ボヘミアの海岸線

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『ナペルス枢機卿』グスタフ・マイリンク

 私たちがなしとげる行為には、それがいかなるものにもあれ、魔術的な、二重の意味があるのだ、と。私たちには、魔術的でないことは、何ひとつできない――。

——グスタフ・マイリンク『ナペルス枢機卿』

おぞましき、この現世

 真夏の日照りが続くさなかにマイリンクを読むと、あまりの明度の違いに目がくらむ。マイリンクの小説世界には、太陽の気配や生命の明るさといった陽の気配がいっさい感じられない。あるのはただ闇、虚無ではなく、見えないなにかが満ちてうごめいている、密度の濃い暗黒だ。

 マイリンクの見る世界は悪夢のようである。彼は、世界がふたつの不平等なあちらとこちらに分かれており、わたしたちが日常と呼ぶ「こちら」の世界は、たえず「あちら」の世界に浸食されているという世界観にもとづいて、小説世界を構築した。空は、布にくるまれたあちらの世界がおおっており、そのすきまからはたえず黒い水銀の暗黒がもれ出てくるように、彼には見えていたのではあるまいか。

ナペルス枢機卿 (バベルの図書館 12)

ナペルス枢機卿 (バベルの図書館 12)

  • 作者: グスタフ・マイリンク,ホルヘ・ルイス・ボルヘス,種村季弘
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 1989/04/21
  • メディア: 単行本
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 生の喜びは水銀の雨によって枯れ果て、その粋をあちら側の「なにか」が享受して飲み干す、という世界観は本書におさめられた3つの短編「J・H・オーベライト、時間-蛭を訪ねる」「ナペルス枢機卿」「月の四兄弟 ――ある文書」に通底しており、それゆえ本書は、小説というよりは、むしろ魔術書といったほうが正確かもしれない。


 3つの作品には、あちらの世界に気がついてしまい、境界のあいだに立つ不可解な存在が登場する。
 「J・H・オーベライト」は、「わたし」の祖父の友人であったという男が、じつは自分が不死であると打ち明け、そこにいたるまでの経緯を語る。彼と伝説の錬金術師ヘルメス・トリスメギストス*1を始祖とする教団の一員で、「なぜ人は死ぬのか」を悟った。
 「ナペルス枢機卿」は、水深の測定に熱心な謎の男が、かつて秘密結社のような団体に所属しており、みずから体を鞭打って流れ出た血を青トリカブトに与えるという儀式をしていたことを明かす。青トリカブトは、聖者ナルペス枢機卿の似姿であり、種となる猛毒を飲めば山をも動かせると信じられていた。
 「月の四兄弟」では、ふにゃふにゃの水頭を持つ謎の紳士たちが年に1回集まっては、月の話を熱心におこなっている。謎の紳士たちの存在はなかなか狂っていて、帽子を脱ぐと頭の形がおさまるまでに異常に長い時間がかかり、「頭蓋骨そのものの見知からいってもゆで卵然としている」(すごい訳出である)のだ。

 愕然として私はさとったのです。自分の全生涯がなんらかの形でもっぱら待つことから、待つことのみから―― 一種とめどのない流血から――成り立っていたのであり、現在を感受するのにのこされている余地は時間の統計にしてほとんど何時間もありはしなかったのだ、と。
 ――「J・H・オーベライト、時間-蛭を訪ねる」

 「生、おぞましい、恐ろしい生、これが私たちのたましいをからからに涸らしてしまったのです。私たちのこれだけは自分のものという、もっとも内的な自我を盗んだ。そこで、四六時中悲嘆にかきくれて泣きわめくわけにもいかないので、私たちは子どもじみた茶番を追いもとめる――うしなったものが何かをわすれるために、ね。ひたすら、わすれるために。けど、自己欺瞞はよしましょうや!」
 ――「ナペルス枢機卿」

 「あれはつい最近のことでしたが、伯爵殿、機械はほかならぬ月の生物だと、そういうお手紙を下さいましたな? あれをどう理解すればよろしいのでしょうか?」
 ――「月の四兄弟」


 彼らは、希望や信仰、救いといった現世のつらさをなぐさめるものを唾棄し、憎悪を隠さない。この世のつらさは忘れるものではなく、まやかしによって慰めるものでもない。「本当の生を生きる」には、日々の雑事や期待、なぐさめを捨て去れという。
 これはきわめて魔術的な姿勢だ。世で認識されている世界の構築式に否をとなえ、みずから信ずる構築式を論理的に組み上げてみせることを魔術と呼ぶのなら、マイリンクはたしかに魔術師のひとりであったのだろう。核となる信条、そしてその信憑性を強固にする論理があれば、宗教は組み立てられる。事実、彼はユダヤ教のみならず錬金術やカバラ、占星術に傾倒し、やがてオカルティズムの本を編集してついには仏教を信仰するにいたっている。

 死ですら捕まえることのできない、なにか予測しようのないものがむくむくふくれあがって、それに較べれば海などバケツ一杯の水にすぎぬような大河と化してしまう、そんな気配を皆さんも感じておいでなのではありますまいか?

 おそらく、マイリンクは自身の作品をフィクションだとは思っていなかったのではないだろうか。名状しがたいものへの恐れ、この世への愛着の欠如が呪文のように渦巻いている本書は、魔術書の走り書きが、たまたま小説のかたちをとって顕現しただけかもしれない。
 マイリンクの魔術は、この世や理に変化をもたらそうとするオフェンシブな魔術ではなく、あちらの世界からの侵入を恐れるディフェンシブな魔術であった。

 眼にはみえないものがめきめき大きくなってゆくのに、私にはその根が見つからないのです。


収録作品

  • 「J・H・オーベライト、時間-蛭を訪ねる」 *
  • 「ナペルス枢機卿」 **
  • 「月の四兄弟――ある文書」**


グスタフ・マイリンク著作レビュー:

Gustav Meyrink "Der Kardinal Napellus",1916.

recommend:

  • ホフマン『黄金の壷』…ドイツ幻想文学の大輪。
  • ポー『黒猫・アッシャー家の崩壊』…名状しがたいものへの恐怖。
  • ラブクラフト『クトゥルフ神話』…名状しがたい存在への恐れ。
  • ニーチェ『ツァラトゥストラ』…超人へ至れ。
  • ホルヘ・ルイス・ボルヘス『不死の人』…同じ不死の人を描くにしても、こうも違うものか。

*1:ヘルメス・トリスメギストス:エメラルド板やヘルメス文書の著者とされた伝説の錬金術師。不老不死の力を得る「賢者の石」を唯一、手にした人とも言われている。