キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『V.』トマス・ピンチョン

 「あなた、経験から学び取ったことないの?」
 「ない、はっきり言ってひとつもない」

——トマス・ピンチョン『V.』

 残酷な仕打ちをしながら、とてつもない哀しみを抱え込むのだ。そしてその哀しみが自分の目から溢れ、靴の穴からこぼれ出して、ストリートに大きな哀しみの水たまりを作るに任せる。

世界の歴史は女

 奇っ怪である。「あいつ、俺のともだちなんだよ」「私、あの人とつきあってるの」と飲んだくれの男女がひっきりなしにやってきては好き勝手に身の上話やほら話、恋愛や犯罪の話、親父の友達のいとこから聞いた笑い話みたいなものを語っては「シーユーベイベー」と去っていくパーティーに、48時間ぶっ続けで参加したかのよう。

 登場人物リストはふくれあがるわ、くだらない会話や冗談みたいなエピソードが頭をこづいてくるわ。圧倒的な情報過多である。ピンチョン作品が「百科全書的」と呼ばれているゆえんをかいま見たように思うが、百科全書というには秩序に興味がなさすぎる。どちらかといえば、百科全書のページを破いて紙ひこうきにしてぶんぶん飛ばしてくる悪ガキのイメージである。

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈下〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

 「V.の背後と内奥には、人の想像を超えたものが潜んでいる。V.とは誰か、という問題ではない。V.とは何なのか。その問いに応えるのは恐ろしすぎる……神よ、どうぞ免じたまえ。私にその答えは書くことができない」

 「だが、それより大事なのは、V.にも秘密があるということだ。彼女についてステンシルが得た情報は、ごく貧弱なものにすぎない。ステンシルの手元にあるもののほとんどは推測なのだ。彼女が誰なのか、何者なのかをステンシルは知らない」

 「V.」は女の名前らしい。らしい、というのは誰もその存在を知らないからである。本当の名前も、顔も、国籍もわからない。そもそも人間かどうかさえ。

 V.という謎の女性の影を追う「ウーマンハントパラノイア」を軸に、なさけない男どもが七転八倒しながら物語は進む。なさけない男どもの筆頭は2人いる。ひとりは元スパイの父が書き遺した「V.」を世界の果てまで追いかける“パラノイア”ステンシル。もうひとりは、とりあえず流されるままに生きる“ヨーヨー”、あるいは“木偶の坊”のプロフェイン。

 彼らを中心にいろいろな人間たちがつながって、複雑怪奇な“くもの巣”を世界中にはりめぐらせる。19世紀末から20世紀の戦後までのあらゆる時間、あらゆる地域に人々はあぶくのように現れては消えていく。

 ほとんど数ページごとに新しい人が出てきては不思議なエピソードを披露していくのだが、このエピソードがいちいちおかしい。そもそもが、酒場でおっぱいの形をした酒びんに海の男どもがむらがる「チュウチュウ・タイム!」による開幕である。こういうばかばかしいノリは好きだ。

 上巻ではニューヨークの下水道でのワニ狩り、カトリックにネズミどもを改宗させようと試みる狂神父、ネズミとのアヴァンチュール、やたら医学的な描写の整形手術、名画『ヴィーナスの誕生』を小学生レベルの手段で盗もうとする泥棒どものエピソードが強烈だった。フル武装したCIAに突入されるなんていう、小説によっては見どころとなるはずのエピソードでも、『V.』ではたったの2ページで終わる。なんという大盤ぶるまい。めまいがする。

 なかでもヤバかったのは、ウィンサムが長年温めてきた最大の夢を打ち砕くべく、フル武装したCIA係官ふたりがオフィスに急襲をかけたときだ。その夢とは、チャイコフスキーの序曲『1812年』のバージョン乱立にケリをつける、決定的最終バージョンを発売すること。鐘、管楽器、弦楽器の代わりに一体何を使う計画だったかは、神(とウィンサム)のみぞ知る。CIAが反応したのはそれではなく、クライマックスで入る大砲の音に関することだった。ウィンサムが空軍の戦略部隊の高官と接触していたという情報を得たのである。
 「なぜだ」グレイのスーツを着たCIAエージェントが言う。
 「当然でしょう」ウィンサムが言う。
 「わからん」ブルーのスーツを着たCIAエージェントが言う。

 『V.』はどこまでも女の話だ。その中心となるV.は茫漠とした夢のようだが、それを支えるかのように生身の女たちの哀しくも陰惨な物語がV.のまわりを飛び交う。戦争で死ぬ女、酷使される女、凌辱される女、みずからの意思で身体を売る女、身体を作りかえられる女、解体される女、女を愛する女、少女時代に突き殺された女。生身の女たちは傷つく。だが、V.は――名前のない女は、ただそのイメージだけがふくれあがる。ヴェロニカ、ヴィーシュー、ヴィーナス、ヴェラ、ヴィクトリア、増殖し続ける「頭文字V」。

 仮にV.が歴史におけるリアルな存在であるなら、それは——慣例として女性代名詞でうける船や国家と同様、実際に「女」なのではない「それ」は——今日も作動しているに違いない。なぜなら、究極の<呼び名のない陰謀>は、いまだ実現を見ていないからだ。

 
 まるで、豆鉄砲の一斉掃射をくらった鳩のような気分で読み終えた。とてもではないが、1回読んだぐらいじゃ咀嚼しきれない。かといっておもしろくなかったかといえばそんなことはなく、ばかばかしい会話とエピソードをじゅうぶんに堪能した。むしろ、エピソードという「点」を楽しむだけで終わってしまったことが心残りなので、次に読む(機会と気力がある)なら、それぞれのエピソードをつなげて「線」にしてみたい。

 それにしても、流されるままに生きるでぶ男プロフェイン(おなかの肉がたるんでいる)は、みずからは何もしないのにやたらと女性にもてる。いわゆる『モテキ』的な、青年向け漫画やラノベの主人公みたいなタイプだと思うのだが、こういうキャラクターが「無機物」への憧憬を隠さないのは、なかなかおもしろい。

 <人体研究アソシエーツ>のニヒルな頭蓋骨や機械化された女「悪坊主」、車の中でセックスしてるのか車とセックスしているのかわからないぐらいの車狂いの女、整形外科医に体のパーツを入れ変えられ続ける女、整形手術に失敗して顔が崩れるパイロットなど、本書には「人間と無機物のハーフ」みたいな人たちがたくさん出てくる。そして不思議なことに、そういう人たちほど、ただの生身の存在である人たちより存在感が強い。いわゆる「ナチュラル」志向とはまっこう反対をいく「加工を愛する人々」を、ピンチョンは好んで描いているように思える。加工された人々がひしめく世界は、グロテスクでどことなくもの悲しい。

 こんな世界では勃起不全に陥りたくもなるのか、プロフェインは生身の女とのかかわりを恐れ、そんな彼を3人の女たちが叱咤する。と書くとなにやら甘ずっぱい感じがするかもしれないが、そうはピンチョンがおろさない。結局、プロフェインは女に捨てられ続ける。つくづく物語は大団円にはむかわないのだ。「なぜ」と問えば「いいじゃん」とぐうたらな生返事ばかり。

 「ホワイ?」プロフェインがたずねた。
 「ホワイノット?」ステンシルが応えた。

 なんという含蓄のなさ。だが、これだけ重厚な物語構造で、これだけ志が薄っぺらくあり続けるのは、すごいことだと思うのだ。

 登場する人物は軽く100人を超えるが、まるで彼らがそろって「歴史は女である」とうたっているかのよう。台風のようにねじれながら猛る歴史もまた女なのか。こう問うてもプロフェインはおそらく「ホワッ!?」と返すだけだろうけれど。


トマス・ピンチョン作品のレビュー:

Thomas Ruggles Pynchon V.,1963.

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読みたい:

  • トマス・ピンチョン『重力の虹』…愛すべき豚野郎ピッグ・ホーディンが再登場するらしい。
  • ヘンリー・ブルックス・アダムス『ヘンリー・アダムズの教育』…「重要な関わりを持つ」と解説にある1冊。
  • ノーバート・ウィーナー『人間機械論』…サイバネティックスの創始者。昔読んだが、内容を忘れているので。
  • ダグラス・ホフスタッター『ゲーデルエッシャー、バッハ』…百科全書的な書物。読み切れるのはいつの日か。