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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『無慈悲な昼食』エベリオ・ロセーロ

南米文学 ☆☆☆

 “彼らは僕を昼食と見なしている”——エベリオ・ロセーロ『無慈悲な昼食』

獣になる

 ふしぎなものだ、「慈悲の昼食」という名がこれほど無慈悲に響くとは。

 原題は"Los almuerzos"、「昼食」というとおり、木曜日の正午12時から金曜日までの12時までの1日を描く。

 部隊はコロンビアの首都ボゴタの教会、ここでは曜日ごと市民に「慈悲の昼食」をほどこしている。月曜日は娼婦の日、火曜日は不良の日、水曜日は盲人の日、木曜日は老人の日、金曜日は母子の日とさだめて、教会が無料で昼食をふるまうというものだ。

無慈悲な昼食

無慈悲な昼食

 主人公タンクレドは教会に奉公するせむし男で、「慈悲の昼食」の給仕をつとめているが、この昼食のありさまが恐ろしい。老人の日にやってきた老人たちはさながら餓鬼道に落ちた亡者そのもので、ひたすらサービスと食物を求め、死んだふりをしてまで料理をほおばり続ける――たまに本当に死んでしまうところが愉快。

 事実、死んでしまうのだ。アルミダ神父が“慈悲の昼食”を始めて三年、十一人が絶命した。ある者は待ち時間に、またある者は食事中に。……同席者のひとりが亡くなったところで、老人たちの無節操はとどまらない。通夜の席に等しい場面でも亡骸を尻目にがつがつ食べつづけ、平気で冗談をぽんぽん飛ばし、故人の食事にも手を伸ばす無節操さ。それどころが「あんたにゃもう要らんじゃろう」と帽子からマフラーからハンカチ、靴まで失敬する始末。死人が出るのが毎週でないのがせめてもの救いだ。

 なんという狂乱、まるで獣である。「自分が獣になるかと思うと、彼は怖くてたまらない」とタンクレドはおののく。そう、この教会においていわゆる聖職者らしい人はひとりもいない。アルミダ神父、聖具室係、奉公する3人の老女、聖具室つきの少女、そしてせむし男タンクレド、誰もかれもが心に獣を抱えている。神父は献金を横領しているし、聖具室係はロリコン、少女はあふれる性欲をかくそうともしない。

 それでも教会ではみなが「良き人」を演じていた。しかし、ミサ中に蒸留酒をひっかける神父マタモーロスの唐突な登場によって、抑圧は不穏な形で噴出する。

 「タンクレド君、頼みがある」「ボトルを持ってきてくれ」


 腹は欲望に直結しているから、食事しているときに人はその本性をあらわすという言葉をそのまま小説にしたようだ。押しこめた欲が、たった一夜で根っこからくつがえされ、暴かれていく。「昼食」というタイトルとは逆説的に、これは「飢え」の物語といってもいいかもしれない。

 すこし意外だったのが、“とんでも神父”マタモーロスの存在だ。「飲んで歌う」という一見強烈なキャラクター性は、「ふくれあがった不穏の風船をはじけさせる針としてのよそ者」という役割をあたえられているだけのように見えた。彼は唐突な采配によって登場をうながされ、妖怪のような老婆どもに体を持ち上げられて、黒い鳥のように退場していく。しかし、帯にはとんでも神父がメインのように書いてあるので、とんでも神父による独壇場コメディは期待しないほうがいい。

 暗く重いコロンビアの情勢に翻弄される弱者を、ユーモラスに、しかし辛辣に描くというロセーロのスタイルは、『顔のない軍隊』と同じだ。老女や少女、タンクレドが教会に身を寄せることになった背景が、軍隊による虐殺であることがほのめかされるように、この物語の裏にはコロンビアの抱える闇がざわついている。

 破綻しているにもかかわらず、妙に明るい雰囲気がたえないところに南米圏独特の諦念を感じる。それにしても、『夜のみだらな鳥』でもいえることだが、南米文学で教会はいつもろくな描かれ方をしないね。


エベリオ・ロセーロの著作:


recommend:
現代コロンビアの闇を知る。

  • G.ガルシア=マルケス『誘拐の知らせ』……「誘拐国家」と呼ばれるコロンビアにおける証言。衝撃的。
  • G.ガルシア=マルケス『悪い時』……政治で苦しめられる住民たち。大佐の悲哀。
  • ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』……教会、せむし男、老女と性欲におぼれた少女。


Evelio Rosero "Los almuerzos",2001.