キリキリソテーにうってつけの日

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『空襲と文学』W.G.ゼーバルト

 「ただ瞼に残っているのは、石の荒野に真っ黒にそびえていたケルン大聖堂の姿と、瓦礫の山の上で見つけた、一本のちぎれた指ばかりだった」——W.G.ゼーバルト『空襲と文学』

歴史の天使

 明晰かつ誠実に、誰もが隠したがる闇を切りひらく。白い炎と対峙しているような読みごこちだった。壮絶である。

 『空襲と文学』は、ゼーバルトがスイスのチューリヒで行った連続講演を書物としてまとめたものだ。薄暗い闇を蛇行する水のような小説スタイルとはうってかわり、ゼーバルトは峻烈きわまる筆致で「記憶の消滅」に抗う者としての心を開陳する。

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

空襲と文学 (ゼーバルト・コレクション)

 いわゆる<過去の克服>と称されるものにドイツは大きな努力を払ってきたが、にもかかわらず私には、ドイツ人は驚くほど歴史に眼をふさぎ、伝統を失った国民になってしまったという感が否めない。

 ドイツ全土をおおった無差別絨毯爆撃によって数十の都市が壊滅し、数十万人が犠牲になった。だが、この空襲についての記憶は、ドイツ語ではほとんど記録されなかった。空襲の惨状を目の当たりにした人々は沈黙し、文学者たちは書かなかったのだった。

 ゼーバルトはこの現象を「集団的記憶喪失」と呼び、なぜ空襲の惨劇は語られなかったのか、文学はどういう態度を示したかをえぐり出す。

 大多数のドイツ人が嘗めた破壊の最終章におけるもっとも暗澹たる部分は、こうしていわば恥ずべき、一種のタブーとも言える家族の秘密と化したのであり、その秘密はおのれ自身にすら打ち明けられないものとなった。

 奇跡の経済復興には、これら多少とも歴然とした要因に加えて、純粋に精神的な次元の触媒があった。それこそが、ひた隠しにされた秘密、すなわち自分たちの国家の礎には累々たる屍が塗り込められているという秘密を水源とする、いまなお涸れることのない心理的なエネルギーの流れだったのである。

 そこかしこに吹き飛びねじくれた四肢の断片、日ごと孵化して地表を覆い尽くすうじ虫、目を開けていられないほどの暴力的な臭気、みずからの脂肪で蝋人形と化して、燐光を放っていつまでも燃える死体。わずかながらゼーバルトが紹介したごくわずかな断片ですら、地獄の片鱗がほの見える。あの空襲について書こうとした人が「ケルン大聖堂とちぎれた指しか思い出せなかった」と述べたエピソードは、記憶から抹消せずにはおれなかった事象のすさまじさを物語っている。


 あまりにも強烈な地獄を見た人が記憶を閉め出すこと、V.E.フランクルが『夜と霧』で書き残しているように、これは生存本能だ。しかし、ペンをにぎり記録すべき人々――たとえばジャーナリストや文学者が「個人および集合的な健忘症と歩調を合わせ」、「まわりを取り巻く状況を描写することよりも、まずは自分自身を再定義すること」に奔走していたことを、ゼーバルトは厳しい筆致で指摘する。

 戦後のドイツ人文学者によって「物語」は数多く書かれた。しかし実際のところ、これらは記憶の欠落した俗悪な「美談」や「回想録」、つまりは「想像の範囲内のもの」だったという。現実が想像をこえるほどの凄惨さを見せつけるとき、物語は逆に「想像の範囲におさまる」ものへと、予告された失神のように退化する。

 自分が伝えたいイメージの修正にあとから汲々とするということ、ここに、この世代全体のドイツ人作家がみずから見たものを書き留められず、私たちの記憶に残せなかったことの大きな原因のひとつがあると私は考えている。

 本書がいくつかの強烈な批判を受けた、というのは当然だろうと思う。「自分たちの国家の礎には累々たる屍が塗り込められているという秘密」の紳士協定を破って「なぜわざわざ寝た子を起こすまねを」と言いたくなるのかもしれない。ノーベル文学賞を受賞したギュンター・グラスが、『玉ねぎの皮をむきながら』で、かつてナチスの親衛隊であったことを暴露したことが大スキャンダルとなったように、生きのびたドイツ知識層は、かつて切り離した過去の自分が現実に追いついてくることにおびえ続けている。

 ゼーバルトは戦争に加担しなかったから、こういうことが言えるのかもしれない。だが――これはあくまで想像にすぎないが――ナチスに関わっていたとしても、そのことを包み隠さず書いただろう、とも思う。

 彼の、記録にたいする誠実さと、記憶の消滅にあらがう静かな激情はどこからきているのだろうと、『アウステルリッツ』を読んだときから考えていたものだが、本書を読んでその片鱗が見えた気がした。『空襲と文学』と『アウステルリッツ』はスタイルにおいても筆致においてもまるで異なる作品だが、両者が描くのはともに「忘却への抵抗」であり、だから本書は『アウステルリッツ』の裏面、著者自身による解題だといってもいいかもしれない。


 穴ぼこだらけになった世界に薄布をかけて、人はその上に文字を書き、新しい町を作り上げてきた。だが穴の下には累々と骸が転がっているのであり、ペンをにぎる者は薄布の空白を埋めよ、と作家は言う。

 だが、ゼーバルトはリアリズムやノンフィクションを礼賛しているわけではない。むしろ彼は、知り合いの日本人の家の話をしながら金閣寺の写真を持ち出してきたことからもわかるように、積極的に虚構と現実をない混ぜにする。ペンを取って忘却に抗えといいながら、すでに書かれたもの(それはもちろん自分の作品を含んでいる)もまた忘却に加担していることを絶えず示唆する。

 書くことへあまりに誠実であろうとするがゆえに、その限界をも誠実に提示せざるをえない。「書くことは救いだ」などという安直なセンチメンタリズムにはけして陥らない。

 私がゼーバルトを好きな理由は、書くことへの情熱と誠実であろうとする知性ーーそれは懐疑を意味するーーが、モナリザのように不可思議にまじわっているからかもしれない。


 かなり長く引用されている(だが、けずる個所がひとつもない)ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の天使」*1についての言葉は、過去に目を向ける――向けざるをえない――文学者としてのゼーバルトを表現しているかのようだ。

 「歴史の天使は、目を大きく見ひらいて、ただ破局のみを見る。そのカタストローフはやすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それを彼の鼻っ先へつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使と、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗力的に運んでいく。その一方では、かれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものはこの強風なのだ。」

W.G.ゼーバルトの著作レビュー

W.G.Sebald "Luftkrieg und Literatur",2003.

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*1:パウル・クレーの絵画「新しい天使」への省察