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キリキリソテーにうってつけの日

海外文学/世界文学の感想ブログ。

『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』エミール・ハビービー

中東文学 ☆☆☆

[よかったよ、違う風にならなくて!]
Emile Habiby Al-Waka'i al gharieba fi ikhtifa Sa'ied Aboe an-Nash al-Moetasaja'il、1974.

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事

悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事

 兄貴は頭もなければ内臓もない、バラバラの肉片の寄せ集めの姿で家族のもとに返された。……そのときおふくろは黙って嫁に寄り添い、一緒に泣いていたが、突然飛びあがると手と手を打ち合わせて叫んだ。
 「こうなってよかったよ、違うふうにならなくて!」
 「違うふう、ってどんなふうがあるってのよ、ナハスのおっかさん! これより悪いふうなんてあるもんですか」
 「娘や、そりゃああの子が生きていいるうちにお前が“連れ去られる”ことだよ。つまり、お前が他の男と逃げるってことさ」


 突き抜けた「悲観屋」がこぼすのは、おそらく涙ではなく哄笑なのだろう。中途半端な悲観屋はただの悲観屋だが、究極の悲観屋は「悲楽観屋」となる。「最悪のことは起こっていない。よかったよ、違うふうにならなくて!」

 イスラエル内にとどまって生き延びたパレスチナ人が語る、パレスチナの歴史。「自分は不幸だ……」と悲嘆に酔う人は読まないほうがいい。きっと読んだことを後悔する。


 この世に神話じみた悲劇が起きる土地はあるかと聞かれたら、迷わず「エルサレム」あるいは「パレスチナ」の名を挙げるだろう。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が「聖地」とみなした土地。ディアスポラから始まり、ユダヤ人差別、十字軍、ホロコーストを経てイスラエル建国まで……かの地の歴史をふり変えると、その冗談のような悲劇性に唖然とする。

 しかし「サイード=幸せな男」という名を持つ男は叫ぶ。「よかったよ、違うふうにならなくて!」
 「ユダヤ人入植とパレスチナ難民の誕生」という、ものすごく重い内容のはずだが、語り口は軽妙で明るい。なので、それほど沈鬱な気分にならない。膨大な注があるため、パレスチナ問題の良質な入門書ともなっている。


 イスラエル建国後、難民とならず国内にとどまったパレスチナ人が2割もいるということを初めて知った。パレスチナ難民からは「裏切り者」のレッテルを貼られ、イスラエル人からは「反逆分子」とみなされる、こうもりのような人々。そう、彼らは「語られない人々、黙殺された人々」である。

 「『ゆりかごから墓場まで』なんて言葉はない。私たちにとっては『包囲から包囲まで』だよ」と、パレスチナ人は語る。ユダヤ人たちのなりふりかまわない土地強奪方法には心底あきれ果てた。一瞬でも村を離れれば「土地放棄」と見なして巻き上げる。銃をもって住民を脅し、虫けらのように銃殺する。
 人は、パレスチナ問題を「この世に存在する最も難しい問題」と呼ぶ。だけど、主人公はものすごくあっけらかんとしていて、土地を追われても、恋人を拉致されても、家族を殺されても、刑務所にぶちこまれても、語り口はいつも明るい。しかも、「私は宇宙人にアブダクトされました!」と言い張っている。ただの狂人? 確かにそうかも。だけど、本当に狂っているのは誰だろう。

 どうです、わが一族は悲観屋ですかい、それとも楽観屋?

 私には答えられなかった。


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