キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『木のぼり男爵』イタロ・カルヴィーノ

[ひとりぼっちの王国]
Italo Calvino Il Barone Rampante,1957.

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

 「でも木の上からだと、ずっと遠くにおしっこできるんだ!」
 「気をつけるのだ、コジモ! わしら全部の上におしっこできるものもいるのだ!」


 私が白水uブックスの存在を知って間もなかったころ、一番最初に手が伸びたのが『木のぼり男爵』だった。何がいいって、まずタイトルがいい。「生涯一度も木から降りなかった男爵の話」というあらすじも目を引いた。ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画『海の上のピアニスト』が好きだったから、「イタリア人は船にしろ木にしろ、一度上ったらかたくなに降りない美学でもあるのだろうか……」と首をひねったことを思い出す。


 奇才イタロ・カルヴィーノが描く「われわれの祖先」三部作のひとつ。舞台は18世紀イタリア。ディ・ロンドー男爵家の長男コジモがカタツムリ料理を拒否して木の上に登る、という衝撃的な書き出しから物語は始まる。彼は、木と木のあいだを移動することを覚え、枝を剪定して足場を整え、木の上にねぐらを作る。恋愛も風呂も勉強も盗賊との友情も、すべて木の上でやってのける。
 「彼は人を避けない隠遁者だった。それどころか、彼の心にあったのは人間だけだった、ともいえただろう」(p.89)とあるように、コジモはよく人と話をした。人々の相談に乗ったし、森の安全を守るために自警団を組織して指揮もした。樹上にありながら、コジモはそれなりによい「旦那」として才能を発揮したと言えるかもしれない。コジモは「樹上に設立されたる理想国家の憲法草案」なるものを書いて、「樹上の王国」を夢想した。


 だが、樹上の王国はひとりぼっちの王国だった。コジモは木があるところはどこまでも移動したが、それ以外には行けない。木の上に住む者と地上に住む者、そこには歴然とした「境界」があった。最もそれが噴出したのは、苛烈な恋人ヴィオーラとのやりとりだろう。ヴィオーラとコジモは樹上デートを繰り返すが、ヴィオーラは馬を駆って草原を疾走することを愛した。コジモは自分の領土では誰よりも自由だったが、彼女が屋敷に向かうたび樹上に「取り残される」。
 自分と他者との境界は、本書ではかなり戯化されているが、地上に住む者同士でも実はそんなに変わらないと思う。自分の世界を持つ者は、他者とのあいだにどうしても埋められない溝があることをいつか知る。

 コジモは来る日も来る日も、とねりこの木の上にいて、まるで、久しい以前から彼の心を思いわずらわせていたあるもの――<遠い>という思い、<満たしがたい>という思い、<待つことはこの人生よりもはるかに長引くかもしれない>という思いを、まるで――そのなかに読みとろうとしてでもいるかのように、草原を眺めていた。

 ユーモラスな設定に笑わされるにもかかわらず寂しい余韻を残していくのは、全編をとおして「喪失」と「孤独」がざわめいているからかもしれない。


イタロ・カルヴィーノの作品レビュー:
「宿命の交わる城」


recommend:
アレッサンドロ・バリッコ『海の上のピアニスト』…生涯、船から降りなかったピアニスト。
ライナー・チムニク『クレーン男』…世界をクレーンの上から眺めた男。


どうでもいい追記:
 [ひとりぼっちの王国]という冒頭の一言、最初に思いついたのは[木上の空論]だったのだが、「夜に言葉遊びを考えるとろくなことにならない」というじっちゃんの教えを思い出してボツにした。個人的には、ヴィオーラ女史の最強ぶりと、最後のコジモの跳躍が好きだった。夢のように消えて、後には何も残さない。ただ逸話だけが語り継がれていく。そんな人生を送れたらすてきだ。