キリキリソテーにうってつけの日

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『ヘンリー四世』ウィリアム・シェイクスピア

 名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? その名誉ってやつに? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか!

——ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー四世』

ごろつき紳士の饗宴

 燃えよ退廃の燈火、愛すべき百貫でぶ、王子ハリーつきの食用豚、騎士フォールスタッフとハル王子たちの掛け合いのなんと楽しいことか!


 『ヘンリー四世』は、シェイクスピア歴史劇のうち『リチャード三世』と並んで人気の劇だと言われている。古今東西もっとも、当のヘンリー四世は、それほど印象に残らない。心をとらえて離さないのは、ヘンリー四世の後継者、のちのヘンリー五世となるハル王子と、騎士フォールスタッフと愉快なごろつきどもたちだ。

 ヘンリー四世は、前王の正式な後継者ではなく、もともとは臣下だった。もとの名はランカスター公ヘンリー・ボリングブルック、前王『リチャード二世』のいとこでありながら領地を奪われたことを不当に感じ、反乱を起こして王位についた。

 ここでプランタジネット朝は終わり、ヘンリー四世からヘンリー六世までが、ランカスター朝となる。反乱で王冠を手にした王はイングランドスコットランドではめずらしくはないが、その地位は盤石ではなく、彼ら自身も反乱におびえることとなる。かつてヘンリー四世を王座につけた貴族たちは、自分たちが冷遇されていることに不満をいだき、ヘンリー四世にたいして反乱をしかける。


 王冠をめぐる王軍と反乱軍の戦い、というあらすじをうっかり忘れるほどの勢いで、身分の高いごろつきどもの愉快な場面が、これでもかというほどに展開される。

 ヘンリー四世の長男ハル王子は、王子なのにしょっちゅう町の酒場に出入りし、ごろつきどもとともに追いはぎなどをたしなむ無頼派王子だ。彼の親友がサー・フォールスタッフ、身分は騎士だが、およそ騎士といえそうなところはなにひとつない。

 フォールスタッフはほら話の金字塔、言い逃れの天才、舌と下っ腹が肥大したようなたいこ腹のでぶ騎士で、燃やしたらさぞいい蝋燭になるだろうと言われる始末。1秒前に言ったことをひっくり返すわ、戦いからは逃げ出しては英雄も真っ青の武勇伝をこしらえるわ、酒場の女をたぶらかして貢がせるわ、ほら話と調子のいい嘘をえんえんとしゃべり続けるわ、とにかくろくでもない。貴族階級からは鼻つまみ者あつかいだが、酒場やごろつきたちのあいだではたいへん人気者だ。『ドン・キホーテ』セルバンテスが揶揄した「騎士道」を真正面から粉砕にかかるアンチ騎士の言葉には、堕落と機知が混沌として共存している。

 名誉ってなんだ? ことばだ。その名誉ってことばになにがある? その名誉ってやつに? 空気だ。結構な損得勘定じゃないか! その名誉をもってるのはだれだ? こないだの水曜日に死んだやつだ。やつはそれにさわっているか? いるもんか。聞こえているか? いるもんか。じゃあ名誉って感じられないものか? そうだ、死んじまった人間にはな。じゃあ生きてる人間には名誉も生きてるのか? いるもんか。なんでだ? 世間の悪口屋が生かしておかんからだ。だからおれはそんなものはまっぴらだというんだ。名誉なんて墓石の紋章にすぎん。

 フォールスタッフの語りは独壇場だが、ハル王子とのやりとりが加わると、さらに愉快だ。ハル、ジャックと気さくに呼び合いながら、たえまなく罵り合うあたりがたいへんよい。

フォールスタッフ おまえを知るまではな、ハル、おれはなんにも知らなかったんだぞ、それがいまではどうだ、正直言って、おれは悪しきものの一人になっちまった。こんな生活はやめねばならん、よし、やめて見せる。誓って言うが、やめないようならおれは悪党だ。たとえキリスト教国の王子のためであっても、地獄落ちはまっぴらだ。
 
王子 明日はどこで追いはぎをやるとするかな、ジャック?
 
フォールスタッフ ああ、どこだっていいぜ、相棒、おれも断じてついて行くからな、行かないようなら、おれを悪党呼ばわりするなりさらしものにするなり、勝手にしろだ。
 
王子 なるほど、悔い改めるとはこういうことか、いい例を見せてもらったよ、お祈りから追いはぎへ一瞬のうちに改まるものだな。
 
フォールスタッフ なあ、ハル、これはおれの天職なんだよ、ハル。人間、天職に励むは、罪にあらずだろう。

 ハル王子は不思議な人で、フォールスタッフと一緒にろくでもない道を歩きながら、一歩ひいた視点から自分と仲間を観察しているように見える。追いはぎをしていても、なぜか品がある。フォールスタッフのことを無礼な豚めとののしりながら、愉快げに軽妙な会話をかわし、彼をからかうためなら給仕の格好までする。遊びに全力をかけつつ、その心にはどこかハムレットのような憂愁がただよっており、フォールスタッフとは違った魅力がある。

 対する反乱軍の若き英雄ホットスパーは、血気さかんで直情的、剣の腕がおそろしく立ち、ヘンリー四世が「彼が後継者であればよかった」と嘆くほどの正統派騎士である。もうすこし落ち着いたほうがいいのではと思うが、どこか憎めない。正統派ホットスパー無頼派ハル王子の決闘は第1部の見せ場で、決闘のオチもよい。ほか、ケルトらしい魔術的な雰囲気を持つグレンダワーなど、『ヘンリー四世』には魅力のある登場人物が多い。

 だからこそ、ヘンリー四世からハル王子へと王冠が継承されるとき、ハル王子があれほど豹変したことに驚いた。王冠を受け継いだハル王子、のちのヘンリー五世は英雄だと賞されるが、わたしはごろつきと一緒に遊んでいるハル王子のほうが好きだ。

 王冠を受け継いだことによる責任を自覚したというより、その重みに恐れおののき、心の一部を失ってしまったように見える。アーサー王にしてもそうだが、心を殺さなければ英雄などやっていられないというのなら、王は身分の高い人柱、王冠は豪奢な鎖だ。ヘンリー五世となったハル王子の最初のせりふは「王権という、この新しい豪華な衣装は、わたしにとっておまえたちが思うほど着心地のいいものではなさそうだ」という諦めから始まっている。

 それにつけても、あのゆかいなやりとりが見られないと思うとさびしい。すばらしい一瞬は、つねに失ってからそれと気づく。

 だがしょせん、心はいのちの奴隷、いのちは時の奴隷、そして時は、この世の支配者とはいえ、いずれ止まるべきものだ。

William Shakespeare "Henry IV" 1597-1599?

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