ボヘミアの海岸線

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『ヘンリー六世』ウィリアム・シェイクスピア

 ああ、栄華も権勢も、しょせんは土と埃にすぎぬのか?
 人間、どう生きようと、結局は死なねばならぬのか?

——ウィリアム・シェイクスピア『ヘンリー六世』

 足を踏みならして貴族と王族が輪になって踊っている。それは権力争いの踊りで、踊り手は増えては消えていき、赤黒い血に染まった足跡だけがぐるぐると重ねられていく。輪の中央にはイングランド王ヘンリー六世が立っているが、誰も王には触れようとしない。偉大だからではない。どうでもいい存在だからだ。王は守られ、真綿でくるまれ、丁重に無視された。中央にいながらにして疎外された王、ヘンリー六世の一代記。

血まみれの王冠

ヘンリー六世 第一部 (白水Uブックス (1))

ヘンリー六世 第一部 (白水Uブックス (1))

ヘンリー六世 第二部 (白水Uブックス (2))

ヘンリー六世 第二部 (白水Uブックス (2))

ヘンリー六世 第三部 (白水Uブックス (3))

ヘンリー六世 第三部 (白水Uブックス (3))

 ヘンリー六世はランカスター家(赤薔薇)の出、治世は1422年から1471年。フランスとイングランドによる百年戦争の末期*1と、イングランド王家同士が戦った薔薇戦争の幕開け*2にあたる、激動の時代である。全3部作のうち、第1部はフランスにおけるイングランド軍の敗退とジャンヌ・ダルクの登場、2部はヘンリー王とマーガレット・オブ・アンジューの結婚からヨーク家(白薔薇)の台頭、3部はヨーク家への王権委譲の約束と戦いを描き、王の代替わりで幕を閉じる。
 ヘンリー六世は平和を愛する、心優しい王として描かれる。人を疑わず、仲違いより調和を求める。王の権力を行使することを好まず、信頼する人間の言葉を受け入れてしまう。平和な時代ならよかったかもしれないが、あいにく世は動乱まっただなかにあった。王冠は血を求めて重くなり、ヘンリー六世の頭から転げ落ちる。


 『ヘンリー六世』の見所は多様な人物たちの描写とせりふにあるが、なかでも女性の描写がおもしろい。フランスの英雄ジャンヌ・ダルクは、王子を誘惑し魔と契約する魔女として描かれる(イギリス作品としてはわりと一般的)。興味深かったのが、忠臣ウォリックの妻エリナーだ。エリナーは善良な夫に不満を抱き、怪しい占い師と結託して反乱を試みる。まさにマクベス夫人の原型ともいえる、野心の女である。

エリナー
私が男であり、公爵であり、王の親近者であれば、
うるさい邪魔者はかたっぱしからとりのぞき、
目障りな首を切り落として平らな道を通してやるのに。
だけど、女から問いって引っこんでいるものですか、
運命の女神の大芝居にぜひとも一役買わなければ。

 続編の『リチャード三世』にも言えることだが、とにかく女性たちの黒い炎と呪いの言葉がすさまじい。男たちの権力争いを嘆き、慈しむようなかよわい女はほとんどいない。ヘンリー六世の妻マーガレットなどは、夫をはなからあてにせず、みずから軍を指揮して敵を壊滅させるほど。『ニーベルンゲンの歌』さながらの豪傑ぶりだ。女同士の争いもすごい。「その美しいお顔に十本の指でふれることができるなら、そこに爪跡鮮やかに私の十戒を刻みつけてあげるのに」なんていうセリフにはぞくぞくする。


 血で血をぬぐう争いをして、彼らが求めたのは王冠だった。しかし、王冠はそれほど尊いものだろうか? じつのところ、なぜ王冠をそれほどまでに求めるのか、その理由をきちんと語る人はほとんどいない。ただ、王座から転げ落ちたヘンリー六世だけが、彼が求める王冠について語っているのは印象深い。

王 そう、私は王だ、心のなかでは。それで十分だ。
森番2 王だって言うんなら、王冠はどこにあるんだい?
王 私の王冠はこの胸の中にある、頭の上にではなく。
 それはダイヤモンドや真珠で飾られたものではないし、
 目に見えるものでもない。私のは「満足」という王冠だ、
 この王冠を胸に抱く王はめったにいるものではない。

 シェイクスピアはシェイクスピアらしく、この血みどろの史劇にまつわる人々が勝者も敗者も今は皆ひとしく土の中だということをほのめかす。命も名誉も土地も、得たものはすべて失われ、流血と嘆きは白い紙とインクに変わっている。
 史劇は隘路だ。その行く先は、ハムレットが墓場で拾った名なしのしゃれこうべにつながっている。


William Shakespeare King Henry VI ,1590-1592?

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*1:1337年〜1453年

*2:1455年〜1485年