ボヘミアの海岸線

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『無声映画のシーン』フリオ・リャマサーレス

 今では雪になっている母に。

——フリオ・リャマサーレス『無声映画のシーン』

架空の写真

 わたしにとってリャマサーレスは“追憶の作家”である。かつてリャマサーレスは、すべてを食らい尽くす時間と記憶の漂白を、廃村に降る『黄色い雨』に例えた。

 記憶は、おそらくネックレスからほどけ落ちた真珠の一粒のようなもので、連続していた出来事はすりきれて前後の文脈や連続性を失い、やがて任意の一点だけが残る。

 だが、残った一粒から、ネックレスのかつての姿と首にかけていた人を想像することはできる。リャマサーレスはある精神科医の言葉をかりてこう述べている。

 「創造力とは発酵熟成した記憶にほかならない」

無声映画のシーン

無声映画のシーン

 その追憶の作家が、写真と記憶にまつわる物語を書いた。母が残した30枚の写真を触媒にして、作家は1枚の写真につきひとつ、全部で30の小さな記憶を想起する。記憶の舞台は、作家が幼少期を過ごした鉱山の町、オリェーロス。スチュアート・ダイベックのシカゴが色とりどりにきらめいていたのとは対照的に、リャマサーレスのオリェーロスでは、鉱山のモノクローム、洗濯物の白と鉱山の煤が世界のすべてを支配していた。

 事実、ぼくは長い間、色というのは空想の中にしか存在しないと思い込んでいた。

 そこでは日々の生活を彩っている色彩は白と黒だけであり、子どもの空想世界で現実と夢がひとつに結びついているように、時には生と死が渾然とひとつに溶け合っていた。

 「真を写す」という文字の並びとは裏腹に、リャマサーレスは「自伝」ではなく、あくまで「想像上の物語」だと語る。鉱山はすでに閉山しており、本書の中に登場する人物たちのほとんどは実在しない。
 作家が語るのは、存在しない写真から織り上げた、架空の記憶である。あごに世界を乗せて回していた大道芸人、テレビがはじめて村に来た日、記憶からは消えて写真のみに残る友人の面影、黒い痰を吐きながら鉱山で生きて死んでいった男たち、坑道で死にかけたあとに見た外の世界の美しさ。

 今のぼくには、自分の過ごしている日々がやがて石炭に変わっていくこと、父がぼくたちに話してくれたことは単なる空想でもなければ、ましてや作り話でもないことが分かっている。

 あの日のぼくたちにはそこから見えるのが地上でもっとも美しい風景のように思えた。


 自伝的小説があまり好きではないので、じつは少し本書を読むことをためらっていた。同じ構成で別の作家が書いたら、おそらく「写真をモチーフにした自伝的小説か」と放り出していただろう。しかし、リャマサーレスならばと手に取った。『黄色い雨』『狼たちの月』の壮絶な物語構成とはうってかわり(だから両作品と同じ雰囲気を期待しない方が懸命だ)、『無声映画のシーン』はほろほろと生まれては消えていく数ページの幻影の積み重ねだが、透徹した視線と筆はこびは、あいかわらず沈むように美しい。

 リスボンのカイス・ド・ソドレに一軒の古びたカフェがあるが、そこではポルトガルの多くの居酒屋や商店と同じように、時間は止まっているだけでなく、逆方向に流れている。


 人は実在しない記憶を思い出すことができるし、遠い異国の作家がうみだした架空の記憶について、とまどうほどの懐かしさを覚えることもできるのだと知った。本書を読むと、予想もしていなかった記憶のひきだしが開く。わたしが思い出したのは、幼いころに住んでいた団地のとなりにあった「外人屋敷」のプールの記憶だ。壊れた塀をよじのぼり、わたしたちは外人屋敷に侵入しては、水が張られなくなって久しくすでに廃墟となったプールのはしごを降りて、つもる枯れ葉の海を泳いだものだった。

 記憶は、きわめて個人的なもののように見えて、じつはそうでもないのかもしれない。人が死ねば体は朽ちて土にかえるように、記憶は断片となって、写真や物語、生きている誰かの記憶へしみこんでいく。世界から自分の存在が消えても、存在の痕跡はかすかに残る。
 この考えは死へのなぐさめだ。実際は、多くの記憶は跡形もなく消えていく。だからリャマサーレスはくりかえし、忘却と記憶について、祈りにも似た切実さをもって書き続けるのかもしれない。雪の森でしんしんと燃え上がるたき火のような、リャマサーレスの炎をかいま見た気がした。

 彼らが誰で、何をし、死んだのかどうかさえ分からないが、写真がある限り彼らは生き続けていくだろう。というのも、写真は星のようなもので、たとえ彼らが何世紀も前に死んだとしても、長い間輝き続けるからだ。

フリオ・リャマサーレスの著作レビュー:

Julio Llamazares "Escenas del cine mudo ",1994.

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