ボヘミアの海岸線

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『バベットの晩餐会』イサク・ディネーセン|奇跡の晩餐会

 至福千年のときを彼らは一時間だけ与えられたのだ。——イサク・ディネーセン『バベットの晩餐会』

料理の芸術

 デンマークといえば、わたしの友人宅に居候していた饒舌なデンマーク人のことを思い出す。彼は友人が秘蔵していた日本酒をわがもの顔で空けては「デンマークの料理はまずいです。石のようなパンとじゃがいもしかない。本当にまずいです」と酔いどれていたものだった。入れた瞬間にすべての食材が同じ味になるソースがある、とも聞いた気がする。味の素のようなものだろうか。

 そんなわけで「デンマーク作家が書いた食事の物語」を手に取ったとき、ひさしぶりに彼の赤ら顔を思い出した。バベットが晩餐会でつくったのは、幸か不幸か、デンマーク料理ではなかったけれど。

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

バベットの晩餐会 (ちくま文庫)

 1万フランを使って開かれた、ただ1時間の「奇跡の晩餐会」の物語である。

 舞台は北海とバルト海をわかつユトランド半島、オールドミスの姉妹マチーヌとフィリッパのもとに、フランスから亡命してきた女性が「家政婦としておいてほしい」とたずねてくる。姉妹は地元に絶大な影響力を誇った牧師の娘として生まれ、地元の人々から敬愛されて育ってきた、いわゆる田舎の上流階級のお嬢さまである。姉妹がかつて世話をしたフランス人からの紹介状にはこうあった。

 「名はバベットという。彼女は料理ができる」


 料理ができる、という言葉どおり、バベットは日々の食事をつくった。彼女は主人たちが望むとおり、質素なじゃがいも料理とスープをひたすら食卓にならべつづけた。そうして十数年がたったころ、宝くじで1万フランをあてたバベットは、牧師生誕100周年の晩餐会で料理をつくりたいと申し出る。

 ふたりがついにその願いを聞き入れると、バベットは人が変わったようになった。ふたりは、バベットは若いころたいへん美しかったにちがいないと思った。そして、自分たちが実はこんどはじめて彼女の目に、アシーユ・パパンが手紙でいっていた「良い人びと」と映ったのではなかろうかという気がした。


 これほどの腕をよく「料理ができる」という素朴な言葉でかたづけたものだと感心する。ボフミル・フラバル『わたしは英国王に給仕した』に、皆が「アー」と絶叫するほどおいしい絶品料理「ラクダの丸焼き」が出てくる。バベットの晩餐会はそこまでぶっ飛んではいないものの、あのラクダ料理を思い出させる輝きがあって、食道楽者の端くれとして、うっとりしてしまう。

 おもしろいのは、このすばらしき料理が「田舎のちょっといい晩餐」として平然と出されていることであり、この食卓にあずかる「良い人びと」は、この料理が花の都パリでどれほどの評価を受けているかさっぱり知らずに「おいしい」と思いながら食べていることだ。ただひとりだけ、パリからやってきた将軍だけがその正体に気づく「観測者」として、読者への種明かしをする役割を担っているのだが、彼がひとり美味しんぼ状態で打ちふるえているのが笑いを誘う。


 この短い物語において、「欧州の田舎と欧州の都」という対比ははっきりしている。「地元の人々」の視線と、バベットや将軍などパリからやってきた「よそ者」の視点から見たそれでは、同じ晩餐会でもまったく違っている。彼らは同じ文化素養を持たないから、「どこそこ通りにあるレストランの牛料理は絶品だ」「何年代のワインがおいしい」といった言葉ではつうじあえない。その隔たりは深く、かつて登場人物たちはそれを乗り越えられなかった。だが、食事は人々の心をときほぐし、「うまいものはうまい」というシンプルな方程式で、パリの貴族階級と北欧の田舎名士を結びつける。

 「毎日わたしは、この身はおそばにいなくても、そう、肉体などなんの価値もないのですからね、心のうちでは今夜とまったく同じように、あなたとともに食事のテーブルに着くつもりです。実は、今夜こそわたしは悟ったのです。この美しい世界ではすべてが可能なのだと」


 生命力、ぬくもりといった抽象的な「良いもの」を、料理のカロリー(熱量とエネルギー)ときっちり重ね合わせて描ききっているのがよい。

 この物語はただひたすらにあたたかい。そのあたたかさが料理からくるのか、それとも人間の愛からくるのか、読んでいる途中でわからなくなるほどだ。食事は日々の生きる糧だが、本書においては、死んだ心を生き返らせる芸術でもある。

 冬の底をたたくような季節に読めてよかった。それにしても、もしバベットがデンマーク料理をつくったらどうなるのだろう。あの皮肉屋のデンマーク人もさすがに舌鼓を打たないものかな。



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カレン・ブリクセン——英語名義はイサク・ディネーセンはデンマーク生まれの作家で、デンマークの50クローネ紙幣に彼女の肖像が描かれている。

Isak Dienesen"Babette's Feast",1958.

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