キリキリソテーにうってつけの日

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『響きと怒り』ウィリアム・フォークナー

 もしこんなふうに永久に次々ただ入れ替わっていけるのなら 一瞬燃えあがる炎のように混じりあって それからきれいに吹き消されて冷たい永遠の闇にはいることができればよかった ——ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』

臓腑のような独白

 物語を書こうとする人間は多かれ少なかれ、自分の心をさらけ出したい、おのれの構成要素をぶちまけてしまいたいという露悪的な渇望を抱えて生きている。『響きと怒り』について「自分の臓腑をすっかり書きこんだ」フォークナーはこう語ったという。臓腑、この言葉にこめられた素朴な正直さに驚く一方、その激烈な匂いにめまいがする。

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)


 「響きと怒り」は、シェイクスピア『マクベス』に出てくる著名なセリフから取っている。“It is a tale told by an idiot, full of sound and fury,Signifying nothing”「白痴のしゃべる物語だ、わめき立てる響きと怒りはすさまじいが、意味はなに一つありはしない」。

 そう、これは白痴のしゃべる物語だ。舞台は、フォークナーの他作品と同様、架空の町ヨクナパトーファ郡ジェファソン。名門一族コンプソン一家に生まれた哀れな白痴、ベンジャミンの独白から物語は始まる。ベンジャミンは言葉を話せず、よだれをたらして泣きわめきながら、現実と過去の記憶をだだ漏れさせる。この精神的攻撃力は強烈で、初見殺しもはなはだしい。

 ボクは泣いていなかったけど、止まらなかった。泣いていなかったけど、地面がじっとしなくて、するとボクは泣いていた。地面がぐんぐん坂になって、牛たちが丘をかけあがった。ティー・ピーが起きようとした。ティー・ピーがまた倒れて、牛たちが丘をかけおりた。クエンティンがボクの腕をつかんで、ボクたちは納屋に行った。すると納屋がいなくなって、ボクたちは納屋が戻ってくるまで待った。戻ってくるのは見えなかった。納屋はボクたちのうしろに来て、クエンティンは牛たちがごはんを食べる桶の中にボクを入れた。桶もいなくなろうとしたので、ボクはぎゅっとつかんだ。


 脈絡が欠如した白痴の語り(第1章)は強烈だが、白痴の兄クエンティンの独白(第2章)もすさまじい。生きるには真面目すぎた青年の混乱した心を読んで、心臓をわしづかまれたような心地がした。呪いのように繰り返される光景、愛する妹の名前、愛する妹を奪った男の名前、そして罪の告白。クエンティンが時計をたたき壊した瞬間にすべては決まった。狂った男の頭蓋骨の裏を、ひたひた迷子のようにそぞろ歩く、この不気味さといったら。

 あなたは妹を持ったことがありますか。いや。だけどどうせみんなあばずれさ。あなたは妹を持ったことがありますか。一瞬彼女は。あばずれさ。あばずれなんかじゃない 一瞬彼女はドア口に立っていた ドールトン・エイムズ。ドールトン・エイムズ・ドールトン・シャツ。

 あいつを家に連れてきたらどうなんだ キャディ? どうして黒んぼ女みたいにしなきゃいけないんだ 草むらなんかで 窪地や暗い森なんかで みだらにこっそり激しく暗い森なんかで。

 心がざわめく小説だ。全体にただよう袋小路のようなイメージ。誰もかれもが絶望して、悲しみの言葉を吐き続ける息苦しさ。重苦しくて息がつまりそうな中、白痴ベンジーの視線が不思議と救いになる。破滅ぶりと結末の衝撃は『アブサロム、アブサロム!』の方が印象的だが、『響きと怒り』の比較的あっけない終わり方も、私は好きだ。


 ところで、私が読んだのは岩波の新訳版だが、いささか岩波版は親切すぎると思う。まったく意味の分からない、白痴のよだれみたいな文章を辛抱強く読み進め、やがて事実関係が浮かび上がってくるカタルシスが本書の魅力だと思うのに、岩波版は注がとにかく豊富で、どこでどの場面転換があったかが一覧できてしまう。ネタバレすぎてあまりよろしくないので、初読時は注を読むことを自ら禁じるか、でなければ講談社版をおすすめしたいところ。

響きと怒り (講談社文芸文庫)

響きと怒り (講談社文芸文庫)


ウィリアム・フォークナーの著作レビュー

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