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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『アテネのタイモン』ウィリアム・シェイクスピア

イギリス文学 ☆☆☆ シェイクスピア全集

 偉大なタイモンだ、高潔、高尚、高貴なタイモン公だ!
 だが、ああ、そのようなほめことばを買う金がなくなると
 ほめことばを言う声もなくなってしまうのです。
 ごちそうの切れ目が縁の切れ目、冬の氷雨が降りはじめると
 青蠅どもは身をかくすのです。

——ウィリアム・シェイクスピアアテネのタイモン』

人間不信のつくり方

 人はなぜ、人間不信になるのか。
 ルキアノスの対話篇で『人間嫌いのタイモン』として歴史に名を残す男を、シェイクスピアは善意あふれる男として描いた。すべての人間は友人であり、悪い心を持つものなどひとりもいないと人間を無邪気に信じていた男が、なぜ洞窟にひとりこもり、人間を呪うようになったのか。

 アテネに住むタイモンは裕福な男で、祝宴をひらいては人々を招き、豪勢な贈り物をあらゆる人々に惜しみなく与えていた。しかし、どれほど財産をもっていようとも、とめどない放蕩生活をしていればいずれ底をつく。スパルタにまでおよんでいたタイモンの領地はことごとく譲り渡され、タイモンは破産する。

 まったく、なんておおぜいのやつらがタイモンを食いものにしていることか、しかも本人は気がついていないのだ! あんなおおぜいのやつらがたった一人の男の生き血に肉をひたして食っているのを見ると、この胸が痛む。気ちがい沙汰というほかない、おまけに本人がそれを推奨しているとは。よくも人が人をあれほど信用していられるものだ。

 破産してもなお、タイモンは楽観的だった。あれほど恩恵をほどこしたのだから、友人たちはきっと自分を助けてくれるに違いないと。しかし、金の切れ目が縁の切れ目、やってくるのは追従者と山のような請求書ばかりで「友人」はひとりもやってはこない――。


 思うに、生まれつき人間不信である人はそうそういない。人間嫌いと人間不信は似て非なる。人を信じまいと心に決めるのは、かつて人を信じたいと願い、しかしその思いがかなわなかったからではないか。人に希望をかけていたからこそ、恨みもまた一段と深くなる。

アルシバイアディーズ あのタイモン公が、どうしてこうまで変わりはてたのだ?
タイモン 月と同じく、放つ光がなくなって変わったのだ。
 だが、月はまた満ちるが、おれは欠けたままだろう、
 光を貸してくれる太陽がおれにはないからな。

 太陽は泥棒だ、その強大な引力でもって大海原からこっそり水を吸い上げておる。月もあきらかに泥棒だ、その青白い炎は太陽からかすめとったものだ。

 光に関する比喩を、タイモンはもちいる。光とは、かつて心にあった人間への親しみ、信頼のことだろうか。タイモンは自分が変わったことを直接的に嘆きはしないが、「光を失った」という言葉には、もう戻らない昔を見送るような憂愁さがただよっている。


 タイモンの性格の変貌ぶりは、シェイクスピア劇の中でも特異なものだが、これはタイモンのポリシーのなさをあらわしているように思う。金を与えて寄ってくる人間の追従ばかりを受け入れ、忠告してくる哲学者や執事の言葉を無視したタイモンは、あまりにも人間――自分も他人も含めて――を知らなさすぎた。

 彼は寛大なのか? それとも、見たくないものにはふたをし続けるだけの無知だったのか?

 タイモン公の性格描写とその末路は、複雑な問題を提起している。人に恩恵を与えたタイモンが裏切られるのは悲惨だ、とする見方もあれば、彼はおせじというサービスを不当に高く買い続けただけなのだから、彼は友情を築けなかっただけだ、という見方もある。

 タイモンにとっての幸せは、皆が笑って楽しくすごすことだったのだとすれば、その無邪気さを責められる人があるだろうか。しかし、彼は温厚に怠惰であった。見たいものだけを見て、忠告や財産状況といった見たくないものからは目をそむけ続けたこと。そして、自分と他人は同じだ、というあまりにも単純な人間観でその年まで生きてしまったこと。「自分が寛大だから他人もそうだと思うのだ」という執事の言葉は、タイモンの性格をするどく指摘している。


 シェイクスピアは問題を示すが、答えは示さない。読者は冷たい水をかけられたまま、呆然と取り残される。放り出された劇はあっけない幕切れを迎えるが、タイモンが残した靄はあまりにも大きい。読後すぐよりむしろ、読んでしばらくしてから存在が増してくる、パン種のようなシェイクスピアであった。

 ああ、人間の耳ってやつは、追従にのみ開かれ、忠告には閉ざされるとは!

William Shakespeare "Timon of Athens",1607-08.

シェイクスピアの著作レビュー:


omake:
 余談だが、ナボコフ『青白い炎』(Pale Fire)は、『アテネのタイモン』中の詩からとっている(参考:Wikipedia"Pale Fire")。ナボコフファンは読んでみてもいいかも。

 The moon's an arrant thief,
 And her pale fire she snatches from the sun.
 月もあきらかに泥棒だ、その青白い炎は太陽からかすめとったものだ。