読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』カート・ヴォネガット

アメリカ文学 ☆☆☆☆

いったいぜんたい、人間はなんのためにいるんだろう?——カート・ヴォネガット『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

豚に真珠

 人は誰もが、小さな器を心に抱えてうまれてくる。うまれてまもなく、彼らをこの世に送り出した男女が水をそそぎ始める。この小さな器はその大きさに見合わず水をどんどん飲み干し、いっこうに満ちる気配がない。育つにつれて友人や兄弟、恋人など、水を注ぐ人は増えていく。底なしかと思われた器には水がたまっていき、やがてあふれる。そしてようやく乾きから解放されたその人は、周りの人の器をのぞき、それらの器に水を注ぐことを考えはじめるのだ。

 人は、愛や優しさをじゅうぶんに受けなければ、他者にそれを与えることは難しい生き物ではないかと思う。もっとも影響を与えるのは、最初に無条件の愛と優しさをそそぐ親だ。しかし、家庭の環境に恵まれなかった人や、傷つきやすく繊細な人の器の底には穴があいていて、彼らは善良な人々からの優しさや愛をむさぼり食い、ときには腹いせに踏みにじりながら、器を満たそうとする。

 恩恵をうければ恩を返すとか、他の人にも優しくするようになるという発想は、もう器が満ちている人のそれだ。満ちていない人に、他者に分け与える余裕はない。ただ、みずからの器を満たそうと必死なだけだ。もっとくれという人を見て、器が満ちていて渇望を知らない人々は嘆息する。なんという忘恩のふるまい、やはり育ちが悪い人間を甘やかしても怠惰になる、まるで豚に真珠だと。


 アメリカ屈指の大富豪、のんだくれのユートピア夢想家、インチキ聖者、目的のない愚者ローズウォーターさんは、運悪く貧乏にうまれた人、不器量にうまれた人たちの器を満たそうとした。なんという、えぐい物語だろう。お気楽な博愛主義をよそおいながら、人が目を背けたがるところを容赦なくえぐってくる。良心を捨てきれなかったがために、幸運だったローズウォーターはみずからの心と人生をつぶした。彼がばらまいたものはなんだったのか?

 
 エリオット・ローズウォーターは、ローズウォーター財閥の跡取りとして、なんの苦労もなく、毎日数万ドルを散在しても使い尽くせないほどの財産と地位を手に入れた。だが、彼はそれを楽しむことを放棄し、それを貧しい人々に分かち与えることにした。彼は貧者の町に住んで張り紙を出す。「ローヴウォーター財団、なにかお力になれることは?」

 ボン・ヴォワイヤージュ、親愛なるいとこよ、それともだれであろうと、この手紙をうけとるきみよ。けちけちするな、親切であれ。芸術と科学は無視してもいい。どちらもだれのためにもならないからだ。それより、貧しい人びとの真剣な親身な友人になりたまえ。

 
 人間は、生きるに値するだろうか? 悲しみがあれば復讐で人を殺し、平和であれば退屈を殺し、不都合があれば良心を殺して、地球の資源を消尽する、人間というこの生き物は。お気楽な歌詞がうたうように、ひとりひとりがかけがいのない尊い命であり、みんな違ってみんないいのではなく、この物語においては、金持ちも貧乏人もそろって無価値である。

 この人びとが送っている日常生活は、その大半がくだらないもので、知恵も、ウィットも、創意も、うるおいも欠けていた。インディアナ州ローズウォーターの人びとの生活とまったくおなじ程度に無価値で、みじめだった。

 エリオットが支援した貧乏人は“清貧”とはほど遠く、教養も品もなく、もらえるものはもらい、もらえなくなったらののしり、嘘をつき、手のひらを返して好意につばを吐きかけるようなまねをする。社会的に認められる価値を提供せず、向上心もない。彼らは支援するに値するか? 向上心と実力があれば彼らは階級移動ができるとしたのが自由主義とアメリカンドリームであり、彼らを手厚く保護しようとしたのが新社会主義であり、まったいらに平等にしようとしたのが共産主義だった。そしてナチスは、生きる価値のない人間は滅びよといって、絶滅をこころみた。

 彼らは甘えているのだと、人は言う。努力もせず、つらいとばかり口にし、向上心がなく、もらえるものはもらおうとする、性根がくさっているのだと。そんな人間には、飴を与えるのではなく、むちをくれるべきだと。

 「……つまり、大きな財産を投げだすのは、無益なばかりか、有害なことなのです。それは、貧乏人を金持にも、いや、安楽にさえもせず、かえって彼らをいくじなしに替えてしまいます。しかも、塔の事前かとその子孫までが、いくじなしの貧乏人と見分けのつかない同類になってしまうのですよ!」

 だが、傷を持たずにうまれた人間は知らない。生まれつき、あるいは人生のうちで大きな傷を負った人、満足を知らない人は、立ち上がるまでに多大な努力と時間を必要とする。そして、ひとりだけの力では立ち上がれずに一生を終えてしまう人は、思いのほか多いのだということを。

 器が満ちる過程に不具合があった人は、足りない部分を埋めようとして、あまっている人からそれをかすめとろうとする。無様でみっともない振る舞いだが、そうしなければ立ち上がることすらできない。

 一方、立ち上がる気がない人だっている。群れのルールが示唆するように、向上心があり変化に肯定的なのは3割、現状維持が4割、なにもしたくないのが3割という比率があるならば、いくら支援をしても、砂漠に水をそそぐように不毛でしかない人は一定数いる。さて、彼らに親切にすべきなのだろうか? 

 人間は人間らしく扱うべきだ。生まれつきの環境によって器が満ちていないなら、それを満たすべきだ。誰が? 不必要に余剰に持つ者が。エリオットはそう繰り返す。

 「ぼくは、この見捨てられたアメリカ人たちを愛していきたいーーたとえ彼らが役立たずで、なんの魅力もなくてもね。それがぼくの芸術ってわけさ」

 エリオットがローズウォーター郡の貧しい人々に与えた支援は、分け隔てない博愛という皮をかぶってはいるが、これは世界と人、そして自分にたいする絶望から来ているのではないかと思う。エリオットは戦争でおこした誤ちから自分自身に絶望し、自分を大事にすることを放棄した。そして、みずからを解体して分配しようと試みる。

 彼は愛の名のもとにあらゆる貧乏人を支援し、支援したあらゆる人を片っ端から忘れていった。彼は誰にも執着しない、愛する妻や父親、そして自分にさえも。おのれの幸せを望まなくなった男がのっぺらぼうの群衆に与える愛という名の金銭的支援ーーこれは愛と呼べるものなのだろうか。わたしにはわからない。この物語を読んでいると、愛がどんなものなのか、どんどんわからなくなってくる。

 エリオットを見ていて、ナボコフ『ディフェンス』のルージンを思い出した。ルージンもエリオットも、彼らが生まれた環境に求められるルールに適応できず、みずからの心をつぶした。ふたりとも、なにかを決定的に失ったあとは、精神の心電図が凪いで、不気味なほどに穏やかであった。エリオットは2度、壊れた。傷ついて、傷ついて、器の底が抜けた。勝者、他者の犠牲の上に立つ者たちが持つ一種の脳死状態——良心を失うという単純なことができなかったために、ヴォネガットいわく「非常に傷つきやすい」性質であったがために、哀れなエリオットはまったいらになった。

 「そいつをイライラさせてたもののスイッチが、もうはいらねえんだ。そうよ、ぶっこわれたんだ! そいつのいのちの中で、そいつなりのヘンテコなことをやらかしてた部分が、くたばっちまったんだ!」

 エリオットがこれほどまでに自分に興味がなくなった理由についても、本書では明かされている。人間は生きているに値するか? とエリオットが繰り返す問いは、自分は生きるに値するか? という問いだったのだろう。だから、答えはああなった。

 おなかをすかせた子供のために、顔のみならず全身を分割して分け与えようとするアンパンマンを見て、人は感動するよりもむしろ恐怖をいだく。そして彼のささやかな親切は、飢えている人の充足にはとうてい足りず、もっともっとという咆哮はつのる。悲しい、そしてグロテスクなほどに優しい話だった。

なあ、赤ちゃん、きみたちがこの星で暮らせるのは、長く見積っても、せいぜい百年ぐらいさ。ただ、ぼくの知っている規則が一つだけあるんだ、いいかい——なんてったって、親切でなきゃいけないよ。

Kurt Vonnegut Jr. "God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine" 1965.

recommend