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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』ヨシフ・ブロツキ―

ロシア文学 ☆☆☆☆

 ぼくは随分前から、人間の感情生活を売り物にして飯を食わない、というのを美徳にしてきた。その他常にやるべき仕事は山ほどあるし、外には広い世界があること、これは言うまでもない。そして最後には、いつもこの町にたどりつくのだった。——ヨシフ・ブロツキ―『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』

追憶の水路

 迷子になりたい、行方不明になってしまいたいという思いがいつからめばえたのか、もう今となっては思い出せない。自分をとりまくものから逃げ出したいわけではなく、かといって、なにか目的があるわけでもない。

 あえていうならそれは、空白へのあこがれ、迷宮への熱情であったかもしれない。いつ、どこで、誰が、なにを、どうした、といった新聞記事に必要な情報をすべてそぎおとし、時空間のすきまへ魚のように沈んでいけば、自分がもうすこし自分になじむ気がした。

ヴェネツィア―水の迷宮の夢

ヴェネツィア―水の迷宮の夢

 ロシア生まれの作家ブロツキーもまた、迷宮の熱情にとりつかれた人間だったのだろうか。彼がさまよったのは冬のヴェネツィア、うるわしき観光都市ではなく、深い霧に閉ざされ、案内人なしには迷ってしまうような、水路がいりくんだ美しき迷宮だ。ブロツキーは毎年、冬になると1か月ほどヴェネツィアに滞在する生活を、17年にわたって続けた。本書は、小説ともエッセイともいいがたい、詩的な文章のつらなりである。まさに幾千もの水路でつながるヴェネツィアそのものに似ている。これは、ヴェネツィアの心象風景の断片を集めた、ひとつの意識の水脈だ。

 特に冬、この地方特有の霧、あの有名なネッビアが、水に映る影はもちろん、建物、人、列柱、橋、彫像など、およそ形を持つものすべてを突然消し去ることによって、この場所を、どんな宮殿の奥深くにある聖域よりもはるかにはかないものにしてしまう時だ。船のサービスはすべてキャンセルされるし、飛行機は何週間も飛ばず、店は閉まり、郵便物は戸口に散乱しなくなる。その効果は、まるで誰かの不器用な手が、あの続き部屋を裏がえしにして、町全体を裏地でくるんだみたいな感じだった。

 本書を読んでいると、現実の都市を描いているとは思えないような浮遊感、とりとめのなさに襲われる。作家はいくつもの心象風景を語るが、いつ、どこでといった情報はつつましく隠されている。それゆえ読者は、時間がとまった深い魔法の森に迷いこんだように、書物のなかを彷徨するにつれて時間と現在地の感覚を失っていく。

 夜のなかをゆっくりとすすむ船は、無意識のうちを流れていく筋道だった想念に似ている。

 この茫漠としたエピソードの断片を結びつけるのは水、記憶の媒介としての水である。「水は時のイメージだ」とブロツキーがくりかえし述べているように、水は過去から未来へと直線的に流れるのではなく、水路のように入り組むものとして描かれる。

 なにに目を留めたというわけでもないのに、突然恐ろしいほどの幸福感につつまれた。ぼくにとっては「幸せ」と同じ意味をもつ、凍った藻の匂いを吸いこんだのだ。ある人にとってそれは刈り取ったばかりの草、あるいは干し草の匂いかもしれない。また別の人にとってはクリスマスの樅の木やオレンジの香りかもしれない。ぼくにとってそれは凍った藻の匂いだ。

 ヴェネツィアの美しさ、自分が愛するもの、幸福について作家は語る。この語り口にはどこか、おもはゆささえ感じる。霧たちこめる冬のヴェネツィアの奥深くに隠れなければ、みずからの心をさらけ出せなかったのだろうか、そんなことを考えてしまう。

 幸福というのは、自分が内部にもっている何かが自由に宙を漂っているのを見つけた瞬間に生まれる感情ではないだろうか。その夜も、幸福のもとになるそんな要素が、完全に自由な姿で、少なからずそこらに漂っていた。そしてぼくは冷たい空気の中で、まるで自分の画像そのものの中に踏みこんだように感じた。

 総じて、愛というのは光速で現れ、そして別離は常に音速でやってくる。

 愛というのは無我の感情で、一方通行なのだ。

 ブロツキーの描くヴェネツィアは、個人的な回想でありながら夢のようにあいまいだから、わたしのイタリアの心象になじんで溶けた。ときおり目につく日本語のかどがなければ、もっとするりとなじんだだろう。

 霧のように、水のように、記憶の水路に流れこんでくる書物だった。記憶の回路と水路の形が似ているからだろうか、ブロツキーの語りはいやおうなしにわたしの個人的な記憶を呼び起こす。わたしと彼は、生まれも国も時代もなにもかもが違うのに、深いところでなにかが共鳴する気がするのだ。そういえば須賀敦子は、「ヴェネツアの宿」というエッセイで、幼い頃に父の愛人に会った記憶をヴェネツィアの宿で思い出したのだった。

 わたしの個人的な記憶は、わたしだけのものではないのかもしれない。水路を歩けば、誰かの記憶が流れこんできて、わたしのものもすこし溶け出し、霧深い水路の向こうに消えていく、そんな幻想をこの書物は思い起こさせるのだった。

Ио́сиф Бро́дский, Joseph Brodsky"Watermark",1996.

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