キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『魔の山』トーマス・マン

 私たちの時を測る針は、時計の秒針のようにせわしなく動いていくが、それが冷淡に休みなく頂点を通過していくとき、そこに流れすぎていく時間の意味は誰にもわからないのである。——トーマス・マン魔の山

浮世離れ

 冬なので寒い本を読もう企画。私はこの本を、あの世とこの世の境にある霊山で読んだ。硫黄の強烈なにおいが立ちこめる空気と、サナトリウムの澄んだ空気とは比べるべくもないが、どちらも確かに魔の山ではあった。

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 (上巻) (新潮文庫)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)

魔の山 下 (新潮文庫 マ 1-3)


 ドイツ青年ハンス・カストルプが、閉じた異質な世界、サナトリウム「ベルクホーフ」に入って出てくるまでの7年間の物語である。カストルプ青年は、7年間ほとんど山から出ないが、じつに多くの旅をした。カストルプ青年は毛布にくるまって冷たい山の空気を吸いながら、“精神”という名の世界をぐるりめぐる。

 ダンテにとってのウェルギリウスファウストにとってのメフィストフェレスのように、ハンス・カストルプを精神の山へといざなうのは、舌鋒鋭いイタリア人セテムブリーニ。彼はいかにもヨーロッパ精神そのものという人で、カストルプ青年に「考えるのです、エンジニア。人生の厄介息子よ」と呼びかけ続ける(厄介息子という言葉のセンスがすごい)。

 下巻からは論敵、通称“悪魔”のナフタが出てきて、セテムブリーニと議論の火花を散らし、カストルプ青年を自陣に引きこもうとする。2人の討論はかなりハイテンションでおもしろいが、目の前でやられたら閉口ものだ。震えながら絶叫したり、立ちあがって「もうがまんならない」と興奮のあまり呻いてみせたり、病人なのに血圧はだいじょうぶなのかと不安になってしまう。


 魔の山ベルクホーフは、すごく変なところだ。浮世離れしていると言ってもいい。登場人物は誰もかれもが病人で(奇しくもナフタは「病人ではない人間はいない」と述べている)、重病である人ほど偉いといった独特の価値観で動いている。時間の流れも普通ではない。「ここには時間なんてものはないよ」と、いとこのヨーアヒムが言うとおり、ここではあっという間に時間が過ぎていく。3週間のつもりが7年経ってしまうほどに。

 じゃあ、7年かけてハンス・カストルプが得たものはなんだったのかというと、正直よくわからない。財産を築くでもなく、結婚するでもなく、仕事で手に職をつけるでもなく、ハンス・カストルプがここで学んだのはとにかく精神的なもの、形而上学的なものだった。実際、彼が何をしているかと言えば、療養のための昼寝と談話、そして少しばかりの散歩ばかり。

 魔の山は、地に足をつけた善良な青年の足に羽根をはやす。ハンス・カストルプが下界に興味を失い、話し方がだんだん夢と熱に浮かされたようになり、地(生活)ではなく天(生と死)に近づいていくさまは妙な迫力があった。


 哲学、政治、科学、宗教、倫理、医学、心理……まるで魔術書か何かのように、本書にはとにかくいろいろな哲学的テーマがぶちこまれている。おもしろいと思うのは、全編をとおして、善か悪か、生か死か、理性か自然かといった二元論が繰り広げられているにもかかわらず、ハンス・カストルプ自身はそういった二元論の立場をあえて取らないように見えるところ。

 ハンス・カストルプは、セテムブリーニとナフタ、どちらの意見も傾聴してみせる。「愛の意味はむしろ曖昧なままにしておこうではないか」というハンス・カストルプの言葉は、まさに彼の曖昧さを象徴しているかのよう。

 死と生――病気と健康――精神と自然――これははたして矛盾するものなのだろうか? 己は問う、それが問題だろうかと。いや問題ではない、高貴の問題も問題ではないのだ。死の放逸は生のなかにあり、それなくしては生が生ではなくなるだろう。

 この物語がきわめてヨーロッパ的であるにもかかわらず、同時に非ヨーロッパ的だとも感じるのは、ハンス・カストルプの曖昧さに由来しているかもしれない。

 アフリカのルポタージュ『黒檀』を書いたカプシチンスキが指摘するとおり、ヨーロッパは批判精神と反抗を糧にして“進歩”してきた。だが、21世紀まで来てしまった今、世界には進歩の代償であふれている。

トーマス・マンの他の作品でも感じたことだが、彼はヨーロッパ精神を忠実に描きながらも、それに疑問を突きつけているように思える。


 とにかく皆が語りまくり考えまくる思考の渦に飲まれて、くらくらしながら読了した。印象的だったのは、ショーシャ夫人のレントゲン写真をハンス・カストルプが大事に持つシーン。彼女の絵より裸よりさらに奥、彼女自身も知らない奥をのぞくことで得る背徳的な喜び。そして、人間の正体は骨と血と肉に過ぎないという暴露。人間の尊厳や精神の至高性について哲学する小説なのに、こうやって人間の物理的な本性をさらりと出してくるあたり、トーマス・マンはやっぱりヨーロッパから一歩外れていると思う。
 「雪」の章の映像的な美しさもいい。雪山で迷子になったハンス・カストルプが、迫る大自然を前に世界の秘密に接続した、と思う瞬間を劇的に描いていて、ある意味ではこの章が本書のクライマックスだと思う。世界は真っ白に抜けて、静寂の中に。後はただ狂乱とざわめき。

 緻密な彫刻を一面にほどこした大伽藍のような大作であった。ごく平凡な人間が、ごく平凡な場所から、世界をのぞこうとする徹底的な内省精神——これをかつて識者は「ゲルマン的内省」と呼んだ。でも、昔みたいに若者がこれをこぞって読む時代はもう来ないんじゃないかなあ。

 人間は善意と愛のために、その思考に対する支配権を死に譲り渡すべきでない。さあ、己は目をさまそう。……なぜなら、これをもって己は夢を最後まで見終わって、たしかに終点に達したのだから。

トーマス・マンの著作レビュー

『だまされた女/すげかえられた首』

Recommend

リシャルト・カプシチンスキ『黒檀』…ヨーロッパの対岸としてのアフリカ。
ゲーテ『ファウスト』…ドイツ三山。



Paul Thomas Mann Der Zauberberg,1929.