キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『アレクサンドリア四重奏』ロレンス・ダレル

[愛、この一言が]
Laurece Darrell The Alexandria Qualtet,1957-1962.

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ


アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール

アレクサンドリア四重奏 2 バルタザール


アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーブ

アレクサンドリア四重奏 3 マウントオリーブ


アレクサンドリア四重奏 4 クレア

アレクサンドリア四重奏 4 クレア


 ぶ厚い4冊のハードカバーの最後の巻、最後のページ、最後の一文を読んだ後、一息ついてから序文を読み返した。

 この4巻の小説群は、『アレクサンドリア四重奏』の総称のもとに単一の作品として読んでもらうことを意図している。内容にふさわしい副題をつけるとすれば「言語連続体」となろうか。私はこういう形態を明確にするために、ごく大まかな類比として相対性理論を選んだ。 ――序

 多くの科学者が嫌がるのを承知のうえで「相対性理論」を文学に持ち込むなら、「時空と空間は見る者の立ち位置によってその姿を変える」ということだろう。「世界は主観的にしか語れない」「この世に真の“客観”は存在しない」ことを、ロレンス・ダレルはテーマにしたのだろうか。


 物語の構造について。『アレクサンドリア四重奏』は、「ジュスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーブ」「クレア」の4冊から成る「重層構造」小説だ。「ジュスティーヌ」から「マウントオリーブ」までの3巻は、同じ出来事を違う人の目線から語り、巻が変わるたびに新しい事実が発覚する。

 舞台はイギリス領エジプト、アレクサンドリア「ジュスティーヌ」の語り手はダーシーという作家で、メリッサという恋人を持ちながら人妻ジュスティーヌに激しい恋をしていた。ダーシーは、ジュスティーヌとの情事や恋の苦悩について、孤島で記録を書きつづる。

 ところが「バルタザール」では一転する。典型的なダメ男ダーシーの独白について、「君の物語は嘘に満ちあふれている。ジュスティーヌが本当に愛していたのは別の男なのだ」と、男色の友人バルタザールがばっさり切り捨てるのだ。ダーシーを中心とした三角関係の物語は、語り手の交代によってがらりとその姿を変える。ジュスティーヌとその夫ネシム、哲学者のパースウォーデンが物語の中心となり、ダーシーはあて馬役にまで後退する。

 もはや三角関係どころではない。恋情は枝葉を広げに広げ、誰が誰を愛しているのかが分からなくなっていく。そうした複雑怪奇な恋愛模様の裏に、「パースウォーデンの自殺」「政治的暗躍」がちらり、ちらりと陽炎のように姿を現しては消える。

 「マウントオリーブ」では、外交官マウントオリーブを主人公として、アレクサンドリアの政治的背景、これまで空気だったジュスティーヌの夫ネッシムの企みが分かる。そして「クレア」。ここでようやく、別の目をとおして三たび語られた空間からようやっと離脱し、「その後」の物語が明かされる。


 ぼくらは選びとった虚構の上に築かれた生を生きる。ぼくらの現実感覚は自分たちが占める空間と時間の位置に左右される――ふつう考えるように、ぼくらの個性に左右されるのではない。だから、あらゆる現実解釈はそれぞれの独自の位置にもとづいてなされるのだ。二歩東か西によれば画面のすべてが一変する。

 本書の中で中立的な立場をとり、自殺したパースウォーデンの言葉だ。私は彼の行動がとても気になった(正直、ダーシーにはうんざりだった。女々しい男の独白は読むことはつらい)。パースウォーデンの一挙一動は動機が分かりにくい。だからこそ、最終巻「クレア」で彼が自殺した理由を知ったときにはうなった。

 パースウォーデンが言うように、私たちは「自分が知っていること」「自分がいる場所から見えること」を中心に世界を構築する。人は自分が見ようとするものを知覚する。裏を返せば、知らないことはうまく認知できない(認知学で言えばアフォーダンス理論、文学で言えば『ソラリスの陽のもとに』あたりがこのテーマを扱っている)。

 知覚が個人の「ものさし」と立ち位置によって決まるなら、誰も「本当のこと」は知りえない。だが、いろいろな視点を重ね合わせることで、それらしきものは見えるかもしれない。だからこそ、この物語は四重に語られるのだろう。思い込みと盲目の上に成り立つ「恋」をこの仕組みに乗せたところに、ロレンス・ダレルの奇妙なユーモア精神を感じる。

 結局のところ、わたしたちはお互いにまったく無理だった。お互いに自分で選りわけた虚構を差し出していたんだもの。きっとみんな同じように、途方もない無知のままでお互いを見ているのね。

 アレクサンドリアでは、誰も彼もが恋をしては別れゆく。だが、心は悲しいほどに相手には届かない。登場人物がほぼ全員片思い状態で、人々は幻想的な都市を彷徨する。


 「異国情緒メロドラマ・政治ミステリ風味」と言ってしまえば身も蓋もない主題を重層構造で語りきった本書を、21世紀は覚えておくべきだ。過剰な独白や突然のどたばた、プルーストを思わせる色彩描写など、やや過剰に感じ途中で投げそうになったが、最後まで読んだ時の不思議な解放感が忘れられない。

 愛、この言葉について、人は空が落ちるように唐突に、その意味を知る。

 そう、ある日、ぼくは震える指で四つの言葉(四つの文字! 四つの顔!)を書きしるしているのに気がついた。世界がはじまって以来、あらゆる物語作者はこの言葉によって超数の注意を引こうとおのれの数ならぬ存在をかけてきたのだ。

 「しかし、これはまったく正解だった――この愛という言葉は」

 
recommend:
クレア・キーガン『青い野を歩く』…「人生のある時点で、ふたりの人間が同じことを望むことはまずない。人として生きるなかで、ときにそれはなによりもつらい」
トルストイ『アンナ・カレーニナ』…恋の巨大なジオラマ。
入不二基義相対主義の極北』…事実は人ごとに異なるという思考を突き詰める。


追記:
 エジプトでありながらヨーロッパの風情をたたえるアレクサンドリアの風景描写がいい。ライラック色にかすむ夕暮れの空を背景に、ぽつぽつりと緑の街燈が灯り、赤と乳白の帆が港で翻っているらしい。印象派の絵画みたいな、幻想的な風景を思い起こしながら読んだ。色のイメージは、わりと本の表紙そのまま。個人的には「ジュスティーヌ」「バルタザール」の2冊がしっくりくる。