キリキリソテーにうってつけの日

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『コリオレーナス』ウィリアム・シェイクスピア

[目的なき英雄]
William Sharekspeare The Tragedy of Coriolanus,1623.

コリオレーナス:ああ、そんなことがおれにやれるか! おれの真実をみずから汚し、からだの動きを1つ1つもって消し難いいやしさを心に教えるようなことが!


 高潔な英雄か、はたまた傲岸な堅物か? コリオレーナスの心を読みきれない。

 ローマの英雄 コリオレーナスの一生を描いた、シェイクスピア後期の悲劇。それなりの厚さであるはずなのに、最初から最後までコリオレーナスの性格や信条が分からなかった。言っていることははっきりしているし、行動もしているのに、その動機がさっぱり読めない。この人物描写はいったい何なのだ?


 コリオレーナスはヴォルサイ人との戦いで他者の追随を許さない功績を挙げ、国と市民から「英雄」と讃えられる。執政官に推挙されたコリオレーナスは、役職に就くために「市民に好かれる」必要があった。しかし、彼は市民を「あんな奴らは何も考えていないクズだ」と悪しざまに罵り、彼らを敵に回してしまう。市民との対立をこれ幸いとばかり、コリオレーナスの活躍を快く思わない護民官たちが、「媚びない英雄」追放の罠を張りめぐらせる。

 本劇に出てくるほとんどの人は、「何も考えていない」気がする。まず、「市民」。ローマという国で重要な立場である市民は、何も考えていない愚鈍な人々、オルテガをはじめとする社会学者が「大衆」と呼んだ人々、啓蒙教化の対象として描かれる。彼らは気まぐれに支持者を変え、状況が変わると手のひらを返したように自説をひっくり返す。「大衆」というカテゴライズや言説には食傷気味だが、政治などで付和雷同する人たちは確かに存在する。そんな市民という存在を、コリオレーナスは唾棄すべき存在として忌み嫌った。彼らのために頭を下げたり媚びたりするのはもってのほかと言い放ち、市民を罵倒した。

 だが、コリオレーナス本人も、実はあまり何も考えていなかったのではないか? 「民衆など嫌いだ。媚びる人間も嫌いだ」という明確な意思はあった。しかし、ならばコリオレーナスは何のために敵と戦ったのだろう? のちに敵側に寝返って民衆を殺しまくるような人間だ。「民衆を守るため」なんて動機は欠片もなかったに違いない。地位のためでもない、姦計めぐらす国政のためでもない。おそらく、コリオレーナスは「戦いのために戦った」。
 「目的なき英雄」、力はあるが目指すものを持たない“空っぽ”な指導者。いつ暴発するか分からない戦車のようなものだ。こんな存在はやはり怖い。コリオレーナスを暗殺しようとした人々の恐怖は、あながち間違っていなかったのかもしれない。


 コリオレーナスという人物を、ある人は「この世に生きるには高潔すぎる」と評価し、ある人は「恐ろしく傲慢で、平民を愛してはいない」と評価した。本当はどちらだったのだろう、と考えることはおそらく意味がない。人間という不可思議な存在を、一言で言いきろうとするのがどだい無理なのだ。こういうもやもやした人物を描くことについてはシェイクスピアは天才的だとあらためて思った。

 誰もがあまり何も考えていない、考えなしの王国。だが、世界はこれまでもこれからも、そういうものかもしれない。国が破綻しても、土地はそこにあるし、人は生きて、地球は回り続ける。
 シェイクスピア作品の中では「特異な作品」として位置づけられているようだが、私はけっこう好きだった。


シェイクスピア全集
 

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