読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

Patience (After Sebald)、あるいはW.G.ゼーバルト『土星の環 イギリス行脚』


f:id:owl_man:20131013062512p:plain:w500
 
 2001年、W.G.ゼーバルトは車を運転しているさなかに心筋梗塞をおこし、イングランド東部の道路で気を失ったまま横転した。57歳だった。抑制した筆致で、アクセルを踏むこともブレーキを踏むこともなく、記憶と記録を地すべりし続けた作家が、加速する残像の中で死んだのは、どうも似つかわしくないように思える。しかし、20世紀が終わってまもなく眩暈のように死へと足を踏み入れたのは、ある意味ではゼーバルトらしかったのではないか。


 『土星の環 イギリス行脚』ゼーバルトが歩いたイングランドの風景を丹念に追い、彼にまつわる証言や記録をおさめた映像 "Patience (After Sebald)" は、どこまでも白と黒のコントラストに沈んでおり、21世紀の光景だとはとうてい思えない。


 ベンジャミンが描いた歴史の天使のように、ゼーバルトは目を見ひらいて、崩落する記憶と記録を見つめていた。

 歴史の天使は、目を大きく見ひらいて、ただ破局のみを見る。そのカタストローフはやすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それを彼の鼻っ先へつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使と、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗力的に運んでいく。その一方では、かれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものはこの強風なのだ。——ベンジャミン『歴史の概念について』

 英国人は、取り戻す(recovery)ために歩く。米国人は、見つける(discovery)ために歩く。ゼーバルトはどこまでもヨーロッパの人間であり、20世紀の人間であった。



f:id:owl_man:20131013062516p:plain:w500

 "Patience (After Sebald)"は、イギリスの映像作家が『土星の環 イギリス行脚』に登場する町を歩き、"Max"*1の声と、彼にまつわる人々の声を集めたドキュメンタリーである。より正鵠を射ようとするならば、ドキュメンタリーと『土星の環』の映画化を同時におこなった、と言ったほうがいいだろう。

 『土星の環 イギリス行脚』は副題のとおり、彼が終の住処としたイングランド東部イースト・アングリアを彷徨する散文だ。ゼーバルトはドイツ語で執筆したが、22歳のときに移住して以来、半生以上をイギリスで過ごした。イースト・アングリアがあるノリッチ州は、ロンドンから1時間半ほど列車で北上したところにある。なにがあるかといえば、なにもない。あるのは憂鬱な霧雨と灰色の海岸線、巨人の腕骨のようにうねり枯れはてた巨木、廃墟となった屋敷、崩れた教会の遺跡ばかり。

 作家は歩く。しかし、彼が歩くイギリスはもはやイギリスではなく、現代でもない。かつて栄華を極めたイギリス郊外の屋敷の話をしていたかと思えば、第二次世界大戦空爆の話へ、大量の魚を前に立つ漁師たちの写真から、森に打ち捨てられたユダヤ人の虐殺写真へと、ぬるりと過去へと傾いでいく。


f:id:owl_man:20131013073939p:plain:w500
 
f:id:owl_man:20131013073946p:plain:w500

 ゼーバルトの肉声——ドイツ語を彷彿とさせる少しかたい発音、抑制に満ちた低く穏やかな声ーーが映像のところどころに散りばめられているが、それだけでは『土星の環』をおおうこの憂鬱さを表現するには足りない。映像作家はゼーバルト本人よりも、彼の同僚や編集者、穏やかでおぞましい奇妙な散文に惹かれた生者たちを映し出す。ある男性は繰り返し現れては消えるモチーフの順番をフローチャートに落としこみ、ある女性はGoogle Map上で、『土星の環』に出てくるすべての土地にピンを立てた。


 土星の環の中央に立つ人は、もういない。それは当然のようでもあり、ひどく奇妙なことのようにも思える。ゼーバルトの後の世界に生きている彼らは皆、それぞれに違う人間であり、それぞれの生活がある。しかし、この映像においては、彼らは個性と生活を感じさせず、すでに遠い過去の人たちを見ているような印象を与える。

 『土星の環』を読んだことがある人なら、映像が始まって1分後に息を飲むだろう。あのシーンはゼーバルトの作品をよく表しているが、これは愛ゆえの無粋でもある。死者がうみだした幻想の内蔵をさらけ出すことは、生きている者の特権なのだ。そして、それを自由に組み替え、語りなおすことも。

 しかし、この方法はきわめて正統な、ゼーバルトの流儀にのっとった追憶の作法である。あらゆる語りなおしは墓標あるいはレクイエムであり、これから死者となる生者のためにある。

 正直にいえば、ときに生者の語りはうっとうしく感じられ、わたしと作家のあいだに小石を置いていくような気がした。一方で、あの静かで沈鬱な風景を映像で見ることができたのはよかった。いまこうして書いているにあたり思い出すのは、語られた内容ではなく、イギリスらしい灰色の空、遠くにかすむ桟橋、さびれた海岸線、うごめく蚕、かつて生きていた者たちの目、モノクロームに反射する水面の光ばかりである。

 歴史を語るゼーバルトではなく、歴史とともに語られるゼーバルトの残像を見てようやくわたしは、あの作家は死んだのだと、すこし深いところで腑に落ちた気がする。そして生きているうちに、かつて彼が歩いた道を、自分の足で歩くことに決めた。


Grant Gee "Patience (After Sebald)",2012.
The Patience(After Sebald):全編を見ることができる。英語。

 

Recommend

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

土星の環―イギリス行脚 (ゼーバルト・コレクション)

Patience (After Sebald)

Patience (After Sebald)

*1:ゼーバルトのイギリス名。もとの名はMaximilian だが、ドイツ的だとして略称を名乗っていた。