ボヘミアの海岸線

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『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』アントニオ・タブッキ

 運転手は親切に聞いてくれました。どちらへお連れしましょうか。ある物語から抜け出したいのです。わたしは混乱しつつ、つぶやきました。行き先はどこでもいい、物語から逃げ出す手助けをしていただければ。わたしが作りだした物語ですが、今はそこから抜け出したい。——アントニオ・タブッキ『他人まかせの自伝――あとづけの詩学』

食後酒

 ウィリアム・フォークナーが「自分の臓腑をすっかり書きこんだ」と告白したように、虚実をまぜこんだ“己”をさらけだすのが作家という生き物であるならば、作品が世に出た時点でもはや、彼らが自作について語りうることなどそうそうは残らない。

 だが、彼らは語る。それはもう性(さが)だからである。語るための原料があるならば、作家はよろこんで虚実を織り交ぜて物語をつむぎだす。かたる対象が自分の作品、あるいは自身になってもその姿勢は変わらない。だから、この「他人まかせの自伝」を映画のメイキング・フィルムのようなものだと想像してはいけない。語り騙ることを生業とする作家が「本当の舞台裏」をすんなり教えてくれるわけがないのだから。

他人まかせの自伝――あとづけの詩学

他人まかせの自伝――あとづけの詩学

 
 本書は『レクイエム』 『遠い水平線』 『供述によるとペレイラは…』 『島とクジラと女をめぐる断片』『いつも手遅れ』(未訳)の五作について、タブッキ自身がかたるという形式をとっている。

 わたしが父を「pa'」と呼べば父は「pa」と返していた。これはふたりの秘密のとりきめで、子供っぽいいたずら心から、ひそかに使っていたわたしたちだけの言語である。――「『レクイエム』について」

 『レクイエム』は声を失ったのちに死んだ父親の記憶から生まれた、とタブッキは明かす。『レクイエム』において主人公は23人もの人々(生きている人も死んでいる人もいた)と会うが、父親のパートはささやかであまり印象がなかったためにすこし意外だった。どちらかといえば、バーテンダーや灯台守など、行きずりの人とのエピソードのほうが物語としては強かった記憶がある。だが、よく思い返してみれば、この物語の核であり虚(うろ)であった「かつての恋人」との出会いはついに1行も書かれずじまいだったから、タブッキは思い入れがある近しい人ほどひかえめに描いていたのかもしれない。

 こういった発見はもちろん作品を読んだ読者ならでは楽しめるものだが、本書を先に読んだからといって読書の楽しみが損なわれるものではない。タブッキは粋な人なので、「このシーンにはこのような意図があった」というような、読了を前提とした書き方はいっさいしない(作者の意図=正解とするような、正読誤読の考え方はさっさと滅びてしまえばいいと個人的には思っている)。エッセイと見せかけて、自作をベースにした「別の小説」を語りだしているだけだ。幻想と現実、嘘と真の境を軽やかに飛び越えるのがタブッキだ。リスボンの町を歩いていたらふと死者の世界に足を踏み入れるように、そこにはなんの気負いもてらいもない。

 タブッキが父親をpa'(父さん)と呼べば、父親はタブッキのことをpa(ポルトガル語で君、といった意味)と呼び返すエピソードなんて特にすてきだ。おたがいに「pa」と呼び合う不思議な関係、これは『レクイエム』という書物から幻燈のように浮かびあがってきた別の物語である。

 自分の言語とは別の言語で書かれた小説が、自分だけのものでほかの誰のものでもない小さな言葉から生まれないとも限らない。ときとして、一音節の中にはひとつの宇宙が広がっていることもある。

 しれっとこういうことを書くのがタブッキらしい。すてきだ。


 作家は虚実を混ぜてこねてパンにする生き物だ。するとときどき、奇妙なことが起きる。想像が現実を模写するのではなく、現実が想像の後を追うといったことが。「『ポルト・ピムの女』について」でタブッキは、20年も前に“完全に空想で書いた”物語があるクジラ漁師にとっての現実になってしまったことについて、とまどいをおぼえながらこう叫ぶ――「まったくの作り話なんだ。きみの物語は存在しないんだ!」

 こっけいだろうか? 見方によってはそうかもしれない。だが、こういったことはありえるのだ。現実を模写するのが虚構なのではない。現実が、虚構のあとを追うことだってある。


 作家が物語を語ったのならば、それから先はすべて後づけ、あとのまつりである。しかし、宴の後にタブッキはすてきな食後酒を用意した。作家という理不尽な生き物はまた、言葉だけで人を酩酊させることができる生き物でもある。


アントニオ・タブッキの著作レビュー:

Antonio Tabucchi Autobiografie altrui Poetiche a posteriori.

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  • チェーホフ『ワーニャ伯父さん』…「『ポルト・ピムの女』について」で言及。「壁に銃を吊るしたなら、その銃は物語中で使われなければならない」
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