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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『灯台守の話』ジャネット・ウィンターソン

 話せば長い物語だ。そして世の物語がみなそうであるように、この物語には終わりがない。むろん結末はある——物語とはそういうものだ——けれど、結末を迎えたあとも、この物語はずっと続いた。物語とはそういうものだから。——ジャネット・ウィンターソン『灯台守の話』

居場所はなかった

 この世に生をうけるとは、頼りない糸を体にからませ、世界からぶら下がることに似ている。糸はそうやすやすとは切れないが、宙に浮いているような足下のおぼつかなさはぬぐえない。家族や友人、まわりの人々が糸をたぐりよせることによって、人は地面に近づいていき、やがて足場を踏みしめる。おそらく私たちが社会と呼んでいるものは、所在なさの不安をたがいに軽減するための、無数の梁の往来だ。
 だが、地面に足が届く前に、たぐりよせてくれる人がいなくなってしまったら? 

灯台守の話

灯台守の話

灯台守の話 (白水Uブックス175)

灯台守の話 (白水Uブックス175)

 母さんはわたしをシルバーと名づけた。わたしの体は銀と海賊とでできている。

 語り手シルバーは、断崖絶壁に突き刺さった斜めの家、まるで彼女の未来を予告しているかのように、足下がおぼつかない場所に生まれた。家具がすべて床に打ちつけられている奇妙な家で、シルバーは母親とふたり、命綱とともに育つ。しかし、ある日、母親がおよそ想像もつかないような不慮の事故でなくなった後、シルバーは盲目の灯台守ピューのもとに引き取られる。

 ジャネット・ウィンターソンの作品では、大人は抑圧的な存在として描写されることが多いように思うが、『灯台守の話』ではすてきな大人がふたり登場する。ひとりはシルバーの母親、もうひとりがピューだ。「ピュー、お話を聞かせて」というシルバーの声にこたえて、ピューは100年以上も前の人たちの人生、ダーウィンやスティーブンスンなどの歴史に名を残した人物について、まるで自分自身が見てきたかのように語る(子供に「本当は何歳なの?」と言わせる大人は最高だし、いつかわたしもそんな妖怪のような存在になりたいと思う)。
 家族を失ったシルバーをたぐりよせたのは、ピューと、代々の灯台守に受け継がれてきた物語だった。しかし、シルバーは大事な人をふたたび失う。

 二つの大西洋があった。一つは灯台の外に、一つはわたしの中に。わたしの中の海に、わたしを導いてくれる光の列はなかった。


 救い、の物語なのだと思う。彼女をたぐりよせる身近な人の手を失ったかわりに、シルバーは、顔も知らない祖先たちの物語という見えない糸を織り上げ、自分と世界をつなぎとめた。
 だからだろうか、ひとつの物語を順序だてて話すことはひどく難しい、と彼女は告白する。精神科医とシルバーの会話は、この物語の根っこにある考えを象徴しているように思う。シルバーに分裂症の疑いをかけて、医者は「自分にはいくつもの人生があると感じることはあるか」と聞く。シルバーは答える。
 「もちろんです。たった一つだけの物語を話すなんて、そんなの不可能です」

 人ひとりの生が、医者がいうように個人だけで完結するもの、明滅する光の一点ならば、死んだ時に光は吹き消える。しかし、灯台守は違う。彼らは光を消さず、次の世代へとつないでいく種類の人々だ。灯台を作ったバベル神父の人生は、100年前のピュー、50年前のピュー、今ここに生きているピューを経て、シルバーに受け継がれた。

 灯台は、暗闇のなかの確かな点だ。


 人と世界をつなぎとめる引力、そして自分が消えた後の世界に存在をとどめる証として、ジャネットはきわめて力強い、物語への信仰心を打ち明ける。彼女にとって物語とは、今ここに生きている人間を支えるもので、その目線は過去というよりは、むしろ未来へと開かれている。物語はが本当にあったことかどうかは、もはや関係ない。つないでいくこと、語ることそれ自体が、祈りに似ているからだ。
 わたしもまた物語を必要とする人間のひとりだが、おそらくジャネットほど強い信頼はおききれない、と思ってしまった。それはゼーバルトの低いつぶやきがわたしのうちにこだましているからで、あの明晰な作家は、後世に読みかえられていく物語、自分のために語る物語の危うさを指摘する。ほの暗い憂鬱の底から浮かび上がる誠実に心ひかれる身には、ジャネットの信条はいささかまぶしすぎる——それはもしかしたら悲しむべきことなのかもしれないが。


 物語を愛する人は、人生が忘れられることを悲しむ人だと思う。人は肉体を失うことでいちど死に、誰からも思い出されなくなった時にもういちど死ぬ。バベル神父が大事にしていたタツノオトシゴの化石(ハードカバー・文庫ともに表紙のモチーフになっている)は、自分が消滅してなお誰かの目にとまりうる幸運の証、祈りの向かう先として、数万年後の少女の手の中に転がっている。


ジャネット・ウィンターソンの著作レビュー:

Jeanette Winterson "Lighthousekeeping",2004.

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