ボヘミアの海岸線

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『アイルランド・ストーリーズ』ウィリアム・トレヴァー

[ああ、アイルランド]
William Trevor Irerand Stories.

アイルランド・ストーリーズ

アイルランド・ストーリーズ

 その瞬間、ベアトリスには見えた。3人の顔に順々に目を合わせ、あいさつを返していくうちに、視界にかすむ顔と高く掲げられた3つのグラスから、真実が立ち上がるのが見えたのだ。――「パラダイスラウンジ」

彼は、一生誰にも話さないことがらを胸に抱えた人間になった。――「哀悼」


 アイルランドは悲しい土地だ。戦いがあった。独立戦争、カトリックとプロテスタントの長い宗教対立にアイルランド内戦。そして、そこから生まれる悲しみがあった。身近にいた人が殺し殺され、誰かの心に悲しみを落としていった。
 この悲しみは、言葉にはっきりと出されるわけではない。トレヴァーが描く人々は自分の心を語らない。嘆き、哀悼、情愛は、沈黙の裏にひそんでいる。だが、かすめるように時々、心が浮かび上がることがある。トレヴァーはこの瞬間をとらえる。静かな水面に木の葉が落ちる瞬間、魚がはねる一瞬を逃さず撮る写真家のように、じっと息をひそめて決定的瞬間を描いてみせる。狙いすましたものを的確にとらえる職人芸はクンデラやカミュを彷彿とさせるが、クンデラが容赦なく、カミュが悲しみをもって人間を描いたのに対して、トレヴァーの筆致はかすかだが力強い、人間への希望を感じさせる。
 本書はアイルランドにまつわるトレヴァー作品を集めたオリジナル短編集で、期待を裏切らないすばらしさだった。個人的には『密会』よりも好き。以下、各短編の感想。気に入ったものには*。


女洋裁師の子供
 子供をひいたことを隠して平和に生きたい気弱な男の心と、子供を失ってでも生活を変える男を求める女洋裁師の心が交差して、じわじわとクレッシェンド。蟻地獄に落ちた蟻のように、男が確信じみた予感を感じる場面が印象的。あと少し、針1本でも落ちてしまったら、すべては動きだしてしまう。ところで、「涙を流す聖母像」というのは、日本でいうところの地蔵みたいなものだろうか?
キャスリーンの牧草地
 誰かが幸せになったら、誰かは不幸になる。紛争につきものの「犠牲」について。キャスリーンの牧草地は、彼女の名前がついているけれど、それはキャスリーンのみじめなメイド生活の代償である。彼女は、牧草地を手に入れられない。「名前が残る」という名誉は、本人の幸せとは結びつかない。戦争についてはほとんど語られないが、戦争の話として読める。
第三者
 恋人と別れる時、男は未練を引きずり、女はわりとあっさりしているという世の摂理を描いた話。「浮気などするあんな女など願い下げだ」と言いながらも、「あんな男に妻のことなど分かるか。あれは面倒くさい女だぞ」とか言ってしまうあたりが、いかにも。妻に好かれていることをプライドの一部にしているから、普段は気にもしないくせに、捨てられた時にあがいてしまう。プライド高き者、なんじの名は男なり。
ミス・スミス
 愛がねじ曲がった末路。これはけっこう怖かった。少年ジェイムズの願いはただミス・スミスに愛されたい、それだけだった。愛があるからこそ傷ついて、傷つくから復讐が生まれる。ジェイムズが文章中に登場しなくなってから、逆に彼の存在がいや増していくのが恐ろしい。スローモーションで破滅に向かうラストはまるで映画のワンシーンのよう。
トラモアへ新婚旅行
 幸せそうな新婚カップルの裏にひそむ、本当の事情。絶対に叶わない恋を手に入れてしまった男は、たとえそれが望まない形でもその僥倖を享受する。それが苦い。「あなたは幸せなのか」と聞いたら、笑ってイエスと答えてしまうんだろうなあ。
アトラクタ
 人生には悲惨なことがあるけれど、それでも目を背けずに生きてほしい。血と涙を流した人々を記憶する。それは計算式よりも大切な事柄だ。老いた女性教師アトラクタは、そう子供たちに伝えようとした。その言葉は届かなかったけれど。トレヴァーの中では、比較的ストレートな印象。血だまりの上にある悲しみが、いかにもアイルランド。
秋の日射し
 妻の死とさよならした秋の日。アトラクタと同じように身近な人の死を題材にした物語だが、ここにあるのは血だまりではなく、ゆるやかな陽光だ。生者が体温を感じるくだりがすてきな、ほんのりいい話。

哀悼
 紛争とテロリズムのアイルランド。多くの善良な青年が、人知れず自爆テロの片棒を担ぎ、街中で飛び散った。爆弾が入ったカバンを抱えながらバスに乗るじりじり感がすさまじく、思わずカバンを人にぶつけないようにしてしまった(まるで、自分のカバンに爆弾が入っているかのように!)。青年は、無邪気さを失い哀悼の心を知った。意味のある沈黙。これもまたアイルランド。
パラダイスラウンジ
 楽園からはほど遠いうらぶれたラウンジで、秘められた愛があった。この話はとても好き。2つのカップルはどちらも“許されぬ仲”というやつだが、その愛情表現はぜんぜん違う。若いカップルはうそくさいほどに愛を伝えるが、老いたカップルは一言も口には出さない。だが、それでも愛は立ち上る。この瞬間の劇的さは、本書の中でもだんとつ。
音楽
 ある言葉がきっかけで、人生を台なしにした男の悲惨。「自分には才能がある」、この有効期限がない希望の切符だけが、ジャスティンに残されたものだったのに。もっともひどい独善的な人間が聖職者というのがなんだか示唆的。人が死ぬわけではないが、一番えぐい話かもしれない。
見込み薄
 どこにでもいる普通のおばさんが、手練手管を駆使して男を落としていく。クヒオ大佐とまではいかないが、なぜ人はこういう人の術にはまってしまうのか不思議だ。老人のぎこちない恋愛の話なのだが、同時にけっこう政治的な話でもある。アイルランドは、見込み薄でも平和への希望を捨てはしない。
聖人たち
 焼き打ちを生き延びた男と、メイドの不思議な関係。多くの人が死に、残された人は心に傷を負った。聖人は、死者の心を癒しはしない。癒しは必ず、生きている者のためにある。


 本書で描かれるのは、さまざまな揺らぎだ。語られない思いがあり、それでも口をついて出てしまう言葉がある。沈黙と吐露、絶望と希望、信心と不信の揺らぎに、どうしようもないほどの人間らしさを感じるのはなぜだろう。
 トレヴァーは悲しみを知っている。だから私は何度でも、彼の作品を読みたくなる。


ウィリアム・トレヴァー作品のレビュー:
『密会』


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