国や図書館で難破したくなる時期、あるいはそういう種類の人間がいる。友人やわたし、そして「彼」のように。

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄 (新潮文庫)

河岸忘日抄

河岸忘日抄

 記憶の中の情景に、レ点を打つ。

 「彼」は、フランスの河岸に繋留したボートに居を構え、日々を忘れるように、本を読み音楽を聞き、思考と言葉を流しつづける。「彼」は、かつてこの異国で勉学にはげんだことがあり、日本での仕事をやめて、かつて世話になった大家のもとへやってきた。

 「少し」働き過ぎたような気がすると再会した大家に挨拶したとき、ご老体はそれこそ「少し」きつい口調で、働き過ぎに「少し」だなんてことがあるものかと彼を難じた。だが彼は彼で、捨てるべきものは捨て、捨てきれないものは抱えたまま、その余計な「少し」を矯正するべく、こんな嵐のなかでたゆたえども沈まぬ船での暮らしをつづけてきたのだと考えている。

 勉学や仕事、そのほか一切のしがらみから解放され、ひとり気ままに本を読み、来客のためにクレープを焼き(クレープ!)、ときおりやってくる郵便配達人や女の子と話をする——。この舞台から推測しうる有閑の優雅さとは裏腹に、彼は疲れ、静かないらだちに満ちている。すべてを白黒つけようとする人々に、吹っ切りなよという言葉の暴力性に、他者を「なになにタイプ」と分類し分析しては満足する社会について、彼は語る。

 彼はけっして、そのいらだちをそのまま表には出さず、口調は穏やかで静かであるーーあろうとしている。そしてときおり、動物園の熊のようにぐるぐるといらだちの周囲をめぐり、文学や音楽、文通相手とのエピソードをまじえながら、その怒りをパン生地のようにこねて熟成させる。

 おそらく、怒りやいらだちをそのままの形で発露させないのは、彼に恥らいと知性、品があるからだろうが、穏やかな口ぶりのあいまにふつりと不穏がよぎる。内爆、という言葉を彼はもちいている。他者や自分の言動にたいして抑えきれない怒りを感じたとき、彼はそれを言葉に出さず、心のうちで爆発させて処理する。

 ながい時間をかけて、一種の内爆に近い処理方法を磨いてきたのである。ビル解体に用いるほどの規模ではなく、不具合の起きた真空管がまとめて破裂する程度のものではあれ、怒りの芽は、いったん散り散りの灰となって胸のうちに音もなく降り積もり、やがて体内に溶け込んでいく。いつかはなんらかの方法で排出されるのだろうが、このない麦の瞬間さえ把握できれば、本格的な暴発、暴走を防ぎうるはずだとの確信が彼にはあった。

 もの静かで穏やかに見える文学青年はだいたい、いらついている。おそらく彼はわかっている。いらだちに気づかぬほど愚かではないが、発露するには知性がありすぎ、手際よく処理するには不器用すぎる。だからこそ、内爆させる。

 物語の中にも、小さな内爆はいくつも見てとれる。分類する人々を嫌いながらも彼らにラベルづけをせずにはいられないジレンマ、「本当の自分はなにか」と問う青くささ、正直ゆえに馬鹿を見る側でいたいという願い、むりに世慣れたくないという矜持。

 ためらい続けることの、なんという贅沢。逡巡につきまとう受け身のエロスの、なんという高貴。

 そうしたいらだちへの疲れから、彼はそれとは真逆のもの——目を見開いてものごとをはっきりと見とおす力強さではなく、薄暗い明かりの中でぼんやりとしたものを眺め、その正体をあきらかにしない姿勢を求める。余白や空白、どちらともとれぬ曖昧な立ち位置へなみなみならぬ関心を寄せてきた著者*1らしく、その不安定なやじろべえの重心をはかりながら、注意深く空白地帯に片足で立ち続けようとする。

 この物語は、まさに河岸で揺れるボートのようだ。ときにはひどく静かで、ときには感情の波をざわりと立てる不穏な嵐の中で、流れに身をまかせて、ゆらゆらと揺れている。

 時間が来れば解放されることもわかっている、まことに煮え切らない待機の姿勢。けれど、と彼はあらためて思う。煮え切らない待機とは、まさにいまの彼自身を指しているのではないか。

 隠遁ともモラトリアムとも似ているようで違うこの絶妙な感覚、煮え切らないこの感覚を、肌身で観じることができる物語だと思う。疲れてはいるが世を倦んでいるわけではなく、ただ少しだけ、ひとりで呆然とする時間が必要なのだ。

 
 ひさしぶりに、ひどく個人的な思いが交錯する読書体験だった。優雅で知的なモラトリアム小説のふりをして、思っていた以上に青くさく、ざわついていた。わかることもあるし、わかりたくないこともある。だが、物語の終わりはああならざるをえないことは知っている。この余白にはいつか、終わりが来ることも。

 緻密に編まれた言葉の中に、ときおり驚くほど素直な言葉があってはっとする。わたしは、こういう言葉のほうが好きだ。そして、心の底から同意する。

 ひとと接するのが嫌いだからでも、社会的な良識とやらを欠いているからでもなく、——少なくとも自分では欠いていないと彼は信じていたーー、たんにひとりでいたかっただけなのだ。


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*1:『回送電車』シリーズには、この空白をテーマにしたエッセイが多くおさめられている。