キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『恋の骨折り損』ウィリアム・シェイクスピア

姫! どうか戦闘準備を!
ご婦人がたも武装なさい! 敵襲です、平和の夢を
むさぼってはおられません。恋が変装してやってきます。

——ウィリアム・シェイクスピア恋の骨折り損

誓いよりやっぱり恋

 恋の前には、どんな誓いも論理も通用しない。王様も貴族も、みなが美しい女と恋の前に身を投げ出す。たとえ、それまでの努力が骨折り損になろうとも。

 3組のカップルによる、ひとめぼれの喜劇である。ナヴァール王国の国王と、彼の親友である3人の貴族は、学問に専念するために3年間は女に会わず、近づけもしないという誓いを立てる。

 ところが、フランスの王女が領地返還を求める使者としてやってきて、はやくも雲ゆきが怪しくなる。誓いを守るため、国王はどうにかして賓客を王宮にいれないように苦心するが、そのじつ、彼の心の扉は美しいフランス王女のために開け放たれてしまっていた。彼の親友である貴族たちも、王女のおつきとしてやってきた3人の貴婦人たちにそれぞれひとめぼれしてしまう。

 勇気よ、さらばだ! 剣よ、錆びるがいい! 太鼓よ、鳴りをひそめるのだ! おまえたちのご主人は恋をしている、そう、恋に落ちたのだ。即興詩の神よ、われに力をかしたまえ、なんとしても恋の詩をひねり出さねばなりません。知恵よ、考えろ、ペンよ、書け、大判の詩集を何冊も、何十冊も、書かねばならぬのだ。

 ハイライトは、国王と3人の貴族たちが、恋の詩を読みながら王宮の庭園をさまよい、誓いなどなければなあ、とぼやいているシーンだろう。第一場幕であれほど仰々しく誓った学問への忠誠はどこへやら、ただ恋に悩み、憂鬱になり、詩を書くことにそのペン先をふるっている。そして、最初に誓った言葉と同じぐらいの正当性を示し、恋愛にこそわれわれが学ぶべきものがあるとして、恋愛解禁を宣言する。いかにももったいぶっているところが、笑いをさそう。

学問はわれわれ人間に仕える従者にすぎない、
だからわれわれのあるところに学問はあるのだ。
とすれば、ご婦人がたの目のなかにわれわれがあるなら、
そこにこそわれわれの学問があると言えるのではないか?
諸君、われわれは学問しようと制約しあった、だが
そう制約することに酔って肝心の教科書を捨ててしまった。

 『恋の骨折り損』では、ことさら言葉がきわだつ。むしろ、言葉だけといってもいい。男たちも女たちも、しゃれと言葉遊びを駆使したせりふと詩を、とめどなしに語りまくる。

 惜しむらくは、この軽快なやりとりがやがて、まだ続くのかという倦怠感に変わってしまうことだろう。言葉の魔術師としてのシェイクスピアが爆発して、美しい舞台構成を生み出すシェイクスピアは、まだここでは見られない。舞台がほとんど動かないものだから、舞台で見たらせりふばかりに注力していなければならず、気疲れしてしまうのではないだろうか。

 
 『恋の骨折り損』は、シェイクスピアが書いた初期の恋愛喜劇で、時期としては『じゃじゃ馬ならし』『ヴェローナの二紳士』と同時期にあたる。『じゃじゃ馬ならし』も『ヴェローナの二紳士』も、恋愛喜劇とは言いがたいほど、相手の女性がないがしろにされるのでわたしはあまり好きではないのだが、『恋の骨折り損』ではうってかわって、女性たちの立場がとても強い。

 タイトルのとおり、これほどふくれあがった恋も結局は「骨折り損」となるので、やはりすっきりしない感じは残る。しかし、このようなふらつきを経て、このすぐ後に『ロミオとジュリエット』が出てくるのだと思うと感慨深い。

こいつはまさに恋愛病、これにかかると人間も神様だ、
めえめえ雌山羊も女神様だ、とんだ偶像崇拝だ。

William Shakespeare "Love's Labour's Lost",1595-96.

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