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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『君のためなら千回でも』カーレド・ホッセイニ

[走り去る君は]
Khaled Hosseini The Kite Runner,2003.

君のためなら千回でも(上巻) (ハヤカワepi文庫)

君のためなら千回でも(上巻) (ハヤカワepi文庫)


君のためなら千回でも(下巻) (ハヤカワepi文庫)

君のためなら千回でも(下巻) (ハヤカワepi文庫)


 「君のためなら千回でも」といって、少年は走り去った。そこが悲しき分岐点。


 アフガニスタンの首都 カブール生まれの作家による、悲劇と贖罪の物語。
 凧あげの話である。原題は「カイトランナー」(凧追い)。安いメロドラマのような邦題なので、何とはなしに敬遠していたが「すぐに読める」と言われたので挑戦した。思ったより重い内容だが、どうも他の人のように「傑作」とは呼べない。たぶん、単純にいえば「好きではない」のだろう。主人公アミールの性格も、ごてごてしすぎる「悲劇」の味つけも。


 舞台は1978年のアフガニスタン、カブール。ソ連侵攻の前後を描きながら物語は進む。主人公アミールは裕福な家に生まれ、偉大な父親ババを尊敬して、アミールを心から敬愛する召し使いハッサンらと一緒に暮らしていた。アミールは典型的な坊ちゃんで、甘やかされて育ち、父親の愛情を貪欲に求める。しかし、男らしさを求める父親の要望に応えられないから、愛されたいのに愛されない。その渇望が彼を卑屈な人間へと成長させる。

 「君のためなら千回でも」は、ハッサンのセリフだ。「君のためだったらいくらでもがんばるよ」というような意味合いらしい(アフガニスタンではよく使われる文句なのだろうか?)。アフガニスタンでは、年に1回大きな凧あげ合戦があって、そこで子供たちは自分の名誉をかけて凧の腕を競う。日本の凧あげと違い、アフガンの凧あげは「相手の凧を落とす」ことが戦いのポイントとなる。ガラス糸をうまく操って、相手の凧に近づいてその糸を切り落とす。落ちた凧は「カイト・ランナー=凧追い」と呼ばれるパートナーが走っていって拾い、拾った凧数で勝敗が決まる。ハッサンは誰よりも優秀な凧追いだった。
 凍てつく冬の空に色とりどりの凧が舞い、子供たちは糸を操り、指を血でにじませながら数時間かけて戦うシーンが鮮烈な印象を残す。落ちていく凧を視界にとらえながら、入り組むカブールの路地を走り抜けるハッサンの姿。そこが分岐点。平和は終わる。


 戦禍前のアフガンを私はほとんど知らない。だから、郷愁あふれた平和なカブールの描写はよかった。
 だが、それ以外はどうも性に合わない。アミールの独白は、読んでいて始終イライラさせられる。自分より優れているくせに、立場上と信念上からアミールを尊敬するハッサンへの残酷な嫉妬心は、どろどろとにごるタールのようだ。それだけならまだいい。彼の弱さと卑屈さに心を刺される人は多いかもしれない。だが、この黒い気持ちはアメリカに行くと消える。アミールは人並みに恋をして結婚し、父親とも和解する。それが、どうにも大味すぎる気がしてならない。おまけに、変態タリバンとの決戦の時は、あまりに構成がべたべたすぎた。


 題材はいいし、アフガンの風俗をいくつも知ることができる(アフガン人は映画のラストを知りたがることとか。ネタばれという概念はないらしい)。だけど、いまいちだなあと思うのは、全体的に「too much」で「劇的すぎる」からかもしれない。
 「友人」と言いきれないハッサンとの奇妙な関係。その背後にある嫉妬心と独占欲、そしてプライド。犯した罪と贖罪。どれもよく分かるのだが、総じてマキューアン『贖罪』の方が優れている。凧追いのシーンなどは迫真にせまる描写だったから、むしろこの作品は映画で見た方がよかったのだろうか。


recommend:
イアン・マキューアン『贖罪』…子供が犯した罪を、大人になってからあがなう。
アティーク・ラヒーミー『灰と土』…ソ連が侵攻した後のタリバン