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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『すばらしい新世界』オルダス・ハックスリー

イギリス文学 ☆☆☆

「しかし、それが安定のために、われわれが払わなくちゃならない犠牲なのだ」——オルダス・ハックスリー『すばらしい新世界』

完璧で幸福な世界

 人に、涙は必要だろうか? 

 “Brave new world”、尊敬すべき自動車王フォードを崇拝し、十字架のかわりにT字架が信仰されるこの「すばらしい新世界」においては、人々は悲しむこともなく、心を痛めず、不満も不安も感じない。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 人々は母を人工培養で試験管からうまれ、「母親」や「家族」といったものは忌むべき旧習としてあつかわれる。誰かひとりに執着しないよう誰とでもセックスし、不安を感じればすぐに「ソーマ」を飲んで鬱を吹き飛ばす。与えられた仕事と階級に、誰ひとり不満は抱かない。知性は階級ごとに制御され、睡眠学習で「満足すること」を教えられている。

 彼らは感情を揺さぶられることがないから、感情からうまれるさまざまな不幸を持ち合わせない。愛するがゆえに高まる嫉妬、憎悪から生まれる流血の連鎖、愛を失う絶望、老いと病の悲しみ、他者への不満からうまれる不穏、シェイクスピアが悲劇で描いたモチーフは、注意深く、徹底的に排除されている。

 レイ・ブラッドベリ『華氏451度』ジョージ・オーウェル『1984年』の世界とは異なり、世界は恐怖と抑圧ではなく、ほほえみと幸福によって支配されている。どの世界でも文学と歴史は消え失せ、大いなる無知のうえに成り立っていることに変わりはないが、「すばらしい新世界」では戦争は起こらず、人々は涙の味を知らない。

 「なにも分らないわ。とりわけ」彼女は、言葉の調子を変えて言いつづけた、「あなたにそのような怖ろしい考えが浮かんで来たとき、なぜソーマを飲まないのか、ということが。飲めばそういうことはみんな忘れてしまうわ。そしてみじめな気持になる代りに、愉快になれるのよ。とても陽気にね」


 人生に、痛みと悲しみは必要だろうか?

 シェイクスピアが涙を知らなかったら、まちがいなく傑作はうまれなかっただろう。「もし私の人生の良かったことを挙げるなら、貧しかったことと、私が受けたすべての苦悩である」と、イタリアの写真家マリオ・ジャコメッリは書いている。

 感情の揺さぶりは、ものをつくる原点だ。作家や芸術家は、みずからを実験台として悲しみと絶望を食らい、創造のエネルギーに変える。しかし、そうでない人もいる。感情を殺したい、とわたしの友人はつぶやいた。感情を揺さぶられたくない、自分の浮き沈みのせいで、他の人に迷惑をかけたくない。穏やかで優しくありたいのに、と彼女は泣いた。

 「恐ろしいわ、恐ろしいわ」

 T字架や「フォード、フォード」と時を刻むロンドン塔、「フォードはその安自動車に、世はすべてこともなし」*1、「自己滅却に乾杯」というばかばかしい文句や設定が黒い笑いをさそうが、この世界の骨格は「穏やかな世界、平和な世界に生きたい」という願いのうえに立つ。この願いはおそらく多くの人々が抱えているもので、だからこそ「こんな世界はばかばかしい」と言い切れない、歯切れの悪さがある。


 いかにもイギリス人の作者らしく、本書ではシェイクスピアが重要な役割を果たしている。『すばらしい新世界』というフレーズはシェイクスピア最後の作品『テンペスト』からの引用*2であるし、いわゆる私たちの似姿である「野蛮人」はシェイクスピアを読んで育ち、ことあるごとにシェイクスピアの美しい言葉を口にしては、幸福な人々を困惑させる。そして、世界をこのようにしむけた「総統」もまた、シェイクスピアの熱心な読者であった。

 総統と野蛮人——おそらくこの世界においてシェイクスピアを愛読する唯一の人々——の対話は、本書でもっとも読みごたえがあった。とりわけ、総統のキャラクターには目を奪われる。

 世界が捨てたものの価値を知り、どこまでも正気でありながら、彼は涙を捨てる道を選んだ。この世界でもっとも力を持つ人でありながら、もっとも孤独で不幸な人間だといえるだろう。彼の心のうちを想像しだすと、とまらなくなる。

 「それはわれわれの世界が『オセロ』の世界と同じではないからだ。鋼鉄なしに安自動車は作れないだろう——そして社会不安なしには悲劇は作れないのだ。今では社会は安定している。人々は幸福だ。欲しいものは手に入るし、手に入らないものはみんなほしがらない。人々は暮しが楽で安全だ。病気にもならない。死ぬことを恐れもしない。激情や老齢などというものはさいわい知らない。母親や父親に煩わされることもない。妻や子供や恋人などという、激しい感情の種になるものもない」

 善悪というわかりやすい白黒を示さず、この物語はロンドンにうずまく灰色の霧で、読む者の心に浸食してくる。暴力沙汰よりもむしろこの灰色の静かさのせいで、砂をふくんだ綿飴のように、ざらりとした後味の悪さが残る。

 
 幸福と涙を天秤にかけ、世界はいつも傾いでいる。すばらしい新世界は前者に、すばらしいこの世界は反対側に。

How beauteous mankind is! O brave new world
That has such people in't!


人間がこうも美しいとは! ああ、すばらしい新世界だわ、
こういう人たちがいるとは!


――シェイクスピアテンペスト』第5幕1場

Aldous Huxley"Brave new world",1932.

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*1:ロバート・ブラウニングの詩「春」より、「神は天にいまし、全て世はこともなし」のパロディ。

*2:ナポリ王アロンゾーとミラノ大公プロスペローが、ともに死んだと思っていた息子ファーディナンドと娘ミランダにばったり再会した場面。ミランダが驚いて発した言葉。