『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行き』ヴェネディクト・エロフェーエフ|飲むしかない
「どうして? また吐き気がするのかい?」
「そうじゃないよ。もう吐き気なんか、絶対にするもんか。でもゲロは、吐く」——ヴェネディクト・エロフェーエフ『酔どれ列車、モスクワ発ペトゥシキ行き』
飲むしかない
学生のころ、米原万里のエッセイを読みあさっていた時期があって「なぜロシア人はこうも酒びたりなのか」と不思議でならなかった。ロシア文学を読んでもロシア映画を見ても、いつでもどこでも老若男女、まずはウォトカをストレートで一気飲みしないと話が始まらない。「ウォトカ4本は酒ではない」という言葉はロシアという大地においては誇張ではない((2011年2月、とうとうロシア政府が「清涼飲料水」扱いだったビールを酒類と認めた。時代は変わったものだとしみじみ思う。
『酔いどれ列車』の主人公ヴァーニャも、それはもうしこたま飲む。朝の目覚めにズブロカ1杯をひっかけ、その後たて続けにコリアンダー・ウォトカ、ジグリ・ビールをジョッキで2杯、ポート・ワインをらっぱ飲みしてモスクワをさまよい歩く。
クレムリン、クレムリン、と誰もが言う。クレムリンのことはあらゆる人から話には聞くが、自分で実際に見たためしは一度もない。もう何度となく、一千回も酔払って、それとも二日酔いで、モスクワを北から南へ、西から東へ、端から端まで突っ切ってみたり、ただ無茶苦茶に歩き回ったりしたのに、クレムリンはただの一度も見たことがない。
いまおれは悔しい。悔しくって涙を流さんばかりなんだ。昨日は結局クルスク駅に出られなかったが、悔しいのは、そんなことではもちろんない(そんなのは、くだらんことだ。昨日だめなら今日行くまでのことだ)。
ヴェーニャは列車に乗って愛する女と幼な子がいるペトゥシキに行くつもりなのだが、そもそも駅に着く気があまりないところがすがすがしい。どうにかこうにか列車に乗りこみ(それまでにいったい何本のウォトカを空けたのかもはやわからない)、ヴェーニャは乗客と恋愛談や文学談義、猥談などを繰り広げる。チェーホフやゴーリキー、ツルゲーネフやプーシキンなどロシア人が愛する自国作家はもちろんのこと、ゲーテやサルトル、シラーなども登場する。
「もしツルゲーネフ張りに愛するというなら、それは——選ばれた創造物のためならあらゆるものを犠牲にできるということだぞ! ……お前にできるか? 夜中にそっと党委員会の教育施設に忍び込んで、ズボンを脱いでからインク瓶の中身を全部飲み干して、それから瓶を元の場所に戻して、ズボンをまた履いてそっと家へ帰ってくるなんて真似ができるか? 愛する女性のために、できるか?」
「馬鹿々々しい、できるか、そんな事が」
「ほらな、そうだろ……」
ナンセンスで大笑いできるせりふが多くていちいちここでは紹介しきれないぐらいだが、中でもヴァーニャが紹介する「カクテル」のレシピは壮絶すぎて恐ろしい。
カクテル『雌犬のはらわた』を紹介しよう。何ものをも凌駕する飲み物さ。いやこれは、もはや飲み物なんかじゃない。天上の音楽だ。この世で最も素晴らしいものは何か? それは、人類解放のための闘いである。しかし、それよりも素晴らしいのが、これさ。
ジグリ・ビール 百グラム
シャンプー<サトコ> 賓客用 三十グラム
フケ止め剤 七十グラム
接着剤BF 十二グラム
エンジン液 三十五グラム
殺虫剤 二十グラムこれを、葉巻煙草で一週間香りづけした後、食卓に供する……。
「これさ」じゃないよまったく。
したたかに酔っ払った人々の饒舌と妄想は実にナンセンスでなんども大笑いしたのだが、その根っこにはソビエト体制への批判と息苦しさがゆらめいている。なぜロシア人がこれほど飲むのか、それは楽しいからではない。つらいから飲み、正気ではいられない環境だから飲み、心が冷えるから飲むのだ。ハルムスやブルガーコフの作品にも通底する「見えない粛清の恐怖」が本書にもあって、その恐怖の種はエンディングに向かうにつれて耐えがたいほどに増幅する。『酔どれ列車』が地下出版でベストセラーとなったのは、政府への恐怖と批判、哄笑がロシア人の縮図とも言える酔っ払いの言葉で語られたからなのかもしれない。
モスクワ市内にあるクレムリンにすらたどりつけない酔っ払いが、遠いペトゥシキなどにたどり着けるとはどうしても思えなかったのだが、その道筋を阻むのはアルコールではなかった。愛する者たちがいて花が咲く美しい「楽園」としてのペトゥシキと、凍える現実としてのモスクワはあまりに対照的で、同じ国土の話とはとうてい思えない。むしろあまりにもペトゥシキが非現実的すぎるので、エロフェーエフは天国あるいは鉄のカーテンの向こう側について、憧憬とアイロニーをこめて描いたのではないかと思うほどだ。「モスクワ発ペトゥシキ行き列車」は「地獄発天国行き列車」のように、「あったらすてきだね」と「あるわけない」を同居させている。
カフカの『城』を思わせる閉塞状況と、「たどり着けないだろう」という確信じみた予感だけが、真綿のように首をしめつけてくるのがやりきれない。ウォトカの饒舌と何も語ることができない沈黙が、ヴァーニャのつくる殺人カクテルのように混じり合っては、読む者を悪酔いの道へとひきずりこんでいく。
これほど大笑いできて、かつ底冷えのする物語はめずらしい。クレムリン、クレムリンとうわごとのようにつぶやくヴァーニャのように、「ロシア、これがロシアか」とうなりながら読み終えた。本書が刊行されたのは1970年。1991年の氷解までは、あと20年待たなければならなかった。
Venedict Vasilyevich Yerofeyev Moskva-Petushki,1970.
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