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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『若い藝術家の肖像』ジェイムズ・ジョイス

アイルランド文学 ☆☆☆☆☆

 そうだ! そうだ! そうなのだ! ——ジェイムズ・ジョイス『若い藝術家の肖像』

決定的な瞬間

 どうしようもなく世界と折り合いがつかないなら、世界と自分どちらがまちがっているのかがわからないなら、『若い藝術家の肖像』を読むといいかもしれない。
 本書の主人公スティーヴン・ディーダラスは生き迷う青年であった。周りと自分との違いに悩み、欲望に流され、一時期は他者の考えにどっぷりつかるものの、最終的にはそれらのかせをすべて外して、「自分は藝術家だ」という確信するにいたる。
 特筆すべき事件は何も起きない。しかし、ひとりの人間の精神は飛び立つのだ。本書はある若い藝術家の誕生にいたるまでの遍歴と、その劇的な一瞬を描く。

若い藝術家の肖像

若い藝術家の肖像

 物語は、少年スティーブンの独白からはじまる。やがて学校にはいったスティーブンは教育を受け、大人たちや友人を観察しながら成長する。
 変化が起きるのは16歳の時だ。若さゆえの性欲に突き動かされたスティーブンは、売春婦のもとにかよう日々を送る。しかし、アイルランドは厳粛なキリスト教国家であり、彼は教会で「姦淫」という罪、そして罪人にかせられる罰におののいた。スティーヴンは罪を懺悔して、修道僧のような生活を送る。毎日の祈りをかかさず、常に女性からは目をそむけて歩き、すすんで苦行に身をやつした(ところで、苦行のひとつの中に、耐えがたいにおい――スティーヴンにとっては腐った魚のにおい――をすすんで嗅ぐというものがあってちょっと笑えた)。その打ち込みぶりは徹底していたので、ある日、校長にみこまれて「司祭にならないか」と推薦される。
 だが、スティーヴンはその申し出を断る。あれほど神の恩寵を失うことを恐れていた青年が、信仰へ疑問をいだき、神を捨てるにいたる。なぜか? その瞬間を、ジョイスは荘厳に、ふりしぼるように描く。

 心はわなないた。息づかいは次第に速くなり、そして四肢には荒々しい正規が、まるで彼が太陽めざして飛んでいるかのようにみなぎってくる。心は恐れにも似た恍惚にわななき、魂は天翔ける。


 ときおり思うのだが、ある人間の人生を根底から変えるような転換点とは、ある日とつぜん空が落ちてくるかのように、まったく唐突にやってくるものではないだろうか。もちろん、爆弾が落ちてきたり、津波がすべてを押し流したり、ある衝撃的な出来事が引き金となることはある(そして、世の中ではこうした劇的な一瞬の方が注目を浴びる)。『魔の山』のハンス・カストルプのように、彼を啓蒙しようとする師匠との対話をつうじて、なにかを学ぶことだってあるだろう。
 一方で、箸が机から転がり落ちたとか、ある本のタイトルを古本屋で見つけたとか、他人から見ればまったくとるに足りない日常のいち風景が、コペルニクスの言説のように、世界の見方を根こそぎひっくりかえすことだってある。スティーヴンにとっての引き金もまたごく日常の一景にすぎないが、たったそれだけのことがすべてを変える。

 彼の咽喉は、空高く飛ぶ鷹ないし鷲の叫びを超えたからかに叫びたい思いで、風邪に向かって声するどく自分じしんの解放について叫びたい思いで疼いた。それは魂に対する命の呼びかけであった。義務と絶望の世界の鈍くて粗大な声でも、祭壇での蒼白い奉仕をすすめる非人間的な声でもなく。一種の荒々しい飛翔は彼を解放し、勝利の叫びは唇にさまたげられながら彼の脳をつんざいた。

 荒ら荒らしい天使がぼくに現れたのだ。人間の青春と美の天使、うるわしい生命の宮廷からの使節が、一瞬の恍惚のうちにぼくの前に姿を見せ、過失と栄光に通じるすべての道の門を押し開いてくれた。さあ、前へ前へ前へ前へ進んでゆこう!


 スティーヴンはまったく孤独に、しかも唐突に、自分に与えられた役割、自分がこの世で何をすればいいのかを悟る。この場面は静かでありながら劇的で、ジョイスは恐ろしい作家だとはじめて心の底から思った。「青年の成長」というクラシックなテーマを、あえて「唐突に知る」という形で書いたことに震撼する。ジョイスでなければ、もっとわかりやすい大がかりな出来事をトリガーとして選ぶように思うからだ。
 自分の立ち位置を知ったスティーヴンの言葉は力強い。たとえ他の人間と違う道を歩もうと、不信仰者とののしられようと、「信じたくないものは信じない」と宣言する。「青年の成長」という陳腐なことばでは到底くくれない。はぐれ者でもいい、私はその道を行くという、諦めをふくんだ切実さと真剣さがここにはある。


 スティーヴンと種類は違うものの、私にも“その一瞬”はあった。だから、『若い藝術家の肖像』は、私にとって「一点突破」の小説だ。記憶をふさぶられたことと「ぼくは行くよ」というスティーヴンの言葉それだけで、この本を本棚に置く理由としてはじゅうぶんすぎる。

 ――たぶん、ぼくは出かけることになるよ、と彼は言った。
 ――どこへ? とクランリーは訊ねた。
 ――ゆけるところへ、とスティーヴンは言った。 

James Augustine Aloysius Joyce "A Portrait of the Artist as a Young Man",1916.

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