キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『酢豚つくりもりもり食ったブス』螺法洞

 二人で一枚の切符を車掌に見せ、一人は降ろされても仕方ないがもう一人は乗りつづける権利があるはずだと言い切ってみせる、あの茶目っ気。かと思うと、同じ論理を巧みに利用して、一方が逮捕された時、自分も投獄されたら訴訟を起こすともう一方が脅したあの忠誠心。*1

回文から蘇り

 「過去の文献の発見」「伝聞の伝聞」というメタフィクション形式は、長く文学で用いられてきた。ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』は、もともとラテン語で書かれ、フランス語に訳されたアドソの手記を発見したというところから始まり、セルバンテス『ドン・キホーテ』はモーロ人の歴史家 シデ・ハメーテ・ベネンヘーリがアラビア語で記録したものをセルバンテスが編集した、という体裁を取っている。『酢豚つくりもりもり食ったブス』も伝統的なメタフィクションの形式をなぞるが、この物語が特徴的なのは、もとの文献はすでに散逸し、回文としてのみその名をとどめている物語を復元した、というところにある。
 口承文学の文化圏においては、いかに口に乗りやすく記憶しやすいかで物語の耐久性が決まるといっても過言ではないが、その点、上から読んでも下から読んでも同じ回文は、きわめて優れた記憶定着性を持つ。しかし、作者はただの復元では終わらせず、われわれにとってなじみの深いブスがは双子の姉妹であったという驚愕の事実を告白するところから、物語を始める。

 舞台は、19世紀末の香港と日本。イギリスに永久割譲された香港と、開国した日本という、強制的に異文化への道をひらかれたアジアの2国をまたいで、時代の激流に翻弄された不運な一族の物語である。一卵双生児として生まれた姉妹は、どちらが自分であるかもわからなくなるほど魂を共有しており、相手のことを「わたし」と称して語ることも少なくない。これは、自分たちのことを常に「ぼくら」と呼んだ『悪童日記』の双子を思わせる。

 「あの子たち、離ればなれは我慢できないと思うわ」
 お父さんが言う。
 「離ればなれといったって、学校の授業時間だけのことだよ」
 お母さんが言う。
 「あの二人には、とても辛抱できないことよ」*2

 彼女たちは魂が未分化であった。そんな彼女たちを唯一見分けるすべが、酢豚にはいったパイナップルが好きか嫌いかということ。少女時代に家族で囲んだ中華料理屋の丸テーブルで、双子たちがはじめて異なる行動をとったことに家族たちは驚いたが、なにより驚いたのは彼女たち自身だっただろう。
 食卓で生まれた小さい亀裂は、双子が香港と日本にそれぞれ残ることを決断した瞬間、決定的な溝となってふたりを分かつ。ひとりがふたりになる瞬間は、周囲の人間から見ればなんてことはないシーンかもしれない。しかし、彼女たちにとっては人生が根っこから覆された劇的な一瞬であり、これから数十年をかけて、その亀裂と戦うことになる。

 「いままであなたに会ったことなどありませんよ」
 「ああ、別れてから悲しみが私を変えてしまったのだ、心労の歳月が、時のかたわの手で、私の顔をみにくく書き変えてしまった」*3

 同じ顔であるにもかかわらず、ひとりは美人と褒めそやされ、もうひとりはブスとののしり続けられたことは、美への感覚、文化コードの違いによるものだが、この扱いの違いが彼女たちの分化をさらに加速させたことは疑いようがない。環境と時間は、かくも人間の魂に重大な影響を与えるのだ。
 一方で、分たれたふたりを強制的に「同一化」させようとする外部の視点も見逃せない。その代表ともいえるのが無粋なイギリス紳士で、彼は彼女たちを「アジアの女」という記号でひとくくりにまとめ、「征服者としての男/西洋」「非征服者としての女/東洋」という二局対立の構造を浮かび上がらせた。帝国主義的な二元論はいささか単純すぎるきらいがあると感じたが、実際にこうしたイギリス紳士のような人間がいたことも事実なのだろう。地下街のワニによってあのようなことにならなければ、イギリス紳士はおそらく、彼女たちの人生を決定的な形で破壊していたかもしれない。

 はじめ、彼はそれを鏡だと思った。通りすがりに一瞥したレストランの店内に、大きな鏡があるのだと。だがそれは、テーブルを挟んで食事する双子の女だった。ふたりは同時に顔をあげ、同時に視線を皿に落とし、やはりこれは鏡かもしれないと男は思った。*4

 やはり本書の見所は、双子が十数年ぶりに邂逅するシーンだろう。かつての幸せだった「完全なる合一」の頃ーーその大部分は幻想にすぎないのだが——に戻りたいという切望、しかしわたしはわたしでありあなたとは違うというアイデンティティの叫び、この確執を無言で共有しながら、彼女たちは酢豚を黙々と食べ続ける。ラストシーンはシェイクスピア『間違いの喜劇』のラストシーンをなぞるような構成で、ここにもシンメトリに徹底的にこだわる作者の意識が読み取れておもしろい。


 越境者は、たえず故郷への郷愁と、自身が話す異国語との狭間に立ち、どちらつかずの中で揺れ動く。香港にわたった片割れのように、異国へ同化しようとふりきれる人でも、日本に残した半身への強烈な切望があるように、「文化の狭間」に落ちた人間は、けっきょくはどちらにもつけないことを受け入れるしかないようにも思える。インドに生まれ、イギリスで育った作家サルマン・ラシュディはこう語っているーー「全世界が私に選べと叫んでいる、しかし私は選ぶことを拒否する」。
 西洋/東洋、征服者/非征服者、ひとり/ふたりというシンメトリ構造を守りながらも、義足のマレー人や香港名物の台風、地下街とハーバーのワニなど、アシンメトリな要素を入れてリズムをあえて崩すあたりのバランス感覚がじつに巧みで、一気呵成に読み終えた。

 あとがきでさらに驚かされたのだが、この物語が実話をベースにしているとのこと。それがどこまで本当かは知るよしもないが、そうかもしれないとも思う。現実は時に小説よりも奇妙で、冗談のようなものなのだから。


recommend:

*1:ジョン・バース「陳情書」(マイケル・リチャードソン編『ダブル/ダブル』収録)より

*2:アゴタ・クリストフ『悪童日記』より

*3:シェイクスピア『間違いの喜劇』より

*4:https://twitter.com/#!/deadpop/status/186333473626259456