キリキリソテーにうってつけの日

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『彫刻家の娘』トーベ・ヤンソン

 仲間というものは、つぎの日にもういちど言う価値があるような気のきいた話はしない。パーティーで大事な話をするべきではないことくらいはわきまえている。——トーベ・ヤンソン『彫刻家の娘』

茂みの奥から

 「十歳の少年というものは、自分の膝を事細かによく知っている」

 ウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』に残した一文だ。さらりと書いてあるが、この一文にははっとさせられる。そう、幼いころは目線がずっと地面に近く、膝の毛穴、へこみ、どこにどの傷があるか、いつごろ治るかをきちんと把握していた。

 成長するにつれて、人は地面に近かった時の世界と見え方を忘れていく。トーベ・ヤンソンは、人生をつうじてあの時に見ていた世界を失わなかった、希有な作家だ。彼女の世界観は、茂みにひそむ動物のそれに似ている。雨に肌をぬらし、土と草のにおいをかぎ、雪を食べて育った「彫刻家の娘」は語る。

彫刻家の娘

彫刻家の娘

 「むかしむかし、たいそうかわいい女の子がいました。その子のママは女の子をとってもかわいがっていました……」
 どのお話の始まりもこうでなければならない。そのあとは適当でいい。——「暗闇」

 本書は、彼女の幼少時代と家族を描いた自伝的小説である。父ヴィクトルは彫刻家、母シグネは画家だった。本書にはトーベの家族や友人、従兄弟や周りの大人が、時に優しく、時に辛辣に描かれる。

 トーベ・ヤンソンが描く人間模様はいつも、個として独立した人たちが対等につきあう関係だ。大人と子供という区分はない。祖母と孫は対等だし、父母と娘も対等だ。そもそも、あまり大人が大人らしくふるまおうとしていない。笑うときはおおいに笑い、怒るときには怒る。失敗だってするし、いいわけもする。父はペットの猿にめっぽう甘く、自分の彫刻が壊されても「出来がよくなかったから壊してくれたんだよ」と笑い、そんな父にトーベは文句をいう。

 ヤンソン一家は確かに家族なのだが、アメリカのホームドラマのような甘い雰囲気はみじんも感じられない。しかし、愛と信頼はあるのだ。ヤンソン一家はハグとキスではなく、尊厳と敬意によって家族という共同体をつくる。対等だからこそぶつかりもするが、お互いへの信頼が根にあるので、見ていて気持ちがいい。

 ママはパーティーの準備がじょうずだ。必要なものをテーブルにそろえておいたり、前もってお客を招待したりはしない。<即興>こそがパーティーをもりあげる秘訣だということを知っている。——「パーティー」


 ひとは魚を丸飲みするようなプロセスを経て、大人と呼ばれる生き物になっていく。しかし、トーベ一家は気に入らない魚ならはっきりと気に入らないというし、「まあいいや」と丸飲みもしない。世界への対峙のしかたが真剣なのだ。熾火のように静かで激しい心をかかえながら、彫刻家の娘は世界を見つめ、奥深くまでもぐり、手につかんだものをさらけ出す。

 いくじなし、このことをおなかにずしりと感じた。強烈な感情というものは、どんなものでも、まずおなかで感じるような気がする。すくなくともわたしの場合はそうだ。

 野生の動物が筆をとり、自分が愛する数少ない人間のことを書いたらこんな作品になるだろう。読んでいるうち、私の背はちょっとずつ縮んでいったにちがいない。秘密基地や屋根裏部屋から息をひそめてのぞいている子供ような気分で読み終えた。

 イラストレータとしてのトーベの本領が発揮された短編「流氷」や「石」は目がくらむような美しさで、極北のオーロラのように、極彩色の幻が一瞬のうちにたちのぼっては、野生の獣のように姿を消していく。

 わたしの流氷は緑の灯台のようにかがやいていた。バッテリーは日がのぼるまではもつだろう。島に来るときはいつも新品のバッテリーだから。もうひと晩、もつかもしれない。ひょっとすると、流氷がとけて水になっても、ランプは海の底で光りつづけるかもしれない。——「流氷」

 夜明け前の闇に、寒さにふるえながら気をさがしている人影が黒くうきあがり、モミの木を小枝が雪の上に落ちて、まだらもようをえがいている。波止場と市場のあたりに、危険と魔法がただよっている。——「クリスマス」

 偏愛する作家がいることは、本読みのはしくれにとって幸せなことである。



トーベ・ヤンソンの作品レビュー:
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