ボヘミアの海岸線

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『白鯨』ハーマン・メルヴィル|世界は鯨でできている

 あのゆるぎない塔、あれはエイハブだ。あの火山、あれもエイハブだ。あの雄々しい、不とう不屈の、かちどきの声をあげる雄鶏、あれもエイハブだ。何もかもがエイハブだ。

 「おお、エイハブ!」スターバックがさけんだ。「いまからでも遅くはありません。ご覧ください! モービィ・ディックはあなたを求めてはいません。やつを狂ったように求めているのは、あなた、あなたなのです!」

 メルヴィルが心の中に抱いていた地球儀は、きっと鯨型であるに違いない。

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 上 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 中 (岩波文庫)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)

白鯨 下 (岩波文庫 赤 308-3)



 『白鯨』は、特に読み手の評価が分かれる書物だ。「アメリカ文学史上の傑作」と褒めたたえる人もあれば、「読みにくいことこの上ない」とけなす人もある。わたしは、本書を楽しめるまで4年かかった。初読時は上巻で挫折し、2年後には中巻をほぼ飛ばし、そして今年、ようやっと面白いと思えた。

 本書は「奇書」である。紙面の上に踊る文字は、荒れ狂う波にもまれる船のようで、あっちに行きこっちに行き、ようやく羅針盤が示す方向へ進んだかと思えばまた脱線して蛇行、ちっとも進んでくれない。だからこの奇妙な本に「ストレートな物語性」を期待してはいけない。

 そもそも、『白鯨』は鯨にまつわる物語ではない。隻脚のエイハブ船長が仇敵の「白鯨」モービィ・ディックと戦う物語でもない。本書は、世界をすべて「鯨」というモチーフで語ろうとする「思想書」だ。物語というよりは神話、宗教に近いと言った方がいいかもしれない。
人の営み、愛情や憎しみ、人間関係、学問、自然の脅威、生と死、世界の成り立ち、宇宙の謎、こうしたものをいっさいがっさい「鯨」と「捕鯨船」で説明しきろうとする。とんでもない荒業をやってのける、そこがすごい。


 捕鯨船ピークォッド号は、「地球号」と呼びたくなるような人間世界の縮図として描かれる。乗組員はそれぞれが個性を持ち、命令を受けて仕事をし、ときに友情を、ときに憎しみを育む。彼らの関係性を象徴する、印象的なエイハブ船長のセリフがある。

 「スターバックはスタッブの裏返しで、スタッブはスターバックの裏返しだ。そのうえ、ふたりとも全人類を代表しておる。だがな、エイハブは何百万という人間がすむ地球にただひとり立つ。神々も、人間どもも、わしの隣人ではない」 (「133章 追跡――第1日」)

 エイハブ船長は、ただ1人モービィ・ディックへの熱狂を抱いて甲板に立つ。誰も、彼の狂気を理解する者などいない。哄笑しながら破滅にこぎ出す主に意見を申し立てる人物は、一等航海士のスターバックだけだ。スターバックとエイハブは、「2人で1人」と言えるような、不思議な表裏関係にある。彼らの会話は言葉の刃で切り結んでいるようで、ぞくぞくする。主人公イシュメールと人食い人種クィークェグの友情も非常におもしろい(一緒のベッドで寝ていたときの仲の良さっぷりといったら)。


 本書の真骨頂は、下巻の「追跡」にある。羅針盤をぶち壊し、もう戻れないところまで自分を追い込んで白鯨を追うエイハブの狂いっぷりに目をみはる。たぶん、エイハブは出港する前から狂っていて、物語中ずっと狂っていた。だけど、狂気があまりに鮮烈に噴出するラスト数章は、やはり驚いた。
 ここまで来ると文句なしにおもしろいのだが、しかしここまでがかなり長い。というわけで、『白鯨』を楽しめない、もしくは奇怪すぎて手を出せないという人が『白鯨』を楽しめる策を考えてみた。


エイハブvs.モービィ・ディックの物語

 本書の構造は、ざっくり言えば「サンドイッチ」状になっている。はじめにイシュメールが語り手として登場し、エイハブの船に乗り込むまでの物語がスタートする。ところが全体の3分の1ほど進むと、鯨にまつわる膨大な記述がどっかと割り込んで、なかなか先に進まない。じりじり、じりじりと寸刻みで物語が進み、最後の数章で一気に収束する。

 エイハブとモービィ・ディックの戦いは、ラスト3章というあっけなさ。この対決を期待して読むと、途中で「むり」と放り投げることになってしまう。でも、それはあまりにもったいない。

 物語としての物語を最初から期待しないで読めばいいのだろうが、中には「最初はエイハブvs.モービィ・ディックの物語を追ってしまう」という人もいるようだ。わたしはあまりおすすめしたくはないが、それで挫折するのはあまりにももったいないので、白鯨アレルギーが発症し始めたら、「109章 船長質のエイハブとスターバック」に飛んで、その次の110章を読み、そして「124章 羅針」あたりまで物語を早送りしてもよいかと思う。その間には「ピークォッド号、○○号に出会う」という章が途中で何回か出てくる。これらは白鯨に関する情報を集めている章なので、もし体力があるなら読みたい。

 わたしの場合、最後までどうにかこうにか読みとおしたが、つらいところは何章か飛ばした。それでも物語としてだいたいは理解はできる。最後まで読みとおした後にようやく心の余裕が出てきて、次には途中の「鯨学」をちゃんと読めた。無理して1回で読もうとして挫折するくらいなら、最初はライトに読み飛ばしてもいいと思う。何度も読んでこそ、本書は味わいが出る。


ときに大笑いできる訳文

 岩波文庫版『白鯨』は翻訳がいい。特に上巻には笑いどころが満載で、とても楽しい。

 都会そだちのダンディは田舎じこみのダンディには太刀打ちできるものではない――わたしの言うのは、土用のさなかに、二エーカーの作物を刈るのに、手が日焼けするのを心配して鹿皮の手袋をはめるといった本物の田吾作ダンディのことだ。 (「第6章 通り」より)

 田吾作ダンディ。

 「ネズミの足音さえ聞こえましぇん。そいから、ずうーと、ずうーと、しずまりかえってて、コトリとも物音がしぇん。でも、あたし、たぶん、おまさんがたふたりが外出したとき、荷物をぬすまれない用心に、部屋にかぎをかけていったとばっかし思ってた。あーら! あーら! たいへん、おかみはん! ひとごろし! ハッシーのおかみはん! 脳卒中でーす!」
――こうさけびながら女中は台所へはしり、わたしはそのあとを追った。 (「第17章 ラマダーン」より)

 原文はどうなっているのか。

 あわれ、フラスクはバター抜き男だった! (「第34章 船長室の食卓」より)

 まさか、この文脈でこういう言葉のチョイスをしてくるとは思わなかった。


 捕鯨船の野郎どもの「ののしり言葉」もおもしろい。「ロバだ、ラバだ、トンマだ」といった小学生レベルのものから、「あわれなるかな! 団子小僧よ!」というハイレベルなものまで、実に豊富な品ぞろえである。翻訳者の八木敏雄氏の言語センスは、「メメタァ」「ゴシカァン」的な、妙に耳に残る響きとテンションの高さがすばらしい(名セリフはもちろん格好いい)。


野郎どもの食卓

 柴田元幸氏がエッセイ『つまみ食い文学食堂』で紹介しているように、『白鯨』の食事描写はなかなか興味深い。例えば、イシュメールとクィークェグが訪れた「にこみ亭」のチャウダー料理。「ハマグリ、それともタラ?」としか聞いてこないハードボイルドなハッシーおかみさんが作る料理は「小型だが多肉質のふとったハマグリに、くだいたビスケットと、潮豚の薄切りをまぜ、バターをたっぷりとかしこんでこくをつけ、塩と胡椒をしっかりきかせた逸品」(「第15章 チャウダー」)らしい。なんともおいしそうだ。
 捕れたて鯨肉のステーキ(「スターバックの夜食」)といった野趣あふれる食事もある(ペルーで食べたアルパカ肉の石焼きを思い出した)。鯨油で揚げた揚げパンは、ちょっとつまんでみたい。これは有名な話だが、航海士スターバックの名前は「スターバックスコーヒー」の由来となった。彼の名前をつけるのはわかる気がする。スターバックは本当にかっこういいのだ。


 「お前がいる限り、私は先に進めない。お前が滅びるか、私が滅びるかしかない」と執念に身を焦がす男は吠えた。戦争の、ある1つのシンプルな動機である。エイハブは白鯨(世界、あるいは全にして一と呼べるものか)に盛大な喧嘩を売って、木っ端みじんに砕け散った。エイハブは世界に喧嘩を売る狂人だが、やはりどこまでも人間だった。エイハブがマストに打ち付けた金貨は、いずれこの物語を知らない人が発見し、さまざまな憶測を立てるだろう。

 とにかく壮大すぎる、あまりにもでかい鯨的な物語だった。あちこちに散りばめられている名文句、名言が気に入って、すっかり読みつぶしてしまった。4年をかけた甲斐があった。

そこで勝負はあった! 人間さまの勝ちだ。わしをひるますだって? わが確固不動の目的に通じる道には鉄路がしかれていて、わが魂はそのレールのうえをひたはしるのだ。千尋の谷をわたり、重畳たる山の懐をぬけ、川床をくぐり、ひたすら驀進する! 鉄路に邪魔者はない! 屈折もない!

 「そうだ、よいか、わしらはこの世でグルグルとまわされているだけのだ。あそこの巻き上げ機みたいにな。そして運命とはあれをまわす梃子なのだ。それに見よ! あのほほえむ空を、この底しれぬ海を! 見よ、あそこをゆくマグロを!」

 人間の権利とか自由とかは、「はなれ鯨」でなくて何であろうか? 人間の精神も意見も、「はなれ鯨」でなくて何であろうか? 信仰の自由と言う原理もまた、「はなれ鯨」でなくて何であろうか? 剽窃をこととする見栄っぱりの美文家にとって、自前でものをかんがえる思想家の思想は、「はなれ鯨」でなくて何であろうか? この大いなる地球そのものは、「はなれ鯨」でなくて何であろうか? ところで、読者諸氏よ、諸君自身は、「はなれ鯨」にして「しとめ鯨」でなくて何でありましょうか?

 「しかし、おまえにできることは、つまるところ、何だというのだ? おまえと、おまえをあやつる手が、たまたま居合わせることになったこの広大な惑星のなかの微小な、とるにたらぬ一点を告げるだけではないか? それだけだ! たったそれだけだ!」


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「『ニンジャスレイヤー』と『白鯨』のテンションがなにやら似ている」と、スフレを食べているときにブッダのオツゲが降りてきたので書いた。

 

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Herman Melville Moby-Dick; or, the Whale、1851.