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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『聴く女』トーベ・ヤンソン

北欧文学 ☆☆☆

 寒さと暗さに守られているほうが互いをやりすごしやすい。いまは立ちどまって春ですねと話しあう。そのうち寄ってよとわたしは言う。もとより本気ではない。――トーベ・ヤンソン「春について」

吐く息は白い

 今年の冬は長かったように記憶している。冬が長ければ長いほど、春を待ちのぞむ心はつのる。この季節になるとトーベ・ヤンソンを読みたくなるのは、彼ら北欧に住む人々の春を恋う心に惹かれるからかもしれない。

 『聴く女』は、これまでムーミンシリーズを執筆していたトーベが「大人の読者」を意識して書いた、最初の短編集である。フィンランドの夜は暗く青く、人々の吐く息は白い。

トーベ・ヤンソン・コレクション 8 聴く女 (トーべ・ヤンソン・コレクション)

トーベ・ヤンソン・コレクション 8 聴く女 (トーべ・ヤンソン・コレクション)

 私は彼女の書く人間の孤独、心のずれが好きだ。人は互いに分かり合えないが、だからこそ互いに寄り添おうとする。表題作の「聴く女」はとてもよかった。交際好きだった老女が家にひきこもり、周囲の人間関係を大きな地図に描き上げる。

 新しい色のクレヨンを買った。最新の注意を払いながら描きつづける。離婚は菫色、憎悪は茜色、忠実を示す線はあざやかな紺碧。死者は灰色。ひとつの人生を充たして囲いこむ事実や資料のすべてに、記憶を振り向けよう。

 噂好きの彼女は、皆が知っていることも秘密のことも、自分だけの地図にすべて書きこんで、壮大な人間関係の星座を構築する。この作業は、冬から春にかけての静かな季節におこなわれた、というのがいい。静かに孤独に、自らの内の声に耳を傾けるにはちょうどよい季節だからだろうか。

 半円形でいかにも寒々とした出窓は、三月のいま、美しい氷の格子で飾られている。立派な氷柱には流水で繊細な模様が刻まれ、夕暮れには蒼く映える。電話もなく訪問もない。この丸窓は、町と港と氷の下の海流を見つめる大きな目のようだ。


 もうひとつ、特に好きなのが「偶像への手紙」。紙の向こうの見知らぬ著者への、無条件の崇拝と期待について描いている。ほれぬいた作家や著作家がいる人なら誰もが感じたであろう、恋情とも友情ともつかぬ「名づけえぬ心」の描写が胸にせまる。

 蒼いカーテンの窓を見上げる。カーテンの向こうの光はひどく弱い。窓が暗くても踵を返しはしない。そのまま立ちつづけ、同じように窓をみつめる。なんの期待も抱かず、彼をひたすら崇拝した。

 会いに行かなくともいい、手紙を書かずともいい、相手が自分を知らなくてもいい。だが、そこから一歩を踏み出したとしたら? 好きすぎて困る人に手紙を出した、はかなく苦い記憶を思い出したが、不思議と嫌な後味は残さない。


 最初の短編集というだけあって、秀作もあれば習作もある。白派の妻と黒派の夫が、絵の灰色が原因でずれこんでいく「黒と白――エドワード・ゴーリーに捧ぐ」や、ばら色の大理石でできたすばらしく美しい尻にほれた男と恋人の会話を描いた「愛の物語」など、ひとすじなわではいかない男女のずれを描く作品があるかと思えば、「嵐」「雨」「春について」のように、研ぎ澄まされた野生らしさが魅力的な作品もある。
 桜と新緑がけぶる春もよいが、雪解け水と夕暮れに沈む春もよい。行ったこともない針葉樹の森で、たたずむ自分を幻視した。



トーベ・ヤンソンの作品レビュー:
トーベ・ヤンソンコレクション
『トーベ・ヤンソン短篇集』
『少女ソフィアの夏』
『島暮らしの記録』

Tove Marika Jansson Lyssnerskan,1971.

recommend:
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