ボヘミアの海岸線

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『わたしは英国王に給仕した』ボフミル・フラバル

[わたしは給仕した]
Bohumil Hrabal Obsluhoval Jsem Anglickeho Krale,1971.

 わたしは二人を眺めていて、ふと思った。給仕人になるというのは、ただ誰彼かまわず簡単になれるものではないのだと。


 陽気に絶望的なことを語らせたら、ボフミル・フラバルの右に出る作家はそういない。というのはちょっと言いすぎかもしれないけれど、ナチスによるチェコ占領や人種差別、共産主義による資産没収など、重く語ろうとすればいくらでも語れる話題をあっけらかんと笑い話に仕立てあげる腕前はすばらしい。にっちもさっちもいかない時にこそ笑いが必要だ。


 チェコ人の「わたし」=ヤン・ジーチェが送った、給仕人としての人生を描いた物語である。主人公は、幼いころに世の中を動かす大事な仕組みを知った。「人は金で動く」。「わたし」は、客のすべてを見ながらけっして見ないようにして、資金を貯めてプラハのホテルで出世の階段を着々と登っていく。
 「わたし」は、もともと持っていたのであろう給仕としての才能を開花させる(彼は人に愛される才能があった)。個性あふれる先輩給仕から人と世を見定める能力を受け継いで、大統領や皇帝に給仕するという名誉の機会を得る。しかし、彼はどこまでも「成金」の「チェコ野郎」と見なされた。周りにはいつも人がいたし、女たちと睦んでいたけれど、彼は孤独だった。やがて、陽気な乱痴気騒ぎの裏に、ナチスの軍靴の音が響き、共産主義の赤い風が吹き荒れる。


 『あまりにも騒がしい孤独』を読んだ時にも思ったが、フラバルは名言を作るのがうまい。『孤独』を読了した人なら覚えているであろう「心ならずも教養を身につけてしまった」と同じように、本書では「わたしは皇帝に給仕しましたから……」というセリフが何度も反復される。まるで飲み屋の片隅で聞かされる身の上話のよう。

 フラバルの作品を読んでいると、チェコ・ビールを飲んで酔っ払ってくるような気分になる(もっとも、時折ちゃかした絶望を吐き出されて、はっと目が覚めるのだけれど)。笑えるエピソードがたくさんある。例えば、皇帝がやってきた時の歓迎料理。これがすごいしろものだ。

 長いナイフでラクダを半分に切り、その半分をさらに半分に切ると強烈な匂いがただよい始め、スライスするたびにラクダの一部とレイヨウの一部が見え、そのレイヨウの中には七面鳥が入っていて、七面鳥の中には魚と詰め物と茹で卵の輪切りが入っていた……。

 この特選料理を黄金の皿とナイフで食べ、人々はそのうまさに「アー」と大声をはりあげるというのだから、ぶっ飛んでいる。

 笑うに笑えないエピソードもある。たとえば、ナチスの純血主義だ。ゲルマン女性を妊娠させるだけの“優秀な”精子を持っているかどうかを確かめるため、軍人の前で自慰をさせられるシーンは、グロテスクを突き抜けた滑稽さ、滑稽さをねじ伏せるグロテスクさがあった。


 「何も見ない、何も聞かない。と同時に『ありとあらゆるもの』を見なくてはならず、耳にしなくてはならない」。給仕としての職業倫理はそのまま、チェコの言論統制と重なっている。なにも知らないふりをしなければならないが、すべてを見ていないとつぶされてしまう圧力、権力者たちの欺瞞を本書は描いている。
 生きるのがつらい時代だったはずだ。だけど、笑えてしまうのだ。首を吊りたくなっても、孤独を恐れて鏡を部屋中に取りつけても、脳内に釘を打ち込まれる幻覚を見ても、絶望を語る彼の語り口はどこかで世界を肯定している。どこまでもナンセンスで馬鹿馬鹿しいはずなのに、エロティックで陽気で笑えるから、やっぱり私は酔っ払ってくる。ぐらぐら。



ボフミル・フラバルの著作レビュー:
あまりにも騒がしい孤独

河出書房新社 『池澤夏樹=世界文学全集』


recommend:
千野栄一『ビールと古本のプラハ』…フラバルと「黄金の虎」でピルスナーを飲み交わしたチェコ学者のエッセイ。
浦沢直樹『MONSTER』…ナチスが生み出した、悲劇の子供。
『英国王給仕人に乾杯!』…映画化もされている。